第7話

顔を変えた男


 佐伯の店は洒落たバーのような雰囲気を持つカフェだった。アルコールもメニューにはあるし、軽い軽食もある。薄暗い店内に真ん中におしゃれな水槽が置かれ、クラゲがふわふわと浮かんでいた。


「今日は奢りだから、楽しんで」と言って、テーブルにメニューを置いて、ボーイのところへ言った。


「ママ? オーナーさんって何してるの?」と恵梨は祥子に聞いた。


「オーナーさんは…いろんなお店がうまく行くように気を遣ってるのよ」


「ふーん」というと、恵梨はメニューからチョコレートパフェを選んだ。


 美湖はオレンジジュースにする。祥子はピザとミックスサンドとコーヒーを頼んだ。


「祥子さんはオーナーとお知り合いなんですか?」


「うん。バンコクで知り合ったの」


 佐伯はバンコク市内で外資系ホテルでインターンシップとして働いていた。バンコクには旅行客だけでなく、住んでいる日本人が多く、駐在員などもたまにホテル生活を楽しむために滞在したりする。だから日本人である佐伯は重宝されていた。


 そんな佐伯が祥子と出会ったのは、まだバンコクに来て早々の道端だった。休みの日は歩いていろんなところへ出かけたが、今日は水路を走る船に乗った。人が多くて、降りるに降りれず、適当に降りると、自分がどこにいるかわからなくなった。まだタイ語は流暢にできないので、道を聞いたとしても教えてくれている内容がきっと分からない。バイクタクシーに乗ろうにもどこまで、というのを、そもそも今どこにいるのか分からなくて、どこまで…も言えるはずがない。困ったな、と南国特有の暑さと湿度で参っていた時に、


「お困りですか?」と祥子に声をかけられた。


「あ、こちらに住んでいる方ですか」とほっとして道を聞いた。


「水路に乗ってしまったの? それでこんなところまで?」


「えぇ。だから困っていて」


「すぐに家に帰られる? もし時間があるなら、美味しいご飯ご馳走するけど」と祥子は言った。


 明らかに日本人に見えるが、向こうから声をかけてきて、佐伯は一応怪しんだ。すぐに祥子はそれに気づいたらしく「あ、私の恋人のお店なの。タイ料理をしてるんだけど…。イギリス人で…。コックは雇ってるんだけどね。こんな外れた場所でしょ? 内装も味も良いんだけど…。あまり来てくれなくて」と説明した。


「お店してるんですか?」


「まぁ、経営は彼で…。私は内装とか、そういうのだけで」


 いつかは自分の店を開きたいと思っていた佐伯は行ってみようと言う気になった。


「すぐそこよ」


 本当に水路の船のホームからすぐだった。川沿いに建てられて、オープンエアの客席があり、ラタンの家具と、天井には大きな扇風機が回っている。そして周りの自然に生えている木が木陰を作ってくれていた。


「なるほど…素敵ですね」


「えぇ。まぁ、味も良いのよ。なんでも作ってくれるけど、何が食べたい?」


「おすすめで…」


「お酒飲むなら、コームーヤーン(豚の喉肉焼き肉)とか。お腹空いてるなら、ガパオとか?」


「あの…コーヒー飲みたいです」


「あ、そう? あるわよ。ねぇ、ケーキ食べる? バタークリームの。タイって暑いからか、バタークリームケーキが多くて、私嬉しいの」


 そんな話をして、誰一人いない客席に案内された。エアコンもないのか、と思っていたが、緩い風が川から吹いてくる。扇風機も回っているので、蚊も近づいてこなかった。


「どうぞ、ゆっくりしてね。帰る時、言って。駅までのバイクタクシーに乗せてあげるから」


 バンコクの午後はゆっくりしていて、時間ものんびりすぎる。インターンで働いているとそれなりに忙しいが、一歩外を出ると、ゆるゆるした時間を感じる。今日は休みなので、そのゆるゆるを堪能したかった。偶然だが、この店に来てよかった。

 インテリアも素敵だった。タイシルクのクッションが置かれて、鮮やかなアクセントになっている。自然に生えた緑と、調度品はアンバーの色で塗られた家具。そこにタイシルクが宝石のように散りばめられていた。


「いらっしゃいませ」と言って、恵梨が小さな手でケーキのお皿を運んでくる。


 ハーフとは言え、金髪で髪の毛がくるくるしていてお人形のようだった。


「えらいねぇ」と佐伯が誉めると、かわいい笑顔を見せてくれる。


「私の娘なの」と言って祥子がコーヒーを目の前に置いた。


「ケーキ食べる?」と佐伯が聞くと、母親の方を振り返る。


 祥子が頷いたのを見ると、喜んで、佐伯の隣に座った。穏やかな時間と不思議な空気感。きっと日本だったら声もかけることもないし、こうしてお茶を飲むこともない。祥子も自分のコーヒーを後から持ってきて、一緒に席に着いた。

 そこからたまに遊びに行くようになった。



 その件があって、祥子が彼氏と別れて、子供を連れて帰ってきた、と連絡があった時はなんとか力になろうとした。その時はまだ店は一店舗のみだったが、祥子に手伝ってもらって二店舗目を作った。祥子の感覚は世界を旅しただけあって、綺麗な宝石箱のような店ができた。靴を入り口で預かるようにして、中に入ると白い壁に床はテラコッタのタイルが引かれている。寒い日は床暖房も入っている。中東の家をイメージしたお店だった。それが受けて、いろんな使われ方をしている。


「恵梨は小さい頃、佐伯さんと会ってたのよ」と祥子は言った。


「え? ほんと?」と首を傾げた。


 バンコクのカフェに良くきていた、と言うと、眉間に皺を寄せて…「あの男の人? いつもケーキくれた? でも顔違う?」と言った。


「顔は変えたみたい」と祥子が言う。


「え?」と美湖は驚く。


 確かに佐伯は驚くほど、整った顔立ちで、日本人離れしていた。


「もともとも素敵だったんだけど…。まるで別人だから…。再会した時は驚いたわ」


「別人?」


「そう。まるで誰かになろうとした…っていうぐらいの」と言いながら、祥子はため息をついた。


 ボーイの代わりに佐伯が注文品を運んできた。


「祥子ちゃん、また一緒に働かない? 今度はタイ料理の店でもしようかな」


「私は作れないわよ。コックさん雇ってたんだもん」


「そっか。残念」と言って、恵梨の隣に座った。


 嬉しそうにチョコレートパフェを食べ始める恵梨を少し懐かしそうな顔で眺める。


「恵梨ちゃんは覚えてないかな…。ケーキあげたの」


「ケーキは覚えてるけど…。顔が…あんまり」


「あぁ、顔、変えたからね」とあっさりと言った。


 美湖はストローに顔を近づけて固まる。

 オレンジジュースはオレンジが挿されていて、手絞りの香りした。

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