第28話
願い事
仕事を終えて、一息ついた時だった。店の鍵を閉めようとした時、カバンの中で携帯がぼんやり光る。手に取って見ると、こんな時間に香里からのメッセージだった。
「玲、玲、ねぇ、見て」のメッセージに貼り付けられたリンクがある。
リンク先を開けてみると、他愛もない可愛い動物のショート動画だった。
こんなやりとりを櫂ともしていたのだろうか…と思いながら「かわいい」と描かれたスタンプを送って、鍵を閉めた。歩きながら、メッセージを送る。
「何か飼いたいペットがあるの?」と聞いてみた。
しばらくすると
「おすすめある?」と返ってきた。
なぜか分からないけど「クラゲは?」と聞いていた。
「クラゲ? かわいいの?」
「いや。どちらかと言うと気持ち悪い」
「何それ。でもクラゲ見たい!」とすぐに返事が来た。
さすがに櫂はきっとそんなこと提案しないんだろうな…と思いつつ、クラゲを持っていくことを決めた。さぶいぼが出るほど苦手なのに、それを運ぶ自分を想像すると少し笑える。
「眠れないの?」
「ううん。寝てたの。でもトイレに起きて…。なんか…玲と話したくなって」
「そっか…。電話しようか?」
個室になっていたから、時間は気にしなくてもよかった。
「うん」
「家に帰るまで…ちょっと話そう」
そして耳元で聞こえる香里の声が何だかくすぐったいな、と思いながら、佐伯はどうでもいい話に相槌を打ちながら、夜空を見上げた。都会の夜は星が数えられるほどしかない。
「玲…今、何見てるの?」
「空。都会の狭い星空。星が一つ…二つ…」
「目がいいんだね」
「いいよ。コンタクトしてるからね」
香里の笑い声が心地よく耳に響く。
「流れ星は?」と笑いながら訊く。
「流れ星は…ないかなぁ…。願い事?」と佐伯が目を凝らして空を見る。
「うん。願い事」
「きっと見えないけど、流れ星あるはず」と言うと、少し沈黙があった。
「玲…愛してる」
ずっと言い続けていた言葉が佐伯の耳を通り過ぎて行った。言い続けていた言葉は毒のように香里を侵食したのだろうか、と佐伯は思った。
「聞こえた?」
夜空を見上げて「うん。聞こえたよ」と返事をする。
「愛してる」
その言葉を拾い集めて、佐伯も返した。目を凝らしても、流れ星は一つもない空に願いを込めて。
淳之介は膠着する二人を前にため息をついた。ハンバーグとサラダというご飯を食べ終えた後、淳之介は自分の考えを二人に告げたが、案の定、強い反発を受ける。
「結婚しない」と祥子。
「結婚しちゃだめ」と恵梨。
二人で同じことを主張してくる。でも検査はともかく手術が必要となると、家族の同意書が必要だった。
「じゃあ、僕と結婚するのと、自分の親に頼るのとどっちが嫌?」と切り札を切る。
「どっちも嫌!」と即座に拒否された。
保証人代行サービスというものも存在するが、お金がかかる。
「どうしてそんなに頑なんだ?」と淳之介が聞くと、祥子もムキになって答える。
「淳之介君こそ、なんで同情で結婚なんて考えるの!」
「別に理由なんて…」
「淳之介君がパパになるのは嫌」と恵梨が口を挟む。
「恵梨ちゃん、ちょっと黙って」と淳之介が言うと、頰を膨らませ、目に涙を溜めて、淳之介を睨んだ後、足音を立てて階段を降りて行った。
「もう! 本当にありがたいと思うけど、離婚前提なんて馬鹿げてる」
「じゃあ、離婚前提じゃなかったらいいの?」
「何それ、本気のプロポーズなの?」と祥子に言われて、淳之介も言い返せなくなった。
好きだと言うのは簡単だけど、今の気持ちが何なのか説明つかない。
祥子にかつて別れを言われてあっさり受け入れたことを今でも後悔はしていた。もう少し話し合えばよかった、と。
でも今の気持ちは後悔でも何でもない。
「ほら! 好きじゃないくせに」と祥子は重ねて言った。
「好きって…そんなの分かんないけど、でも大切に思ってる」
淳之介は今、確信を持てることだけを言った。久しぶりに再開した病院で少しやつれてはいたけれど、そんなに変わらない姿を見た時は正直、懐かしさを覚えた。それまで祥子のことは蓋をして思い出さないようにしていた。
金銭的援助をしたのは、同情だけではなかった。
祥子が動けないでいると、携帯電話がメールを知らせた。
「あ…恵梨の…」と言って、メールを開く。
どうやら恵梨の父親からのメールだった。しばらく無言でメールを読むと、淳之介に言った。
「もう…日本にいるから、会いに来て欲しいって言われたんだけど…」
「え? でも…どうするの?」
「…とりあえず、なんのためか…それは確かめたいと思ってるから」
「分かった。僕も行くから」
「え?」
「だって、恵梨ちゃんは帰りたくないって言ってたし…。佐伯さんの店で待ち合わせしたら?」
「…そうね」と言って、祥子も正直、淳之介がついて来てくれるのは何となく心強かった。
淳之介は立ち上がって、皿を流しに持って行く。祥子はぼんやり座って、その背中に「ありがとう」と言った。
「…そんなの…別にいいよ」とそのまま皿洗いを始めた時、祥子が後ろから抱きついた。
「私…きっと…淳之介君のこと…辛くさせてしまうから」
水道を止めたくても、手が動かなかった。祥子の声が涙声だったから。
水が皿の汚れを流していった。
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