第29話
事情
流れ続ける水道を止めるために後ろから細い手が伸びた。あと少しのところで手が届かない。淳之介はその手に重ねて、蛇口を閉めた。振り返ると、祥子がキスをしてくる。泡だらけのスポンジを床に落とした。濡れた手で抱き締めることを躊躇していると、顔が離れる。
「ごめんね」と祥子が謝るから胸が苦しくなった。
「全部、引き受けるから…謝らないで」
「…恵梨のことも?」
淳之介は頷いた。
「…君が思うように、ちゃんとするから」
「ファミレスは…時々にして。ファーストフードも…たまにはいけど」
そんなことを言いながら、祥子は腎臓が悪い、と言った。詳しい検査結果は出ていないが、あまりよくないと思う、と言う。
「きっと長くは生きられないから。でも…好きに生きてきた罰かな」
「だから…恵梨ちゃんの食べ物に厳しいんだ」
「ダメな…母親で…」と少し笑った。
濡れた手をズボンで拭いて、淳之介は祥子を抱きしめた。どれだけ大変な日々を送ってきたのか…、想像すると胸が詰まった。もっと楽に生きれたはずだったのに、と淳之介は思う。誰かに頼ったり、もっと違う生き方ができたはずだ。
「私は…大切なものを自分から捨てたから…だから仕方ないと思って。でも…それ以外にもずっと自分の力を試したいっていうのもあった」
「…大切なものって」
「淳之介君。…若かったから、分からなかったの。でもあなたを傷つけて…私は辛かった」
淳之介は今更、話し合いもしなかったことを激しく後悔した。話し合いをしたところで変わらなかったかもしれない。でも一方的に祥子が悪者にならなくて済んだはずだった。
「…今度は…ずっと一緒にいよう」
「でも…結婚は。だって、あなたは恵梨の初恋だから」
子供が思う淡い憧れだと言うのに、祥子はその気持ちを蔑ろにしたくはなかった。嬉しそうに淳之介に買ってもらったダンボを抱いて眠る恵梨を見て、祥子は何とも言えない温かい気持ちになる。変な話だが、娘のその気持ちを大切にしたいという思いもある。
「とりあえず治療面での話もあるし、どうにか僕もお医者さんとも話をさせて欲しい」
祥子が頑なに頷かないので、淳之介は祥子の頭を軽く抑えて、頷かせた。
「ちょっと」と祥子が睨んだ。
恵梨の表情と少し被る。
「話くらい、減るもんじゃないし」とそれを思い出して、軽く笑う。
「もう、何で笑うのよ」と言って、体を捩るので、淳之介はさらに力を入れて、抱きしめる。
すると階段を登る音がして、恵梨が飛び込んでき
「ずるい」と言って、恵梨も抱きついてきた。
三人で固まりになる。淳之介はずっと一人で沈んでいたはずなのに、と思って、思わず笑ったら、恵梨にまで怒られた。
「何で笑ってるの」と似た顔で睨まれた。
同じことを言う娘に祥子も笑ってしまった。二人に笑われて、さらに腹が立ったようだったが、最終的には恵梨も笑い出した。結局、結婚話はうやむやにはなった。
佐伯が震えながらクラゲを買いに来た。
「あれ? 光輔君は忙しいんですか?」と淳之介は聞いた。
「店用じゃないから。プレゼントだから」
小さな虫を飼うプラケースを持って震えている。
「嫌いな人への贈り物?」と淳之介は言いながら、注意深く柄杓でクラゲを救った。
佐伯は顔を背けながら、プラケースを差し出す。そこにそっとクラゲを入れた。
「まさか…。大好きな人だよ」とクラゲを見ないようにして、蓋をしめる。
「はぁ…。何でまた…」
「何でか分かんないけど、気がついたら言ってたんだよ」
ちっとも蓋が締まりそうにないので、淳之介が蓋を閉めて渡す。ようやく落ち着いたのか、祥子のことを聞いてきた。
「結婚はまだ拒否されてるけど…。でもしようと思ってる」
「どうして?」
「腎臓…移植するには配偶者になる必要があるから」
「移植?」と佐伯は右の眉を上げた。
「僕の腎臓を移植したら…少しは良くなるだろうし」と淳之介はケースの中のクラゲを見ながら言う。
佐伯は驚いて淳之介を見た。自分も相当だと思ったが、淳之介も同類だ。
「どうぞ?」とケースを渡す。
「…できたら、一緒に来て欲しい」と佐伯が言った。
佐伯はどうしてもクラゲと一緒にドライブする気持ちにはなれなかった。
相変わらず店は暇だし、付き合ってもよかったが、淳之介は電話を一つだけかけさせて欲しい、と断って、二階へ上がった。仕事のことを保留にしたままだった。丸尾商事の担当者に電話をかけた。
「お仕事は引き受けさせて頂きますが、社員の話はお断りさせていただきます」と言いながら、何だか祥子みたいだ、と思う。
今まで懇意にさせてもらっていた会社の見積もりや、提案などはしてもいいが、社員としてではなく外部として引き受けると言う。別に特別高い報酬が欲しいわけではなかったが、もう会社員に戻る気はなかった。そちらで派遣社員に払っている時給で構わないと淳之介は言った。だとすると、会社にとってもメリットはあるはずだった。
思ってもいない提案に、今度は会社側が一度、相談させて欲しい、と言って電話は終わった。
別にどうしてもやりたい仕事でもない。ただせっかく言ってくれたのだから、仕事はしてもいい、それくらいの気持ちだった。
階下に降りると、佐伯はやっぱりサブイボを立てながら、クラゲを眺めていた。
「悪いけど、これ、持って」と言われて、ただのクラゲ持ち係になった。
助手席に乗ると事故を起こしそうなので、後部座席にクラゲ同伴で座る。
「…今日だっけ? 恵梨ちゃんのパパがうちの店に来るの」
「そうです」
「まぁ、店で暴れないといいけど」
「え? そういう感じの人ですか?」
「いや、違うけど」と佐伯は否定したが、淳之介は不安になった。
「ところでどこに行くんですか?」
「僕の眠り姫のところ…」
「眠り姫…」
そう言えば、そんな話をしていたな、と淳之介が思っていると、佐伯は香里のことを話した。まだ記憶が戻っていないようだけれど、記憶が戻ったらどうしていいのか分からない、と言う。助手席で恋人の死を見ていたはずだった。そんな記憶を思い出したとしたら…、きっと辛いことだろう、と淳之介も分かる。
「別に僕のことを愛してくれなくてもいいんだけど…。力にはなりたい…かな」と佐伯は言う。
「だからクラゲ?」
「クラゲは単なる思いつきだから。本当は可愛いものとか、綺麗なものとか好きだから」と佐伯は怒った口調で言う。
クラゲだって、人によれば綺麗なものの部類に入るのに、と淳之介は思った。ふとそれで、美湖のことを思い出した。元気にしているだろうか、と思いつつ連絡も取っていないし、取るつもりもなかった。
「淳ちゃん…。応援してるよ」と突然言われる。
「え?」と聞き返すと「って言って」と言われた。
「応援してます」と一応言っておいた。
手の中にあるクラゲを眠り姫が気に入ってくれたらいいな、と淳之介は思った。佐伯が事故を起こさないようにバックミラーに写りこまないようにこっそりと眺める。透明なクラゲはふわふわとドライブの揺れに揺れていた。
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