第30話

透明な嘘


 ツッタカター ツッタカター


(クラゲの皆さん。聞いてください。隊長が私のことを…放置して、お母様と結婚すると言い出しました)


 ふわふわ ふわっ ふわっ


(慰めてくださるのですね…。ありがとうございます)


 ぷわわん ぷわわん


(隊長はお母様のことを愛していらっしゃったのかしら? お母様は?)


 ぷわ〜ん ぷわ〜ん


(胸が苦しいです。失恋でしょうか。でもひどいです。その気もないくせに、おやつをくれたり、ファミリーレストランやディズニーランドに連れて行ってくれたり…。あれは本当に楽しい思い出でした。ダンボまでプレゼントしてくださったのに…)


 ふわり ふわ ふわ


(え? もしかして、あれですか? あの…馬が欲しければ…っていう、やつですか? あ、ショウさんを射んと…ってやつですか? 私が…馬だったのですか。…そんな。ひどい。

 いくらクラゲ大臣だとしても今の発言は許しません。触手を出しなさい)


 ペシペシ


 恵梨はクラゲのケースを指で弾いた。


 ぶわわん 


 クラゲが震えだす。


(ごめんなさい。八つ当たりをしました。でも私は…人魚姫みたいに、好きな気持ちも言えないまま泡になるのは嫌です)


 指をぎゅっと結んでクラゲのケースに押し付けた。


(でも子供としか見てもらえない…。実際、子供だし)


 ずるずると握った手を滑らせた。


 クラゲのケースに恵梨の顔が映る。大人になる魔法があればいいのに、と思った。明日には大人になっている、そんな魔法が。二階で二人がどんな話をしているのか、結婚することになったのかもしれない、とぼんやり考える。

 淳之介がお父さんなんて、恵梨には耐えられなかった。

 でもパパがお父さんになるのはもっと嫌だった。もうすぐ会いに来ると言ってたけれど…、一緒に住むことになったら、どうしようと不安に思う。今日はクラゲ王国のお姫様ごっこをしていても少しも楽しい気分になれなかった。

 天井を眺める。

 子供は会話に入れない。


「恵梨ちゃん、ちょっと黙って」


 淳之介にそう言われて、傷ついた。

 子供だって、意見を言ってもいいはずなのに、と恵梨は天井を睨んだ。



 クラゲを無事に香里のところに届けると、淳之介はすぐに病室から出た。あんなに優しい佐伯を見て驚いたのと、少し居心地が悪く感じたからだ。いつも淳之介をからかっている佐伯が本当なのか、香里の前にいる優しい男が本当なのか分からない。

 ただお互いに優しい関係で、佐伯はサブイボは立てていたが、必死で、虫ケースに入ったクラゲを両手で持って、香里に見せていた。


「綺麗。透明で…。全部…透き通ってて」


「…まぁ、これはマシな方かも…」


「まし?」


「幽霊みたいなのもあるから」


 それを聞いて、香里が笑う。淳之介は二人の間に入る気がしなくて、そこで出た。何か大切なことを忘れていたような気がしたけれど、それは今晩、恵梨の父親が来ることだっただろうか、と思いながらエレベーターを待った。廊下の向こうから日が差して白く光っている。いろんな病気で入院している人のことを思うと、祥子のことが心配になった。腎臓をあげられるのなら、あげてもいい。淳之介には守るものがないが、祥子には恵梨という大切なものがあるからだ。


「頑固…だからな」と呟いた。


 結局、話は少しも進んでいない。エレベーターに乗って、ふと、クラゲは病室に置いて置けるのだろうか、と考えた。それに、さっき忘れていた大切なことを思い出す。餌のやり方を教えていなかったし、もしクラゲを持って帰るのなら、佐伯は無事に運転できるのだろうか、と思っていたから、それを確認するのを忘れていた。エレベーターが下に着くや否や、また今までいた階のボタンを押した。幸い、誰も乗ってこなかったので、不審に思われることがなかった。

 佐伯の邪魔にならなように出たが、確認してから帰ろうと思った。

 閉まった扉の前に立っていると、看護婦さんがカートを押して来た。


「あ、すみません」と横に避けると「お知り合い?」と聞かれた。


「佐伯さんの…」


「あぁ、あの方…。ずっと毎日いらしてて。目が開かない時もずっと。だから本当に良かったですねって、みんなで言ってるの。ベッドの周りを花だらけにしてしまうし…。でも持って帰っていいですって声かけてくれたから…」と言って、ノックをした。


 部屋の中ではまだ二人でクラゲを見ている。逆光ではっきり見えないが、佐伯が固まって動かないシルエットはまるで宗教画のように感じた。


 祈り。


 ずっと目が覚めるように、ずっと、彼女の側で祈り続けていた。

 淳之介はその姿がとてつもなく高貴に思えた。が、次の瞬間、その思いはすぐに消える。


「淳ちゃーん。これ、受け取って。もう腕が痺れる」と情けない声でこっちに言う。


 看護婦さんは「今日は花じゃなくて、クラゲ何ですか? 生き物は持ち込み禁止ですよ」と言って怒っていた。


 そう言うわけで、クラゲはすぐに撤収されることになった。

 淳之介はクラゲを受け取って部屋を出ようとしたら、佐伯に「せっかくだからコーヒー買ってくる。待ってて」と言われた。


 看護婦さんがテキパキと検温やら、血圧を測っている。


「クラゲ…綺麗ですけど、ダメですよ」と淳之介も怒られた。


「私が頼んでしまって…ごめんなさい」と香里が謝る。


「まぁ、あの人、言えば…何でも望みを叶えそうですもんね」と言って、カルテを記入する。


 香里は少し笑って、もう一度謝った。


 看護婦さんは「絶対、お持ち帰りくださいね」と念を押して、部屋から出て行く。


「私のせいで」と香里が謝る。


「いいえ。売れたので良かったです」


 何を話せばいいか迷っていると、クラゲをすぐ横の棚に置いてほしいと言われた。言われた通りに置くと、陽が当たり、クラゲの透明感が増した。


「すごく透明。内蔵とか…見えるんですか?」


「そうですね。面白いのは餌を食べたら、それが丸見えで…」


「へぇ。隠し事もできないですね」


「隠し事? クラゲが?」と淳之介は日に晒されて透明なクラゲに目をやる。


「そうです。もし私がクラゲだったら…。こんなに透明じゃないです」


「透明じゃないクラゲもいますよ」と淳之介は随分、的外れなことを言っていると思いながら答えた。


 佐伯と香里の間に何があるのかは分からないが、それを淳之介が聞いていいはずはなかった。


「そう…ですか」と香里は透明なクラゲを見た。


 その後は、どうしてクラゲを売っているのか、佐伯との関係は、とか聞かれたが、その話の途中で佐伯がコーヒーを買ってきて戻ってきた。


「淳ちゃんとの馴れ初め?」と嬉しそうに佐伯が言う。


 佐伯は手芸クラブで知り合ったとか、言い出したので、ため息が出た。佐伯がクラゲだったら、恐ろしい模様がたくさんあるタイプだ、と淳之介は思う。否定するのも面倒臭くて、黙ってコーヒーを飲んだ。

 淳之介は手芸クラブでエプロンを作っていることになっていて、香里が笑って聞いている。


「本当?」と淳之介に確認されたが、肩をすくめるだけにした。


 コーヒーを飲み終えると、クラゲを撤収することにして、淳之介は先に一人で帰ることにした。クラゲがなければ、安全運転できっと帰れるだろう、と思った。


「クラゲはお店に届けましょうか?」と淳之介が言うと、佐伯は時計を見て、頷いた。


 恵梨の父親が店に来る時間が迫っていた。今日は祥子が早く帰って、恵梨と一緒に店に行くと言っていた。クラゲを持って、部屋を出る。香里の笑い声がまた響いた。




 香里は佐伯の冗談に笑いながら「もう、淳之介さんが困ってたじゃない」と言う。


「そうかな。彼…いい人だから。許してくれるよ」と佐伯は言う。


「そうね。こんなところまでついて来てくれるんだもん。いい人ね」と香里は言った。


 クラゲがいなくなったので、佐伯はようやくリラックスできる気がする。香里に微笑みながら


「次の望みは? できる限り応えるから」と言う。


「望み…。こうして会いに来てくれるだけで嬉しい」


「会うだけでいい?」と佐伯が言うと、香里は手を伸ばして、佐伯の頭を引き寄せた。


 額同士をくっつける。


「何?」と佐伯が聞いた。


「…」


「熱? ないよ?」


「……」


「………」


 佐伯も諦めて黙って、額をくっつけ合う。少し顎を上げれば、鼻が擦れ合う距離だ。でも香里は少しも顔を上げない。しばらくして、ようやく額が離れた。


「どうしたの?」


「なんか、頭をくっつけたら、考えてることが分かるかな…と思って」と言って、笑った。


「…うん。わかった?」


 香里が首を横に振る。


「私も…玲のために何かできるか、知りたかったの」


 可愛い答えに佐伯が思いがけず笑いそうになった時、


「それは…お別れすることかなって、考えた」と香里が言う。


「え?」


「私…重荷になるから」


 ついさっき、望みは会いに来てくれるだけで嬉しい、と言われたはずだった。佐伯は理解できずに、香里を見る。香里も佐伯を見た。お互いの望むことが、会うことと、別れることだなんて、理解できないと、佐伯は首を横に振る。


「香里が重荷? 僕が背負いたくて背負ってるから…。それが重いものであろうが、軽いものであろうが、それは…関係ない。でも香里には…プレッシャーだった?」


「そんなこと…。玲が優しくしてくれて…側にいてくれて、どれほど心強いと思えたか…。でも私は玲の従兄弟と付き合ってたんでしょう? 苦しくならない?」


 そんなこと、昔からそうだった。ずっと苦しかった。仲のいい二人を側で見ていて、辛かった。櫂に嫉妬もした。従兄弟でハーフで格好良く、優しい性格で、香里に好きになってもらえた櫂のことも嫌だった。そしてそんな自分が何より嫌いだった。

 でも今は櫂のいない香里だ。

 忘れているから、頼っているのかもしれない。

 思い出したら、自分のことをどう扱うのかは分からない。

 今でだって、恋人なのか、友達なのか…曖昧だ。


「香里は…今、僕のこと、どう思ってるの?」


「言っていい?」


「いいよ」


「愛してる」


 一番聞きたい言葉だった。でもその言葉のどこかに真実じゃない可能性がある。


「ずっと…愛してるよ」と佐伯は言う。


 いつか彼を思い出す日が来るまで。

 それまででいいから、香里の恋人でいたかった。


「玲のこと…愛してる。でも私は玲の従兄弟と付き合っていた。だから今の気持ちが…自分でもどこか…嘘かもしれない…そんなことが怖くて」


 香里も自分で自分のことを疑っていた。まつ毛が細かく震えている。佐伯は香里をそっと抱き寄せて、そのまつ毛にキスをした。嘘でも構わない、と言いながら。

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