第31話
告白
淳之介はクラゲを持って、佐伯の店に行った。光輔が店にいて、喜んで駆けつけた。
「新しい子っすか? あれからちゃんと育てて、生きてますよー。あと、ポリプって言うのを飼ってみたいんすけど」とクラゲの話をいきなり話しかけてくる。
「ポリプかぁ…」
仕入れてもいいが、買ってくれる人は光輔くらいだろう、と淳之介はため息をついた。光輔は淳之介が持っているケースを眺めて、目を輝かせる。
「これは美人っすね」と繁々と眺める。
「よく分かるね」
「あ、勉強したんっすよ。この真ん中が複雑なのがメスっすよね?」と興味深そうに見ていた。
店の水槽に入れる前に餌やりをした方がいいと思って、淳之介は餌をここであげていいか? と聞いた。
「え? 俺、あげたいんで。相棒がちょっと店、見ててくださいよ。今、注文は全部出したんで、新しい人が来たら、お水運んでくれたらいいから」と勝手なことを言う。
「ちょっと」と淳之介が言っても、もう聞かなかった。
仕方なく所在なさげに、カウンターに立つことにした。餌やりが終わるまで誰も来なかったらいい、と淳之介は思った。光輔は嬉しそうに餌やりの準備を始めた。誰も来なければいい、と願っているのに、無慈悲に扉は開く。
「いらっしゃいませ」と淳之介は一応言いながら、扉を見る。
一目で恵梨の父親だと分かった。目の色が同じで、髪がブロンドだった。片手を上げて、こっちに向かってくる。まだ祥子は来ていないようだったから、どうしようかと思ったが、いきなり話しかけられた。
「Mr.サエキ?」
どうやら佐伯と勘違いされたらしい。慌てて首を横に振って、否定したが、繁々と見られる。日本人は見分けがつかない、と呟きながら、案内を待っているようだった。光輔が個室を指差して、そこに連れて行くように指示する。光輔に向かって「Mr.サエキ?」と聞いていたが、光輔は思い切り肩を竦めて、日本語で「違うっす。オーナーはまだ帰ってこないっす」と言っていた。日本語だったのに、なんだか伝わったようで、頷いていた。
個室に連れて行くと、ソファに腰を下ろし、ビールを注文した。長い足を組んで、淳之介に待ってる人が来たら、ここに連れてきて、と言う。
「…かしこまりました」と言って、個室を出た。
クラゲを眺めて、嬉しそうに見ている光輔にビールの注文が入ったと言うと、グラスの場所を教えてくれて、そして手をレバー引いてるような形にして、前に倒して、それから後ろに倒す。
「こうして、こうっす」とどうやらビールを入れるレクチャーをしてくれているようだったが、かなりいい加減だった。
(相手はパブ文化のイギリス人なのに…いいのか、それで)と心の中で思いながら、淳之介はビールサーバーの前に立つ。
サラリーマンが長かった淳之介はビアホールで自分でビールを注いだりしたから、光輔の適当なレクチャーでもどうにかなったが、イギリス人のお眼鏡に叶うかは分からなかった。ビールを運ぼうとすると、また扉が開く。
「いらっしゃいま…」
祥子と恵梨だった。
「淳之介君、何してるの?」と目を丸くして、祥子に言われた。
恵梨は淳之介のところに来て、小さな声で「パパが来た?」と聞く。不安そうな目を見て、淳之介も可哀想に思いながら、頷いた。淳之介のシャツを掴んで「一緒に行こう」と恵梨が言う。ビールを持ったまま、恵梨にシャツを掴まれて、二人を個室に案内した。
「お待たせしました」と「久しぶり」が被る。
気まずいながらも、ビールをテーブルの上に置いた。恵梨はまだシャツを掴んだままだったが「オレンジジュースにアイス乗せようか?」と淳之介が聞くと、少し顔が明るくなって、手を離した。
「私も同じのにして」と祥子に言われて、淳之介は頭を下げて個室を出た。
話は気になるものの、とりあえず、頼まれたことはしようと思った。
「アイスって…あった?」と光輔に聞く。
恵梨にアイス入りと言いながら、アイスがないかも知れない、と思った。
「アイスっすか。アイスは、こうして、こうっすね」とディッシャーを持っているような手で手首を返した。
本当に親切なトレーナーだな、と内心思いながら、淳之介はカウンターに戻って、オレンジジュースを用意しようとしたら、光輔がスポイトを持ったまま、こっちに向かってきた。オレンジジュースはパックから四分の三程入れて、残りはオレンジを絞って入れるそうだった。
「そうしたら、香りがまじやばいんで。お願いします」と言われる。
グラスに氷入れて、パックのオレンジジュースを入れるだけかと思っていたが、一手間かけるようだった。オレンジを半分に切り、果汁を絞ると爽やかな香りが立った。気分が匂いのおかげで軽くなる。果汁を入れてから、上にアイスを乗せた。それを運ぼうとしていると、
「まじ、新しいっすね」と光輔から羨望の眼差しを送られた。
個室で話し合いがされていた。英語で話しているので、集中しないと理解できない。淳之介は先に恵梨の前にアイスオレンジジュースを置いた。喜んでストローを差す。祥子の前にも置いて、「何かあったら、すぐ来るから」と言った。
「ありがとう」と祥子が言った時、恵梨の父親が「I love you」と同時に言った。
「は?」と祥子は心底、驚いたような声で言う。
「恵梨のことも考えてくれ」とジョージは言う。
恵梨は淳之介の手を握った。それをジョージが見て「誰?」と聞く。
「友達」と祥子が言うのと同時に恵梨が「好きな人」と言う。
それを聞いて、淳之介は見比べられた。そして、少し余裕そうな笑顔を祥子に向ける。
「ほら、聞いただろ? 恵梨には父親が必要なんだ。だから同じような年齢の男を好きだとか言って、寂しさを紛らわせているんだよ」
「違うもん。淳之介君は」と恵梨が言うけれど、ジョージは取り合わない。
「ねぇ。彼女とうまく行かないからって、ここまで来て、何してるの?」と祥子が聞く。
恵梨に手を握られていて、淳之介は動けなくて、困っているが、ジョージが「座ったら?」と言った。どうやら関係者だと認識したようだった。そのまま恵梨の隣に座る。ジョージはこれまでのことを説明しだした。いろんな女性と付き合っていたのは、祥子が全く靡かないからだ、と言う。子供ができたから結婚してくれと言うと思っていたが、結婚は拒否されて驚いたと言うこと。家族として生活しようと努力したが、少しも男性として見てくれたなかったこと。付き合った女性は寂しさからだ、と言った。
「子供を作ったのは祥子とだけだ」とジョージは言う。
淳之介は一体、何を聞かされているんだ、という気分になった。それは祥子も同じだったようで深いため息をついた。
「エリをスイスの学校にだって行かせることができる」
(なんでこんな男と…)という気持ちで、淳之介は祥子を見た。
祥子もそれは流石に同意したようで、またため息を吐く。
「スイスの学校なんて、誰も望んでないけど?」
「どうしてだ? 日本の学校なんて…」と理解できない様子のジョージだった。
いつまで経っても話が交わりそうにない。でもわざわざここまで来たと言うことはかなりの金と暇と執着があると言うことだろう。
「それで祥子はこの男が好きなのか?」と淳之介を指差す。
「私が好きなの」と恵梨が足をバタバタさせた。
それを見て、ほら見ろと言う様な顔でジョージが笑う。
「恵梨、大人しくしなさい」と祥子が怒る。
恵梨は涙目になりながら、頬を膨らませた。
「彼女は僕に借金があるんです」と淳之介は言った。
「は?」とジョージは驚いた様な顔を見せる。
「なので…返済が終わるまで、お待ちいただけませんか?」
「いくら?」
「保険証切れてたから…入院費も高かったんですよね。新居の用意にも結構かかりまして。それと…利子がついて…三百万円…一万六千ポンドですかね?」と大分、ふっかけた。
「一万六千…それくらいすぐに」と言ったものの、口をつぐんだ。
「払えますよね? でも…それってお金で彼女を買う事になりませんか?」と淳之介は言う。
ジョージは黙って答えなかった。アジア人女性が好きだと言う男性はどこかしら女性蔑視の考えがあるのかもしれない。だからこそ、「まさかお金で買う様なことしないですよね?」と淳之介は聞いた。
「ジョージ。ごめんなさい。私、あなたに感謝してるけど、一度も好きだと思ったことないの」と祥子は言う。
「パパ…私、スイスになんか行きたくない」と恵梨も泣きそうな声で言う。
そしてジョージは顔を手で覆った。
(あ、考える人)と淳之介は思ったが、黙っていた。
「パパ、彫刻の人みたい」と横で恵梨が呟いたので、淳之介は笑いを必死に堪えた。
「エリはパパと一緒に暮らせなくていいのか?」とジョージが言うと、恵梨は大きな目をさらに大きくした。
恵梨の記憶で父親と一緒にいた記憶が少ししかなく、南の島に行った時くらいで、あとは仕事をしている時くらいしか記憶にない。夜は殆どいなくて、母親と過ごしていたから、今更聞かれて、困ってしまった。そして子供ながらに、あっさり頷くのも良くないのだろう、と察して、固まってしまう。
「小さい頃、あんなに一緒にいたのに…」と呟く。
「…ごめんなさい。覚えてないの」と恵梨は申し訳なさそうに言う。
「サエキが…祥子の恋人かと思っていたんだ。だから…苦しくて…」とジョージは言う。
他の女性と浮気していた言い訳を言うが、祥子にとって、別に浮気でもなんでもなかったし、今更そう言う事を言わせてしまって、申し訳ない気持ちになる。
「…私、あなたに助けられたし…、恵梨に会わせてくれたことは本当に感謝してるの。でも…愛されてたってことも感じられなかったし、私も愛してなかった」
その台詞にすごく傷ついた顔をして、祥子を見るから、流石に淳之介は可哀想に思った。ちょっと子供っぽい人だった上に、付き合う相手に苦労したことがなかったのが、裏目に出たのだろう。悪い人ではないようだった。
「恵梨ちゃん…。クラゲ、見ようか」と淳之介は声をかけた。
「うん?」と不思議そうな顔で淳之介を見る。
「二人きりで話をして、決まってから恵梨ちゃんを呼んで」と淳之介は二人に言う。
淳之介は恵梨のオレンジジュースを持って、個室を出る。もうクラゲの餌やりは終わっていたようだった。恵梨は淳之介に水槽の高いところにいるクラゲが見たいから、抱き上げて欲しい、と言った。近くのテーブルにオレンジジュースを置いて、恵梨を抱き上げて、クラゲの水槽に近づける。恵梨は身を乗り出して、クラゲを見た。
「…淳之介君。ありがとう」
「いいよ。お安い御用だ」
「ごよう?」と言って、淳之介の方を見た。
「用事ってこと。お安いってことは簡単ってこと」と言うと、恵梨はじっと淳之介の方を見る。
透き通ったガラス玉のような瞳で、何となく本当に見えるのか不思議な気持ちになる。
「いつも…本当に…ありがとう」と言って、首に手を回して抱きつく。
不思議だけれど、ビスケットのような微かに甘い匂いがした。
「いいよ。そんなこと」
首を横に振ったのか、甘い匂いが更に広がる。耳元で「好き」と言う言葉が聞こえた。淳之介は恵梨の向こう側に見えるクラゲの数を数えることにした。
ふわふわ ふわわん。
ビスケットのような甘い匂い。
「好き」
もう一度、恵梨は言った。人魚姫のように何もできないまま泡になりたくなかったから。
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