第32話

反転


 個室での二人の話し合いは続いて、お腹の空いた恵梨は光輔にスパゲッティを作ってもらって食べていた。


「美味しい。光輔君はきっといいお嫁さんになるね」と恵梨が笑う。


「そうっすか? 誰かいい人いたら紹介してください」


 真面目にそう言った。恵梨はそれで知っている大人の女性を考えて、「美湖ちゃん…どうしてるかな」と呟いた。


「頑張ってると思うよ。忙しいから連絡してくる暇もないんだろうね」と淳之介が言う。


「昔っから便りがないのはいい知らせって言いますしね」と光輔も言った。


「どうして? どうして便りがないといい知らせなの?」


「さぁ? きっと昔はそんなに連絡手段もないから、本当に大変な時しか連絡しなかったんじゃないっすか?」


 光輔は割と真面目に考えて恵梨に話した。


「そっかぁ…。私は何もなくても便りは欲しいけど」と言って、器用にスパゲッティをクルクル巻いた。


「相棒もなんか食べるっすか? 今日はあんぱんないっすけど」


「あんぱんはいらないけど…」と確かに空腹を感じていた。


 メニューを置かれて、眺めていると、個室から二人が出てきた。話し合いが済んだようだった。


「恵梨…イギリスに帰るわよ」と祥子が言うので、恵梨も淳之介も驚いた。


「お金はお返しします。アリガトウ」とジョージが淳之介に言う。


「え? どうして? 嫌、嫌だよ」と恵梨は慌てて、席を立って、淳之介の影に隠れた。


「家族で暮らしましょう」


「嫌、嫌」と恵梨は淳之介の足にしがみつく。


「ちょっと、突然過ぎて…。どう言うこと?」と淳之介は祥子に聞いた。


「家族で…って思っただけよ。それに…私も悪かったし」


「は?」


「淳之介君、ありがとね。今まで本当に」と祥子が微笑む。


 どうして…と唇は動きかけたが、声が出なかった。祥子の笑顔は綺麗で、何かを決断したような顔だった。


「恵梨…我儘言わないの」と祥子は腰を屈めて、話しかける。


「嫌、嫌。お母さん、知ってるくせに。私の気持ち知ってるくせに」


「ごめんね。帰ろう。帰って荷造りしよう」


 もう何を話しても決めたことだ、と祥子は優しい口調だが、少しも譲ることはなかった。それでも恵梨は淳之介に後ろからしがみついて、ついには大泣きしてしまった。


「僕が連れて帰るから…。先に帰ってて」と淳之介は言う。


「分かった。ごめんなさい」と祥子は言って、二人で店を出て行った。


 光輔はすぐに個室を片付けに行った。


「恵梨ちゃん、スパゲッティ、食べないの?」と言うと、後ろで首を横に振っている。


「じゃあ…お腹空いてるから、食べていい?」と聞いてみると、恵梨は驚いて、体を離した。


「…食べる」と言って、泣きながら食べ始める。


 祥子がどういう考えの方向転換をして、イギリスに行くことになったのか分からないが、結局、恵梨は振り回されることになってしまう。涙をぽろぽろこぼしながら食べる恵梨を見ていると本当にかわいそうになる。


「ジュース持って来ようか?」と言うと、「ここにいて」と言われる。


 淳之介は紙ナプキンをそっと頰に当てて、涙を吸い取る。


「…淳之介君。手紙…書いて。…待ってるから」


(あぁ、この子は分かってるんだな)と淳之介は思ったから、承諾した。


「それと…五年は恋人作らないで」


「五年?」


「五年経ったら、私…十六歳になるから。高校はこっちに来たい」


 五年…。長いようであっという間だ、と淳之介は思う。でも恵梨にとっての五年はきっといろんなことがあって、長く感じる時間だろう。今の気持ちだって、持続するはずはない。そう分かっていても、今は恵梨の言うことを信じてあげたかった。


「五年経ったら…迎えに行こうか?」


「本当?」と恵梨の顔が明るくなった。


「それから、日本に戻る途中で、南の島にクラゲを見に行って」と前の約束ももう一度確認した。


 以前の約束を覚えてくれていたことが嬉しかったのか、またぽろぽろ涙を溢す。


「…そこで結婚式したい」

 

「…恵梨ちゃん。結婚は十八歳からだからね」


「淳之介君は何歳になるの?」


「…考えたくない」と少し落ち込んだ。


「何歳でもいい。絶対、迎えに来てね」と恵梨は真剣な目で淳之介を見る。


 透き通った透明な目。淳之介は頭を優しく撫でて「お腹空いたから…何か注文しようかな」と言うと、恵梨は照れたような顔で笑った。


 二人がご飯を食べ終わった頃に、佐伯が帰ってきた。

 

 泣き腫らした恵梨の顔を見て、「淳ちゃんにいじめられたの?」と聞く。


「ううん。…イギリスに帰ることになった」と恵梨が言うから、佐伯は驚いた。


 淳之介に説明を求めるが、淳之介だって、詳しいことは全く分からない。ただ二人で話し合って、出てきた時にはそう言う決断を出した、と言うことしか分からなかった。


「どうして…また」


「僕に止める権利はないんだけど…ちょっと心配だな」と淳之介は後半部分は佐伯にしか聞こえないように行った。


「恵梨ちゃん、クラゲ見た?」と佐伯が聞く。


「うん。見たよ」


「もっと見たら?」と言って、光輔に餌やりをするように言う。


 餌はもうあげたが、光輔は喜んで、恵梨と一緒に餌をあげようと言う。恵梨も餌を食べるクラゲが見たいので付いていった。


「…で? 何が心配なの?」と佐伯は恵梨が離れたのを見て聞いた。


「腎臓のこと…。このままだと移植できないままイギリスに行ってしまいそうだ」


「…それじゃない?」


「え?」


「それが嫌でイギリス行きを決めたんじゃない?」


 淳之介はすとんと納得がいった。自分がいる時はそんな話少しもしなかったのに、席を外してからしたのだろう。祥子なら、あり得ると思った。


「…そっか。僕には…何も…」


「淳ちゃんのいいところだけどね。優しいところ。でも諦めるのは良くない」


「借金のことを盾に帰らせないつもりだったんだけど。もう手が無くなった」


「旦那さんが腎臓くれるかなぁ?」と佐伯は呟く。


 それについては分からない。でもくれなくても、祥子は今回の選択をしたはずだった。


「何にしろ、後悔しないように、ね」と肩を佐伯に叩かれる。


 淳之介はまたあの頃のように祥子に言われるまま別れることになる。


「ちゃんと食べなさいー」と恵梨の声が聞こえる。


「立派なクラゲになれないっすよ」と光輔もそう言って笑う。


 満腹のクラゲはなかなか餌を食べないようで、恵梨と光輔が何だか楽しそうにしている。

 会社をやめた時、何もかも嫌になってクラゲのようにふわふわと何も考えずに生きていたかった。でもそんなクラゲですら、「お腹いっぱい」という意志があるようだった。ふわふわ浮かぶクラゲを眺めて、どうしたらいいか考えた。

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