第33話

白い日差し


 夜に香里を連れ出そうして、見つかって、怒られること、三回。看護婦さんに怒られながら、結局、日中に海に連れて行くことになった。夜というのは星を見せたかったからである。

 看護婦さんたちには「もう早く良くなって、退院してくださいね」と心から言われてしまうようになった。

 日差しもきついので、できれば夜がよかった、と佐伯は思いながら、車に車椅子をしまって、香里を後部座席に載せる。


「ねぇ。助手席でもいい?」と香里が言うので、ドアを開けて、体を支える。


「怖くない?」と佐伯は助手席で事故にあった香里を気遣った。


「大丈夫」と言うので、そっと座らせると、運転席に戻る。


 香里は佐伯に、にっこり笑った。


「ね、大丈夫だから」


 佐伯はその笑顔にキスをした。そしたらびっくりしたような顔をされたから、ちょっと困って、謝った。


「どうして謝るの?」


「え? 何か…悪かったかなって」


「びっくりしただけだから」と顔を背けて、唇を尖らせる。


 思わずハンドルに頭を突っ伏して笑ってしまう。まるで高校生みたいな恋愛をしている。


「ひどい、どうして笑うの?」と香里の声がする。


 佐伯はそのまま顔を向けて「時間が…巻き戻った気がした」と言った。


 まだ櫂に会う前、二人は良く一緒に帰って、一緒に寄り道して、香里をからかって、怒らせていた。ずっと好きだったから。


「え? あ…。思い出した。良く玲に揶揄われてた」と香里も笑い出す。


「あの時はごめん。幼稚だった」


「…ほんとだよ」と香里は頬を膨らませる。


 だからひたすら優しい櫂を好きになったのだろうか、と佐伯は顔をあげて、思った。


「あの時、好きって言ったら、付き合ってたかな」と言って、エンジンをかける。


「玲…知らなかったの?」


「え?」


「私…何通も玲に渡してって、女の子から手紙…もらってて…それで…」


 思わず佐伯は香里の顔を見た。


「捨ててた」


「え?」


「…ごめんなさい」


 そう言えば、「手紙読んでくれた?」とか、何人かに声をかけられた記憶がある。今一つよく分かってなくて、でも「ごめん。付き合う気はないから」と断っていた。


「あ…。それって」


「嫌な女でしょ?」


 香里はみんなが素直に好きな人に手紙を渡せるのが羨ましかった。あの頃、玲に対して好きだと思うのを必死で止めていた。いつも揶揄われて、玲の気持ちが分からなくて、告白なんてできないし、何より今のいい友達関係を壊したくなかった。


「…香里」


「櫂は…素直に好きだって…言ってくれたから」


「香里?」


「櫂とは不安になることがなかったから」


「香里…もしかして…思い出した?」


 佐伯は思わず「いつ?」と急いて聞いてしまう。 


「夜中に…動画送った日。夢で…櫂に会ったの。それから全部、突然、思い出して…私…それで怖くなって、玲に連絡してしまって…」


 あの日、呑気にクラゲの話題を持ち出していた。そして帰り道、電話越しに初めて香里に「愛してる」と言われた日だった。星を見ながら、少しも香里の苦しさに気が付かずに家まで歩いていた。


「ごめん。私…玲の前で、ずっと嘘ついてた。昔も…。今も…。ごめん」


 佐伯は俯く香里の頰に手を伸ばした。


「…そんな。僕の方こそ。それと…大丈夫? 思い出して辛いよね…」


「一度思い出したら…櫂のこと…溢れてきて。でも…」


 櫂が対向車が大きく中央線をはみ出してきた時、ハンドルを大きく切って、自分を守ってくれたこと、最後に一瞬、香里を見て何か言おうとした瞬間、激しい衝撃が襲ったこと、全て記憶が戻ってきた。


「忘れたふりしてた。…でも玲の横顔が櫂に似てて…」


「…ごめん」


「いいの。私が間違えてたから…。何もかも間違えてた」


 それを言うなら、佐伯自身だって同じようなものだ、と唇を噛んだ。


「だから…。だから…今までありがとう。もう…玲にこれ以上…会えない」と言って、ドアを開ける。


 佐伯は慌てて、エンジンを切って、車から出る。まだ歩き辛そうだったので、急いで車椅子を取り出して、香里を乗せる。歩いて行こうとしていたが、無理そうだった。


「…送るから」


「…本当にごめんね」


「こっちこそ」と佐伯は言って、車椅子を押した。


 病室までが永遠だったらいいのに、と佐伯は思う。ボタンが掛け違えて、ずっとそのまま長い時間を過ごした二人だと思った。どこから、直したらいいんだろう、と佐伯は思う。

 ナースステーションを通ると、「あれ? お出かけじゃないの?」と言われたが、佐伯は微笑むだけで、何も言わなかった。

 部屋に戻って、香里はベッドに腰掛けた。


「玲…、今更だけど、好きだった」


 佐伯は抱き締めたかったが…腕が少しも上がらない。


「…僕は」


(愛してる)という言葉が口から出なかった。


「愛してる」と言ったのは香里だった。


 そして微笑みながら、涙が溢れていく。


「本当に心から」


 佐伯の言葉を香里が言う。その言葉は少しも間違えてない。


「その気持ちに…私は相応しくないの」


 佐伯は首を横に振る。


「…あい…して…る」と掠れた音が出た。


「だからもう来ないで」と涙が流れたまま綺麗な笑顔を見せる。


 重荷になると、言っていた言葉。櫂を覚えていたのに、忘れたふりをしていたこと。それは香里のエゴだけじゃない。それは半分、顔まで変えた佐伯のためでもあったのじゃないか、と思う。


「香里が望むことだとしても…。僕は少しも香里のことを嫌いになれない」


 笑顔がすうっと消えて、涙だけが溢れる。


「僕も香里も…若くて…。行き違っただけじゃないか。それでも今、ここにいるのは…僕と君なんだから」と言って、香里に近づく。


「君の犯した罪があったとしても、それは僕の責任だ」


 ぼんやりした目で香里が佐伯を見た。


「ずっと前に戻って。もう一度」


 佐伯は外国人がプロポーズするときのように、片膝をついた。


「いや、違うな。今から…もう一度、始めよう」


 そして香里の手に口づけをした。気づけなくて…ごめん、と心の中で謝る。香里からの返事はなかった。それでもどうかこの気持ちを受け取って欲しいと思って、見上げると、両手で顔を押さえて泣いている香里がいた。


「しばらく…時間をください」


 聞こえた言葉に、玲は頷くしかなかった。午後の明るい日差しが入る病院は眩しすぎて、何も見えなくなる。

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