第34話

重病人の想い


 大泣きしたせいか、恵梨は眠ってしまった。佐伯が送ってくれるというので、祥子のアパートまで車で行ってもらった。後部座席に恵梨を座らせると、淳之介は恵梨にシートベルトを閉める。淳之介は助手席に座った。


「淳ちゃん、ちゃんと話しなよ」


 淳之介は深くため息をついて、どうしたらいいか分からない、と呟いた。


「どうしたら…って。淳ちゃんはどうしたいの?」


「え? それは…手術を受けて、健康になって欲しい」


 佐伯は一瞬、軽く息を吐いて、淳之介を見る。エンジンだけかけて、ゆっくり話した。


「…じゃあさ。淳ちゃんが腎臓が悪いとする。僕があげるって言ってさ、もらう?」


「え?」


「手術を受けて、健康になって欲しいから、僕と結婚して、で腎臓移植してって言われて、うんって言える?」


「…」


「そういうの、一人よがりって言うんだよ」と佐伯は言った。


「でも」


「でも? 好きでもない、愛してもくれない人からそう言う事言われて、それを受け取れる? お饅頭ならともかく。腎臓だよ?」


 愛してもくれない…その言葉が胸に刺さる。ジョージは他の女性に走ったが、それは全て祥子を好きだったからだ、と受け入れ難いことを言っていた。激しく常識外れではあるけれど、彼は祥子を愛してると、言っていた。


「淳ちゃんは…さ。優しいけど、残酷なんだよ」


「残酷?」


「愛することができないのに、優しくするっていうのは罪だと思うよ」


 佐伯の言うことはもっともだった。美湖のことも、可愛いとは思ったけれど、それ以上の気持ちは持てなかった。祥子に対しても、かつては好きだったけれど、今はただ心配をしているだけだった。


「祥子ちゃんのこと、好きだったら、また違った方法があるんじゃないかな」


「…好き…とは思ってなかった」


「ほら。そういうの女の子はすぐに分かるから」


 一々、佐伯の言うことは正しい。祥子が変わってくれることを淳之介はなんとなく期待していたけれど、愛せない自分がそんな期待を持つことが間違えている。心配というのは愛情の一つかもしれないが、祥子が好きか、と言われると分からなくなる。


「どこか…おかしいのかな?」


「まぁ、どこか欠落してるんでしょ。でもそれは淳ちゃんだけじゃなくて、みんな何か欠けてるよ」と言って、車を走らせる。


 そう言われればそうだけれど、と思ったが、何も言えずにそのまま黙った。祥子の家はすぐに着いた。祥子に恵梨が眠ってしまったから、今から部屋に運ぶからドア開けて、と電話する。


「ありがとう」と言って、すぐにドアが開かれた。


 淳之介は恵梨がお姫様抱っこしてほしいと言っていたのを思い出して、なんとか頑張って、お姫様抱っこで階段を上がる。祥子の時よりは大分楽だったが、手が痺れそうになる。何とか上がって、ドアで待っている祥子のところまで運ぶ。


「このまま部屋の中まで運ぶから」と言うと「ごめんね」と祥子が恵梨の靴を脱がしてから、部屋に通してくれた。


 小さな部屋に布団が敷かれている。そっと寝かせる。少し目が開いたような気がしたが、また閉じた。泣きすぎて、瞼が腫れている。


「ありがとう」


「どういたしまして」と淳之介はため息をついた。


「お茶でも飲む?」


「いや…。佐伯さん…待ってるかな」


「すぐに帰ってったわよ」と言うので、お茶をもらうことにした。


 壁に正方形のテーブルと椅子が置かれていた。そこに座らせてもらう。


「ごめんね。本当に色々してもらったのに、言うこと聞かなくて」と言って、麦茶を出してくれた。


 喉が渇いていたので、一気に飲む。


「本当だよ」


「お代わりいる?」


「いらない。ありがとう」と言って、言葉を探すけれど、見つからない。


「淳之介君にまた会えてよかった。ありがとね。それから…ごめんなさい」


「治療は…どうするの? 彼、腎臓くれるって?」


「そんなこと言うの…淳之介君だけだよ」と言って祥子は笑った。


「…なんか、悔しい」


「え? 腎臓あげれないことが?」と祥子は冗談めかして言う。


 淳之介は苛立った声で「そうだよ」と言った。


「そっか。ごめんね」


「悔しいよ。…何もかも。あの時、ちゃんと話できなかった自分も。今も…」と言って、俯く。


 祥子は淳之介の気持ちは嬉しかったけれど、やはり受け取ることはできなかった。


「私は…淳之介君に気持ちはなさそうだけど、プロポーズされて嬉しかったから、気にしないで」


 思わず顔を上げて、祥子を見た。


「もっと自分を大切にして。体もそうだけど…。生き方も。淳之介君は真面目で、優しくて、不器用なところもあるけど、とっても素敵だから。他人を助ける前に、自分のこと…構ってあげて欲しいな」と祥子に言われた。


「…でも体は?」


「今の医学はすごいから、きっとすぐには死なないと思うよ」


「結婚するの?」


「しないよ。面倒臭いもん。手続きとか…。本当に大変だから。でも…今、恵梨が大きくなって、たまに私の手に負えないときがあるの。大抵いい子だけど…。だから一緒に育ててくれる人がいれば…いいかなって思ったの。きっとまたジョージは違う女性と恋をするだろうけど…、父親であることには変わりないし」


「僕がその役目…できないかな?」


 祥子は優しい笑顔を見せて断った。


「好きな人に 役目で 結婚 する って 言われるのって 結構 辛いよ」とゆっくり区切りながら祥子は言う。


「好きな人?」


「そう。好きだから、断るの」


 淳之介は混乱して言葉が出なかった。


「淳之介君は私の体を心配してくれるけど、もちろん私の体はよくないけど…。でも淳之介君は心がすごく病気なんだよ? あんなに可愛い美湖ちゃんにダイレクトアタックされても少しも響かないなんて。心が複雑骨折してるんだと思う。最近は少しだけマシだけど…。早く元気になって」


 そうだ。確かにそうだった。クラゲの店で沈んでいたんだから間違いなく、精神的に病んでいた。人に関して、全く興味が湧かない。もともと惚れやすい体質ではないからか、わかりにくいところもあったが、全く恋愛をしようと思わなかった。極度の人間不審に陥っていた。


「人のこと…心配してる場合じゃないでしょ」と言って、淳之介の額を突つく。


「…じゃあ、いつか元気になったら…また祥子に恋する日が来たら、会いに行ってもいいかな」


「もちろん。楽しみに待ってる」と心から嬉しそうに笑う。


 自分がそこまで傷ついているということに、改めて気がついた夜だった。祥子の部屋を出る時、お互いに「お大事に」と言って別れた。夏の湿度の高い夜だった。淳之介はようやく自分と向き合おうと思った。クラゲの店をどうするか、仕事をどうするか。改めて考える時が来た、と思う。



「相棒が来てくれて、助かるっすよ」と光輔が喜んでくれる。


 佐伯が来れないから、「店、しばらく休もうか」と連絡が来たらしいが、光輔は休まれると死活問題になると言うので、淳之介に夜だけ手伝いに来てもらっていた。


「オーナーが休みの日の売り上げは全部、お給料にしていいって言ってくれたんで、はりっきりまっすよ」と淳之介に声をかける。


「でも料理とか…どうする?」


「あ、俺、一応出来るんで」と光輔は胸を張る。


 どうやら調理学校を卒業していたらしい。専門は中華らしいので、突然、メニューが変わってしまった。もちろんクラゲの和物もある。


「あぁ、クラゲちゃん」と言いながら、作っているので、淳之介は笑ってしまった。


 別にショーケースのクラゲを獲るわけではなく、すでに食用にされているクラゲなのに、一際悲しそうな顔をしていた。


「相棒ってクラゲの店やってるのに、冷酷っすね」とキッチンペーパーで涙を拭きながら言う。


「…そう。別に…クラゲに愛情はない。って言うか…人にも愛情が持てない…って言われた。」


「へぇ。そうっすかね? 愛情ってなんか分かんないっすけど。充分、優しいからいいんじゃないっすか?」


 クラゲを合わせ酢に混ぜて、タッパーに詰めた。きゅうりに塩を振りかけて、まな板の上で擦る。手際は確かによかった。


「俺…ラーメン屋になりたかったんっすけど…。中華料理って全然ラーメンと違ってて。まじ驚いたっす」


「え? ラーメン屋になりたいから専門学校に行ったの?」


「まぁ…はい。そうっすね。でも全く違ってて、ラーメン屋でバイトしても、体育会系でちょっと怖くて」と意外なことを言う。


 見た目はやんちゃそうに見えるが、またそれが災いとなって、バイト先できつくあたられることも多かったらしい。


「だからここのオーナーとか相棒とか、めっちゃ優しいの分かるっすよ。頭悪いから、中華料理間違えて学んだっすけど。その分、なんか人のことは分かるっす。だから相棒はきっと仕事もできるし、大丈夫っすよ」と手際よく切られたきゅうりをまた違う漬けダレに漬け込む。


 何の根拠もない。ただの言葉に淳之介は救われた気がした。


「ところで相棒は何作れるんっすか?」


「うどんとか…カレー」


「…あぁ、まぁ…。できないこともあっていいっすよね」と言われたので、救われた気分が台無しになった。


 それでも少し可笑しくて、笑ってしまう。光輔は不思議な顔で淳之介を見た。


 光輔のために賄いカレーを作ったが「あ、うん。ごく普通の…家庭の味っすね」と言われた。


 それで少しムキになってカレーを研究してみようかと思った。

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