第35話

かき氷


「オーナー…しばらく姿見せないと思ったら…」と光輔が驚いたような顔をする。


「仕事…ありがとう」と言って、久しぶりに佐伯はカウンターに立った。


「それ、痛くないんっすか?」と光輔に聞かれる。


 大きなガーゼが鼻に被さっている。佐伯は鼻を戻す手術をしていた。そうでもしなければ、しばらく会いに来ないで欲しい、と香里に言われたのに行ってしまいたくなる。いつも通っていた道を気がついたら進んでいたりする。


「今は痛くないけど、ちょっと凹んでるのが気になる」


「治るんっすか?」


「ゆっくり元に戻るって」


「忙しいですねぇ。高くしたり、低くしたり…」と光輔が半分、感心したような声を出すので、佐伯は笑った。


 笑われた光輔は首を傾げたが、ここ一週間、ほぼ一人で店を切り盛りしている。夜の忙しい時間には淳之介が手伝いに来てくれていた。二人でクラゲの餌やりをしたり、店のメニューを作ったりしていて、楽しくやっていた。


「祥子さん、イギリスに行くって決めたって言ってたんっすよ」と光輔が教える。


「え? 淳ちゃん、振られたの?」


「…みたいっすね。なんか相棒は心が複雑骨折してるって言われたって。心って骨折するんすね」と不思議そうに光輔が言うので、軽く吹き出してしまった。


「祥子ちゃんは上手い言い方をしたんだよ。淳ちゃん…さらに粉砕されてなければいいけど」


「うーん。まぁ、夏休みまではこっちにいるみたいっすから…」


「夏休み…かぁ。光ちゃんは田舎に帰らないの?」


「田舎に…うーん。どうしよっかなぁ」


「一週間くらい休んでいいよ。ずっと働いてくれてたから」と佐伯が言うと、少し嬉しそうに笑った。


「久しぶりに帰ろうかなぁ。…あ、そう言えば、メニュー全部変えたんっすけど、オーナーのメニューが作れなくて。それで結構、中華料理がお客さんに受けたんっすよ。相棒も作ってくれたんっすけどね。二人で水餃子包みながら、楽しかったっす。まだ冷凍庫に残ってるんで、食べるなり、お店に出すなりしてください」


「へぇ。たまにはそう言うのもいいかもね」と佐伯は嬉しそうな光輔を見て、少し気持ちが明るくなった。


「後、ごく普通の相棒カレーが冷蔵庫に残ってます」


「相棒カレー?」


「お昼に食べてくださいっす」と言って、光輔はテーブルを片付けに行った。





 恵梨は学校帰りは相変わらず淳之介のところに帰ってきていた。淳之介もちゃんとおやつを用意して待っていてくれる。


「ただいまー。暑いー。今日は暑かったよー」と恵梨は長い髪をポニーテールにして、ランドセルを揺らしながら帰ってくる。


「お帰り。今日はかき氷しよっか」


「かき氷? お祭りで食べるやつ?」


「そうそう。家でだけどね」


「嬉しい。淳之介君、大好き」と抱きついてくる。


「早く手を洗って、宿題しておいで」と言うと、急いで階段を上がった。


 いつの間にか恵梨が帰ってくることが当たり前になっていたのに、夏休みになるとそれも無くなってしまう。淳之介はため息をついた。


 結局、仕事は取引先の人たちがどうしても淳之介に担当して欲しい、と強く希望を出したので、外部委託契約のような形で仕事をすることになった。時給と淳之介は言ったが、会社に行かないので、時給の請求が曖昧になると言うことで、一件の仕事に対しての報酬が決まった。午前中に資料を作り、昼からは店を開けながら、メールでやり取りし、たまに出ていく用事があれば、店を閉めて出ていく。恵梨の学校が終わるまでには帰ってこれる時間帯で先方にはアポイントを取った。

 色々考えたが、大した金額ではないが、会社を作った方が税金対策にもなるだろう、と個人事業主になることも決めた。


 一度、前の会社の上司から連絡が来た。


「どう言うつもりだ。ライバル社と提携するなんて。顧客を取っただろう」


「取ってませんよ。繋げられなかっただけでしょう?」


「はぁ? お前…。仕事できないようにしてやるからな」


「あ、すみません。録音ボタンが押されてたようです。仕事が何ですって?」と言うと、電話が切れた。


 仕事ができないように…なっても構わないんだけどな、と淳之介は思った。もっと違うことをしたい、と思っている。今の仕事は別に苦じゃなくできることだからやっているだけで、やりたいと思ってはいない。頼まれたしがらみとか、生活費の足しになるから、とかそういうことでやっている。


「淳之介くーん。宿題終わったよー。後、笛の練習」と言って、二階から縦笛を持ってきて、吹き始めた。


 何だか哀愁漂うメロディでアニメ映画の曲だった。


「淳之介君、この曲知ってる?」


「知ってるよ。上手いね」


 えへへ、と照れたように笑って、もう一度、吹く。こんな時間を持てたことが奇跡だったんだな、と淳之介は思った。あの日、ドアをノックする音から、ずっと恵梨が側にいて、泣いたり、怒ったり、笑ったりしてくれた。

 大変だという思いもあったけれど、生きることの喜びや辛さを直接教えてくれたような気がする。淳之介はもういい大人だったから、流してしまうような出来事ですら、一つ一つ拾い上げて、大騒ぎする。その感情の激しさは淳之介の心もノックしていた。


 コツ、コツ、コツ。


「淳之介君? どう?」


「とっても上手なので、今日はファミレスに行きます」と淳之介が言うと、明るい笑顔が弾けた。


 その笑顔を見ると、お別れするのが辛くなるな、と淳之介は思った。


「ねぇねぇ、淳之介君は何して待ってるの?」


「え?」


「私が帰ってくるまで、何してるの?」


「帰ってくるまで? お仕事」


「お仕事?」


「うん。会社と会社の折り合いをつける計算したりして…」


「ふーん。難しそう」


「難しいよ」


「クラゲは?」


「それもお世話してる」


「じゃあ、忙しいんだね」


「まぁね」


「じゃあ、寂しくないね?」


「え?」


「私が帰ってくるまで寂しくないでしょ?」


「うーん。そうかな? でも帰ってこないとちょっと心配になる」


 たまに恵梨は学校で遊んで帰ってきたりするから、いつもの時間じゃないと冷や冷やしてしまって、店先に出たりして、姿を見るとほっとした。


「そっか…。しばらく帰って来れないけど、大丈夫?」と心配そうに顔を覗き込まれる。


「え?」


「イギリスに行ったら、しばらく帰って来れないけど、大丈夫かなって思って」と唇を尖らせて言う。


 恵梨に心配されてると思うと、少し可笑しくなってくる。

 

「…頑張るよ」と恵梨の頭にポンポンと触れる。


「じゃあ、私も頑張るから」と言った声が涙声になる。


「そっか。それは心強いね」


「うん。でしょう?」と言って、泣きながら、淳之介にもたれた。


 泣き止まないので、「かき氷」と言うと、恵梨の涙は止まる。

 二人で二階に上がってすぐに氷を削る。その上に練乳。シロップはないので、そのまま食べた。夕方、早めの時間に二人でファミレスに向かう。行きも帰りも手を繋いで歩く。まだ日が明るくて、暑いけれど、夕方の緩い風が吹いている。夏休みまで後、一週間しかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る