第36話

ひまわり畑と夏の空


 ひまわりが一面に揺れている。太陽の日差しが溢れる眩しさに目が開けていられない。汗がじんわりと皮膚の上に滲んで来たが、動けずそのまま立ち尽くす。


「ひまわり畑…。また…もう一度、君に見せたくて」と佐伯は言った。



 あれから、傷跡が少しましになった頃、香里に会いに行った。

 佐伯が病室に入ると、香里は佐伯の鼻が変わったことに挨拶を忘れるほど驚く。佐伯はぎこちない笑顔を作って、香里に話しかけた。


「玲だから」


「どうして…」


「玲と一緒にいたくない?」と佐伯は聞いた。


 櫂でもない、自分に戻ろうと決めて、香里に会った。

 香里は香里でリハビリを懸命にしていたらしく、ゆっくりと歩けるようになっていた。まだ覚束ないから一人では難しいが、大分、歩けるようになった。


「いいの? …私でも…いい?」と言って、立ち上がって、ゆっくりと佐伯のところまで歩いた。


 あと少しと言うところでよろけたので、佐伯が抱き止める。


「ずっと…待ってた」


「玲…ごめんね」


 何に謝っているのかわからなかったけれど、佐伯はそのまま抱きしめた。外泊許可もなんとか取って、車でひまわり畑に向かう。初めての外泊に少しぎこちない二人だったけれど、一面に咲いたひまわり畑をを見ると、香里は思わず声を上げて喜んだ。


「ずっと来たかったの。一面のひまわり」


「よかった」


 眩しい光と、香里の笑顔。ひまわりの黄色はまるで二人を祝福してくれているようだった。麦わら帽子を被った香里は足が不自由でなければ、きっと走り出していたと思う。ゆっくり二人で散歩をして、ひまわり畑の中でキスをした。蒸せるような湿度と、遮るものがない痛いほどの日差しの中で、佐伯は目眩を覚える。


「日射病になっちゃう」と香里が笑う。


「もういいの?」


「また連れてきて」と頰に口づけされた。


「毎年、行こう」ともう一度キスをした。


 光と熱。青い空の下で、香里を抱きしめる。


 

 その日の夜は幸せだった。香里の匂い、体温が全て自分の中に収まっている。今までの分だけ、ゆっくりと愛した。すぐ側にいてくれたのにうまくいかなくて、一度は諦めた。その香里が腕の中にいて、名前を呼んでくれる。


「幸せで…苦しい」と佐伯が言うから、香里は笑った。


「玲…ありがとう」


 香里の手が背中を辿るのがくすぐったくて、嬉しくて、笑ってしまう。


「くすぐったい?」


「うん。でも…やめなくて良いから」と言いつつも、笑いが止まらない。


「玲の体…すごく大きい」


 背中で必死に香里の手が互いに近づこうとしている。


「香里の体は小さ過ぎる」と言って、もう一度抱きしめた。


 すっぽり収まる体が愛おしくて、何度も口づけをした。香里が寝た後も、この時間が勿体無くて眠れなかった。規則正しい寝息も、寝顔も愛おしくてずっと見ていた。時々、昔みたいに起きないんじゃないか、と不安になって、指でそっと頰を押す。微かに揺れるので、安心して、次は頬にキスをする。目を開けはしなかったが、眉間が微かに皺を寄せて、首を振る。あの頃みたいに動かないわけではない。何度もそうやって確認して、安心して、横になる。




 風に揺れるひまわりを見ながら、佐伯は一睡もしなかった夜のことを思い出していた。


「また…来たよ」


 返事はない。風は優しく佐伯を通り過ぎていった。


 旅行を楽しんで、帰ってきて、一週間後に香里は急に亡くなった。頭が痛い、と言って、何の処置もできないまま息を引き取ったらしい。佐伯に連絡が来た時はもう亡くなった後だった。旅行が悪かったのだろうか、と佐伯は自分を責めた。

 原因は分からないが、やはり事故が原因じゃないかと言われた。


 香里の母からは感謝された。


「あの子、あのまま寝たきりじゃなくて、最後に…玲君と良い時間を持てたから…よかった。あの子にとって、良い時間だったと思うから…自分を責めないで」

 

 そう言って、香里のノートを渡してくれた。入院中、香里が書いていた日記だった。


 櫂を思い出した日の後悔、佐伯を遠ざけた日からのことが素直な気持ちで綴られていた。旅行の日のことも書いてある。


『玲がひまわり畑に連れて行ってくれた。想像していたようなひまわり、一面の黄色。太陽と青い空のひまわり畑で…。とっても嬉しかった。

 夜、玲がずっと起きてて、私のほっぺを触ったりしてくるから、寝たふりするの大変だった。でも嬉しくて、次はどこかな? って思ってた。

 また連れていってくれるって言うから、今度は走れるようになりたい。

 連れて行ってくれて本当にありがとう』


 翌日は

『神様、神様、ありがとう。

 今、生きてることに感謝します。玲の重荷にならないように、これからすっごく頑張ります。目が覚めてよかった。

 今日も玲が来てくれて、プロポーズしてくれたの。ネックレス。指輪は退院したら買いに行こうって』


 ずっと、そんなことが綴られている。まさか急に死ぬことになるとは思わなかったように、毎日の日常が書かれていた。


 最後の日付

『今日は玲と少し言い合いをしてしまった。大きなダイヤを買おうと言うから、そんなのいらないって。

 今思えば、そんなこと、どうでもよかったのに。ただ…驚いて、怒ってしまった。ごめんなさい。

 その気持ちは嬉しかったんだけど。

 でも一緒にいれることが一番嬉しいから。伝わってるかな? 早く明日になって、また会いたいな。

 愛してる 愛してる 愛してる』



 ノートを持って、一人でひまわり畑に来た。

(前は二人でゆっくり歩いてたけど、きっともう走れるようになれた?)と空に向かって、言う。


「愛してる」


 そのままゆっくりと一人でひまわり畑を歩いた。




 それから四年後。


 クラゲ店はクラゲも売っているが、今はお菓子教室をしている。製菓学校を卒業した美湖がお菓子教室を始めたのだった。淳之介はオーブンをプレゼントし、一階を少し改装した。住居部分も美湖が使っていて、淳之介は近くのアパートに移った。

 夕方には光輔が作るお弁当も格安で販売する。廃棄になりそうな食材を業者から仕入れてコストを下げていた。おまけだが、淳之介が作るごく普通の相棒カレーは子供に無料で提供していた。子ども食堂と言うわけではないけれど、気軽に持って帰ってもらえたら良いな、と考えた結果だ。

 淳之介は子供たちと触れ合うことで、自分が笑っていることが多いことに気がついた。利益はほぼない。持ち出しが多少あるが、気にせずやっている。お金を得る仕事はあったし、どうしてもお金持ちになりたいわけでもないから、必死で稼ぐ必要も感じなかった。


「淳之介さん。たくさん焼けたので」と美湖が焼きたてのケーキをくれるので、それも子供たちにあげようと、淳之介はパックに詰める。


「美湖ちゃん、いつもありがとう」


「いいえ。だって…場所だって、格安で貸していただいて…」と美湖は頭を下げる。


 日曜日には親子で無料参加できるアイシング講座をしたり、試行錯誤している。


「いつか、場所代を満額で払えるようになりますから」と言って、茶封筒を渡す。


 その中身は五万円。両親の所有物なので、賃料は別にいくらでも良いのだけれど、経費で落とす、と言うので、払える金額を家賃としてもらっていた。


「うんうん」と言うと、美湖は真剣な顔で「絶対ですから」と言う。


 土曜日、祝日は地域のイベントでお菓子を売り出したり、と頑張っている。佐伯の店にもチーズケーキや、パウンドケーキを卸したりしていて、忙しそうにしていた。


 今日はポストに恵梨から手紙が届いている。


『クラゲ隊長殿。


 メールでもお伝えしたように、もうすぐそちらの学校に行くので、お世話になります。

 母は父とは違う彼氏ができたようです。父は落ち込んでました。ちょっとかわいそうな気がしましたが、父は相変わらず、女性とデートしたりしているので、仕方ありません。ダメな人です。でも良いところもあります。頭が良いところです。お勉強を教えてくれます。後は少し頭の毛が寂しく、あ、これは悪いところですね。良いところはそんなに太ってません。

 母の彼氏はお医者様で病気のことも診てくれてて、だから心配しないでくださいとのことです。きっと淳之介君が心配しているだろうから、と言ってました。


 隊長に会えるのが楽しみです。日本に着いたら、ファミリーレストランに連れていってください。

 後、ダンボがくたくたになってしまいました。新しい友達が必要なので、ディズニーランドも連れていってください。今度はシーの方でしか売ってない子を買いたいです。

 

 後、隊長にだけ教えますが、将来は看護婦さんになりたいです。少しでも病気の人を助けたいと思ってます。でもまだ内緒にしていてくださいね。

 

 P.S.クラゲたちによろしくお伝えください。


 P.P.S.美湖ちゃんのお菓子を私も食べたいとお伝えください。

 

 P.P.P.S.美湖ちゃんとのデートは禁止です。』


 クラゲの絵が描かれてある。相変わらず上手いな、と思いながら、淳之介は自然と笑っていた。祥子のことも少し希望が見えたみたいでよかった。

 店の外でクラクションが鳴ったので、表に出る。佐伯が車で迎えに来てくれていた。


「食材、もらいに行こう」

 

 佐伯がいつも仕入れている業者に話をして、廃棄処分に近い物を格安で譲ってもらっていた。車に乗り込む。


「もうすぐ恵梨ちゃん来るね」と佐伯も知っているようだった。


「ディズニーシーに行きたいって手紙が来てました」


「へぇ。一緒に行こうかな?」と佐伯が言う。


「ぜひどうぞ」


「淳ちゃんは…結婚しないの?」


「結婚…当分は」


「当分はって、当分…経ってるんじゃない?」と佐伯は言う。


「佐伯さんこそ…しないんですか?」


「僕はもう十分、幸せだったから。期間が長くはなかったけれど…幸せだったから、そこのところは満足しちゃって」と笑った。


 


 香里が亡くなった後はしばらく落ち込んでいて、淳之介と光輔がほぼ店を回していた。三ヶ月ほど、中華料理で回していたら


「たまにはキャロットラペとか作ってみようと思わないの?」と佐伯が店に出てきた。


 大分痩せていたけれど、立ち上がって、微笑んでいた。


「まぁ、そうっすね。とりあえず、オーナーは水餃子食べてくださいよ」と言って、光輔が目の前に置いた。


「美味しいから、明日から水餃子屋でも横でする?」と一口食べて、笑った。


 とはいえ、光輔はキャロットラペのレシピを叩き込まれ、いろんな料理を作るようになった。


「これで、僕がいなくなっても何とかなるでしょ」と笑う。


「え? 無理っすよ。やめてくださいっす」と慌てて、光輔が佐伯の肩をがしっと掴んだ。


「大丈夫、生きれるだけ…生きるから。海外に行こうかなって、ちょっと思ったけど、でもとりあえず今はここでしばらく頑張るよ。毎年…行くところあるからね」


「え? なんかのフェスですか?」と光輔が驚いて手を離す。


「そうそう。ひまわりのフェスに」と言って遠い目をした。



 ひまわりのフェスに毎年、一人で参加しているようだった。いつも何かあったら「淳ちゃん、行かない?」と誘ってくるのだけど、ひまわりの日だけは一人で出かけて、帰ってくる。佐伯はずっと香里と一緒にいるような感覚があるのだろう。


「美湖ちゃん、頑張ってるし、家まで貸してるから…結婚するのかと思った」


「デート禁止令が出てるんで」


「え? まさか恵梨ちゃんから?」と言って、信号待ちだったので、淳之介をしげしげと眺める。


 後ろの車から軽いクラクションを鳴らされた。信号が青に変わっている。


「だから…結婚しないの?」と恐る恐ると言った感じで聞かれてしまう。


「まさか」と口で否定しながら、恵梨との約束を思い出した。


 いつか迎えに行って、途中で南の島に行くという約束だった。でも今回は恵梨は一人で来るという。空港まで迎えには行くが南の島には行かない。


「…犯罪者にならないように。後、三年待ちなさい」と佐伯が言う。


「なりませんよ」とため息を吐く。


「お出迎えも一緒に行く?」と佐伯が聞くので、車で行けたらありがたいので来てもらうことにした。


 空が夏色になって、日差しが眩しい。目の前の横断歩道を夏休み前の大荷物を抱えた小学生たちが歩いて渡る。数人が話しながらのんびり渡った。恵梨もそうだったな、と思い出して、この四年の成長はきっと著しいだろうと淳之介は思った。


「楽しみだね。シーも一緒に行こう」と期待のこもった声が聞こえる。


 まるで子供の頃の夏休みみたいだ、と淳之介も思った。夏休みは楽しい予定があったからうきうきしていたことを思い出す。大人になると、ただ暑い季節の休みだけれど、今年は自分も子供になったような気持ちを覚える。


「大きくなっただろうなぁ」と横で佐伯が呟いた。


 コツコツコツ。

 扉を叩いて現れた少女が帰ってくる。

 きっと特別な夏になる。雲一つない青空がどこまでも広がっていた。

 

                                                           〜終わり〜

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海月店の一日 かにりよ @caniliyo

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