第1話
クラゲのお姫様
閉店時間になると、川田淳之介は店の電気を消す。真っ暗の中でじっと目を凝らしていると、まるで深海の中にいるような気分になる。壁一面に並んだ水槽はぼんやりとした光を出すクラゲが入っていた。ここはクラゲ専門店。ストレス社会のせいか、別に買う目的じゃなく、ただ眺めに来る人も多い。それは淳之介にとって、そんなに嫌なことではない。大抵、この店に来る人たちは穏やかで、少し悲しそうな顔をしているからだ。クラゲを見て、元気になってくれたら、それはそれでいい、と思っている。
お店の電気を消してからは自分だけの深海タイムだ。音もなく、薄っら光るクラゲに包まれると、深海なのか、宇宙なのか、自分の居場所が分からなくなって、何もかもから解放されるような気分になる。忙しい商社マンの仕事をしていたが、リストラに合い、しばらく何もやる気が起きなかった。
けれどせっかく首になったのだから、と前々から気になっていたクラゲ専門店を始めることにした。ずぶの素人ができる仕事ではないと分かっていたので、なんとか頭を下げて、しばらく北陸の店にしばらく置いてもらって、色々教えてもらった。
ある意味、それがいいリフレッシュとなって、クラゲにも自分にも前向きになれた。
クラゲを飼おうと思う人はやはりよほど疲れているか、本当にクラゲ好きな人しかいない。後者はこんな新参者の店には来ないので、やはり疲れた人しかやってこなかった。
それでもこの空間が自分にとっても心地良いように、他人も心地よく思ってくれるのだから、それはそれで成功なのではないかと淳之介は思うことにしている。
売上のついては正直厳しいが…。
ぷわぷわ ぷわわん。
真っ暗闇に浮かぶクラゲのように、今は何も考えずに漂っていたい。
コツコツ。
ガラス戸が叩かれる音がした。閉店した後に来客するとは余程の事情の持ち主か、と思いながら、立ち上がる。とはいえ、クラゲを可及的速やかに欲する人が淳之介には思いつかなかった。
コツコツ。
またドアを叩かれる。強盗がドアをノックするはずないし…、と思ってそのまま扉を開けた。
そこにはブロンドの毛と色白の日本人離れした女の子が立っていた。まだ幼さの残る顔立ちで、背も低い。中学生か、小学校の高学年かもしれない。
「川田淳之介さん?」と聞かれたので、頷いた。
「あの…祥子って分かりますか?」
「しょう…こ?」
「えっと、
「とうだ…しょう…こ」
懐かしい名前を聞いた。不意に聞いた名前はまるで、死んだ人が蘇ったような破壊力を持って、何も考えられなくなった。
髪の毛をくるくるカールして、本当にお人形のような顔を向けているこの少女は一体、何者なんだ、と思っていると、
「少し話をしたいから、中に入れてもらってもいい?」と言ってくる。
「え? あの…その前に、誰?」
「祥子が私のママでパパはイギリス人のジョー」
「あ、そう。…で? 何の御用ですか?」
そう言うと、ふるふると涙を流して「ママが…入院して…」と言った。
「はぁ?」と思わず大きな声を出してしまった。
祥子の子が言うにはイギリス人との結婚を許されなかった彼女は駆け落ちして、子供(目の前いにいる彼女)を産んだが、籍には入っておらず、戸籍上では祥子の私生児ということになっているらしい。そしてイギリス人のパパは五年前から違う女の人と暮らしている…と言った。
「…で? 僕に何をしろと?」と恐る恐る尋ねた。
「ママのフェイスブックで居場所が分かる人を訪ねることにしたんだけど…」
「うん?」
まぁ、大方予想は付くが、断られたんだろう。
「何人かのお家に行ったの?」
首を横に振る。
「え? ここが初めてなの?」
「だって、お店だから住所が分かったの。後の人は…会社だったり…」
(なるほど…。確かに…お店だと来やすいのは分かる)
「でも…。あのさ、君のお母さんの実家とか」
「だって、私、こんな見た目だよ? イギリス人のパパにそっくりなんだよ?」
「だからって…何の繋がりもない僕のところに来られても…」と押し問答をしていたが、さすがに店の中に入れることにした。
「わぁ」
真っ暗に浮かぶクラゲの数々。
ぷわぷわ ぷわわん。
この深海のような暗闇の中で、本当にうっすらと彼女が見えるけど、明るい髪色がほんのり光って、まるで海月のプリンセスのようだった。
この世の中で二人っきりのような錯覚を覚える。
クラゲのお姫様が目の前にいて、周りのクラゲもぽやぽや光っている。さっきまでいた暗闇とは全く違う、まるで海の宝石箱のように思えた。
「祥子が淳之介君は優しいから…って」
まるで召使いになったような気分に淳之介はなる。
ぷわぷわ ぷわわん。
クラゲの召使、クラゲのお姫様の召使。ほんの少しだけ、それも悪くないか、と思った。
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