第19話
だ〜れだ?
「だれ?」
香里に言われてからずっと、鏡を見る度に自分も自問するが、答えは出なかった。
「だれだ?」
そこに映るのは整形して、髪色を変えて、目の色を変えた男だった。
香里の母から「結構意識もしっかりしたから」と連絡を受けていたので、お見舞いに行くことにした。
大きなマスクで顔を隠して、カラコンを外して、髪の毛を黒くして、佐伯は病院に行った。病院に行くのだからマスクをしていてもなんとも言われないだろう、と自分で言い訳をして、香里の病室のドアをノックする。
「どうぞ」と言う香里の母の声がした。
百合の花束を抱えて、佐伯は入った。
「玲!」と香里が言う。
マスクで高い鼻が目立たない。他に戻せるものは戻してきた。もし櫂を記憶の底に沈めたのなら、櫂じゃない方がいいだろう、と結論づけたのだった。
「どう? 落ち着いた?」と言って、香里の母に百合の花束を渡す。
「…うん。でもまだわからない事が結構あって…。恋人のことが少しも思い出せないの」と香里は事故の話もちゃんと理解はしていたようだった。
「ゆっくりでいいよ。今は香里が目を覚ましてくれただけで…」
「ほら、こんなにたくさんの百合、綺麗よ」と香里の母は持って来て、見せる。
そして花瓶に入れるわと言って、花を抱えて出て行った。
「花…ありがとうね。時々…いい匂いはしてた…気がする」
「分かってた?」
「長い…夢を見てた」と香里はぼんやりと視線を逸らした。
「どんな…?」
「ずっと誰かに…守られてたような…」と言って、香里は佐伯を見た。
「誰かに? 櫂…恋人…じゃないの?」
「…でも彼のこと…何も思い出せないの…」と項垂れるので、佐伯は慌てて「無理しなくても」と言った。
事故は対向車の脇見運転で、中央線にはみ出して衝突されたということだったから、運転手側の櫂へのダメージは大きかった。隣でそれを見ていたとしたら…と佐伯は想像するだけでも香里が受けた恐怖が分かる。
「玲…毎日来てくれてたんだ。ありがとう」
「毎日じゃないよ。来れない日もあったから…」
「でも…ありがとう」
「何か欲しいものはない?」
「ううん。…元気になったら、また遊びに連れて行って」
「分かった。早く元気になって」と佐伯は言いながら、櫂の記憶がない方が幸せなんだろうか、と考える。
棚に飾ってある写真はそのままになっていた。
「玲…本当にありがとう」
「ううん。目が覚めて…よかったよ。ただ…それだけなんだ」
その言葉に嘘はなかった。これから香里に辛いことがあるかもしれない。それを佐伯は一緒に乗り越えてあげることができるだろうか、と思った。
「私…ずっと誰かが側にいて…ずっと『愛してる』って言ってくれてたの…。聞いてた」
「え?」
佐伯は驚いて香里を見る。
「…玲の声だった」
見た目は変えられても確かに声は変えられなかった。
「最初は遠くから聞こえて…段々…近くから聞こえるようになって…。はっきり玲だって、分かったの」
「…聞こえてた? 恥ずかしいな」と佐伯は呟いた。
「だから私、戻ってこれたような気がする」
真っ直ぐな目で見られて、佐伯は恥ずかしくなって視線を逸らした。
「じゃあ、命の恩人ってことだな」
「え? じゃあ、嘘だったの?」
思わず返答しにくいことを聞かれた時、タイミングよく香里の母が戻ってきた。
「玲君、本当にいつもありがとうね。お花もたくさんくれて」と百合の花瓶を抱えて笑っている。
「…あ、じゃあ、また来ます」と言って、あわてて佐伯は病室から逃げた。
自分だけ櫂になり切ったつもりだったのに、まさか声でバレてしまうとは、まるで手袋を買いに行って変装できなかった手だけを出してしまう子狐のようだ。車に乗るとおかしくて、一人で笑ってしまう。バックミラーでマスクを外した顔を見る。鼻だけ高くした整形は全く意味をなさなかった。
「取ろうか? このままでいいか」と呟いてエンジンをかけた。
恵梨は学校から帰ってくると淳之介に張り付くのが日課になっていた。
「ねぇねぇ、昨日、美湖ちゃん、ここでお泊まりしたの?」
「え?」と思わずぎっくりしたような顔になってしまう。
「だって帰ってこなかったよ」
「帰ってないの?」
「うん。先に寝たけど、朝になってもいなかったよ」と淳之介の戸惑いに気づかない恵梨はしっかり説明していた。
「じゃあ…、自分の部屋に戻ったのかな。…無事だといいけど」と変な胸騒ぎを感じつつ、淳之介は呟く。
「え? 家まで送らなかったの? 喧嘩したの?」
「してない。とりあえず、宿題しておいで。今日こそはファミレス連れて行ってあげるから」と言うと、嬉しそうに二階へ上がって行った。
あの後、祥子の家に戻らなかったのなら、自分の部屋に戻ったらしい。大丈夫だろうか、と心配になる。あの様子だともうここへ来ることはなさそうだから、こっちから様子を見に行こうかと考えたが、美湖の家がどこか知らない。最寄駅は聞いたけれど、そこで待っていたら、ストーカーと全く変わらない。どうしたものか、と思案していた時、電話が鳴った。
「あの川田さんのお電話ですか」と年配の人の声がする。
その声に聞き覚えがあった。
「…太田会長ですか?」と思わず声が跳ねた。
会社員時代の得意先だった。時間をかけて、ゆっくり付き合わさせてもらって、ようやく信頼を勝ち取り、取引を軌道に乗せたところだった。
「よく分かったね。そう。太田だよ。君の会社…担当を変えられて…それで無茶なことばかり言うから切ったんだ」
「…あぁ。すみません。僕は退社したもので」
「知ってるよ。あの会社に接待されたゴルフコンペで…君が急に担当から外れたって他でも聞いたけど。どこも似たような話ばかりでね。その帰りに…一斉にみんなあの会社を切ったんだよ」
「え?」
「接待やら派手なことはしてくれるけれど、仕事となると無茶が多い。そんな関係は長続きできないよ。それで…。ちょうどライバル会社から話が来ててね。君となら仕事したいけど…って言ったんだ」
「はぁ…」
「だから近々、丸尾商社から君宛に電話が来ると思うんだ。ぜひそこで働いて、また一緒に仕事してくれないだろうか」
「えぇ?」
「いや、君が今何の仕事しているかは知らないし、突然、失礼なことを言ってるとは思うんだ。君も思うことがあっての退社だろうから、また同じ業界で働くのも…とは思うのも分かる。ただ話があるので聞いて欲しいと思って。事前にこちらから電話させてもらった」
淳之介は驚いて、とりあえず電話を待ちますとだけ答えて、電話を切った。
丸尾商社は最終面接で落とされたところだった。
「君が仕事をする上で一番大事なのはなんだと思う?」と聞かれて「人とのつながりです」と答えた。
なるほど、と頷いたような顔をされたが結果は落ちていた。
「うーん」と唸りながら、タイミングよくこんな話が舞い込んできた。
聞くだけ聞いてもいいだろう、と思う。クラゲが横でプワプワ浮かんでいた。
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