第18話

最後のキス


 タラッタッター。


(クラゲの兵隊がラッパを鳴らします。そして隊長がその間を通っていきます)


 恵梨は画用紙にクラゲの兵隊を描いていた。隊長は帽子を被せて、長い棒を持たせる。淳之介はまだ店の方にいる。そろそろ美湖が来る時間だ。淳之介はファミレスに連れて行ってくれるだろうか、と階段を降りる。


 美湖が来ていて、淳之介に何かを渡している。


「こんばんはー」と恵梨は顔を覗かせる。


「あ、恵梨ちゃん…。見て」と美湖が手招きをしてくれる。


 恵梨が近寄ってみると、淳之介に渡していたのは可愛いクラゲのアイシングクッキーだった。アラザンで目がつけられている。


「可愛いー」


「これ、売ったら、どうかな?」と美湖が言う。


「クラゲのクッキー。可愛いけど…」と恵梨は少し首を傾ける。


「…買う人いるかな?」と淳之介も首を傾げる。


 すると美湖はあからさまに落ち込んだ様子を見せた。


「あ、いや、クッキー自体は可愛いんだけど…。クラゲにそんな吸引力あるかなっていう話で」と慌ててフォローする。


「ごめんなさい。私…余計なことを…」とさらに落ち込む美湖が泣きそうになった。


「食べていい?」と恵梨が言って、一つもらう。


「普通に美味しいよ」と言ってから、それがまた傷をつけてしまう。


 そこに祥子が帰ってきた。今日、予約していた生徒が残業で来れなくなったから早く帰ってきたという。


「どうしたの? 美湖ちゃん、いじめられてるの?」と言って、近寄る。


 手にしていたクラゲのクッキーを見て「可愛い」と祥子が言う。


「…」


 それでも落ち込んだままだったので、一体、何があったのか詳しく聞くことにした。

 美湖は日々、売上のないクラゲ店をなんとかしようと考えて、クラゲクッキーを売ることを思いついたのだった。それで趣味で作っていたアイシングクッキーを作ることにしたらしいが、二人の反応がいまいちなので、ちょっと落ち込んでしまったらしい。


「ふーん」と祥子は頷いて「とりあえず、みんなでご飯食べない?」と言う。


「はい」


「淳之介君、ファミレスは?」と淳之介のシャツを引っ張って恵梨が聞く。


「今度にしよう。お母さん帰ってきたし」と小さな声で恵梨に言う。


「ん? ファミレス?」と祥子が振り向くけど、淳之介も恵梨も首を横に振った。


 今日は少し蒸し暑いので、お蕎麦にしようということになって、お蕎麦を茹でた。祥子が帰りに買ってきてくれていた。


「美湖ちゃんも来るかと思ったからたくさん買ってるの」


「…ありがとうございます」と言って、美湖は頼まれてネギを切っていた。


 恵梨はちゃぶ台の上のスケッチブックと色鉛筆を片づける。大きな皿に山盛りになった蕎麦が真ん中に置かれた。つゆは市販のものだったが、ネギとワサビと茗荷が小皿に並べられた。あと、だし巻き卵も焼かれた。


「わー、美味しそう」と恵梨は喜んで、お箸を並べる。


「じゃ、頂きましょう。お腹空いてたら…悲しくなるもんね」と祥子が言って、みんながいただきまーすと手を合わせた。


 初夏にはさっぱりとした味わいのお蕎麦が気持ちよく喉を通り過ぎて行く。


「美湖ちゃん…。さっきのクッキーだけど…、可愛い缶に入れて、それからクラゲだけじゃなくて…ヒトデとか入れて、開けると海の生き物があるようなコンセプトで作ったら売れると思うの。…でも多分…淳之介君はクラゲの店で儲けようとか少しも思ってないと思うのよ? だから…自分の副業としてやるなら、したらいいと思うの。佐伯さんの店にでも少し置いてもらって…様子見るとかね」


 祥子は淡々と美湖に言う。美湖の頭にリアルに海のクッキー缶が思い浮かんだ。そして淳之介の力になりたいと思っていたことが独りよがりだったということも分かる。


「…そう…ですね」


「でもアイデアはとっても素敵だと思うの。アイシングのところに粒の大きい塩を乗せて、ちょっと塩気のあるクッキーだったらアイシングの甘さと合うと思うし。青いトレーシングペーパーを缶に敷いて、きっと可愛いと思うのよ」


「人魚姫! 人魚姫も入れて」と恵梨は言った。


「クッキー缶を通信販売でやってみるとか、地域の手づくり市に出すとか…色々売り方はあると思うの。でも淳之介君はきっとあなたにそれを望んでいないと思う。あなたがしたいのなら、私は力になるけれど…。彼のために無理にすることじゃないわ」


「美湖ちゃん…。気持ちはありがたいけど…。僕はこの店はずっと続けようと思ってなくて…。続けられなくなったら、やめたらいいって思ってて。だから…何か手伝えることがあれば僕も力になりたいけど、僕のために…っていうのなら、しなくていいんだ」と淳之介は祥子が気持ちを言ってくれたが、自分からも断ろうと思った。


「…はい。すみません。私…何かできる事ないかと…思って。それで」


「ありがとう」


「えー? 美湖ちゃん、辞めちゃうの? クッキー作ろう? だって、きっと可愛いと思うよ」と言って、恵梨は片付けたスケッチブックを持ってくる。


 そして美湖の前に広げる。色とりどりのクラゲ。中には帽子を被ったクラゲもいる。


「これはクラゲ王国の絵なの。美湖ちゃんもクラゲが好きになったんでしょ? クッキー作ろう? 私手伝うから」と美湖の横に座って、スケッチブックを見せる。


「これ…人魚姫?」


「うん。クラゲ王国のお姫様」


「そっか…。作ってみたいな」


「うん。作ってみよう」


「じゃあ、日曜日、ここで作りましょう」と勝手に祥子が言う。


「碌なオーブンないのに…」と淳之介は言う。


「それでも…何か作れたらいいじゃない」と祥子が言った。


 今日は祥子が早く帰れたので、恵梨も起きているから、先に帰るという。美湖は後片付けを手伝ってから帰ると言って、聞かない。仕方なく皿を洗ってもらって、淳之介はちゃぶ台を拭いたり、ごみを捨てたりした。終わってから、ちゃんと美湖を話ができるから、これでよかったのかも知れない、と思った。コーヒーを淹れて、美湖をちゃぶ台に呼ぶ。


「美湖ちゃん、色々考えてくれてありがとう」


「いえ…。私…余計なことをしてしまったみたいで」


「ううん。余計なことじゃなくて…。気持ちは本当に嬉しかったから。だから…そろそろ店を辞めようと思ってるんだ」


「え?」と美湖は思わず淳之介を見る。


「お金も減る一方だし…。それに君に心配までさせてしまって…。ちょっと情けなくなったから」


「そんな…。私…。何もできなくて…。でもあの場所は私の好きな場所でもあって…だから…あの…。辞めるなんて…」


「もうそろそろ…浮上しないとね。みんな、毎日頑張ってるのに…。美湖ちゃん、ありがとう。一生懸命に考えてくれて。だから少し前に進もうと思う」と淳之介は言った。


 美湖にとって、クラゲ店は心地いい居場所だった。

 

「それと…君の気持ち、有難いし、嬉しいけど…。今はまだやっぱり受け入れることができない」


 そう言われると思っていたが、実際に言われると、ショックを受けた。思わず涙が溢れてしまう。淳之介の立場を考えると分からないわけでもない。それなのに泣いてしまって、おろおろさせてさせている自分にも嫌気がさすが、止められなかった。ティッシュを差し出される。


「じゃあ…。最後に…キスしてください」


 どうしてそんなことを言ったのだろう、と美湖は自分でも思った。恋が下手で、淳之介をずっと困らせてばかりいる。ジタバタして…、結局、うまく行かない。そう思って目を閉じた。困惑している淳之介を見るのも嫌だったし、美湖は本気でキスをして欲しいと思ったからだ。

 淳之介がこっちに来る気配がする。

 唇が触れる前にそっと抱きしめられた。淳之介の匂いを近くで感じる。顔を上げると淳之介と目が合った。好きですと言いかけた時、口を塞がれる。柔らかい優しいキスを受けながら、ほんの少しでも好きと思ってくれているのだろうか、と美湖は思った。

 キスが終わって、淳之介はもう一度美湖を抱きしめた。その温かさの中で、美湖はもう会いに来るのは止めようと思った。


「淳之介さんのこと…応援してますね」と言って、泣きながら笑った。


「…ありがとう」


 クラゲ店を出て、家まで送るという淳之介を断って、美湖は手を振った。この日は祥子の家に美湖は帰らなかった。

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