第17話

記憶の海


 朝一で急いで病院に佐伯は向かった。香里が目を覚ましたというのだ。櫂のことをどう伝えればいいのだろう、と思いながら、櫂が着ていた服を着て、病院に向かう。目が覚めたとは言え、まだ体が思うように動かないのに、心のショックを与えたくなかった。櫂として会うことを決める。

 今日は花束も用意する余裕がなかった。

 香里の両親が来ていて、玲を見て驚く。


「玲くん?」と母親が声をかける。


「…はい。そうです。でも…櫂として…会おうかと。ショックを与えたくなくて」


「そんな…」


「会っても、いいですか?」


「えぇ。それは…でも…話も辿々しくって…」と母親は涙を拭いた。


 佐伯はドアの前で一呼吸整える。そしてゆっくりドアを開けた。意識が戻ったことで、個室に移したらしい。窓際に置かれたベッドに近づく。ゆっくりと香里がこっちを向いた。目が開いている。事故以来、香里の瞳を見るのは初めてで、佐伯は感動して、何も言葉が出てこなかった。


 次の瞬間、思いもかけない言葉が香里から投げかけられた。


「…だれ?」


「え?」


「ごめんなさい」と言って、不思議そうな顔で見つめられた。


「櫂のこと…覚えてない?」


「か…い?」と言って眉根を寄せた。


「付き合ってた人のこと…」と佐伯が重ねて聞いた。


「付き合ってたの? 私?」


 佐伯は額に手を当てる。まさか櫂を忘れてしまうなんて考えてもいなかったから、無駄なことをしたのだろうか、と倒れそうになる。


「…そんなことって…」


「あなたは?」


 もう櫂の振りをしなくていいのだろうか、と佐伯は迷った。でも何かの拍子に思い出すかもしれない。迷って、何も言えないまま、病室を出ようとした時、香里のお母さんが入ってきた。


「玲君…。これ」と冷たいコーヒーを持ってきてくれた。


「…ありがとうございます」


「れ…い?」と香里は何かを思い出すような顔をして、そして「玲? でも…顔が…」と言う。


「玲君ね…。あなたのために…」と母親が言うのを佐伯は止めた。


 そしてコーヒーだけ受け取って「また来ます」と言って、表に出た。


 まさか櫂のことだけを忘れているなんて思いもしなかった。そんなことが本当にあるのだろうか…と佐伯は思いながら、歩いていると、父親と医者が一緒に歩きながらこっちに向かってきた。

 お辞儀をして通り過ぎようとした時、父親から声をかけられた。


「毎日来てくれてありがとう…。おかげで目を覚ましたよ」と少し涙ぐんで言う。


「いえ…僕は…」


「外からの刺激が良かったのかもしれないですね」と医者が言った。


「あの…特定の誰かだけ思い出せないって言うこと、ありますか?」


「ありますよ。解離性健忘と言って…強いストレスを感じた時…自分を守るために。事故なんかは多いです」と説明してくれた。


 受け入れ難い事実を香里は知っているのかもしれない。


 櫂が死んでしまったと言うことを。

 事故当時に助手席にいた香里は知っていたのかもしれない。

 そのストレスが櫂を忘れさせている?


「思い出すことは…ありますか」


「それは…なんとも言えませんが、思い出したとしても…。フラッシュバックで苦しめられたり…」と医者が言う。


 佐伯は一礼をすると病院を後にした。外は夏の日差しが降り注いで、目が開けていられなくなる。


「…愛してる」


 誰に言う訳でもなく、佐伯は夏の空に呟いた。


 香里が櫂の死を知っていたとは思いもしなかった。きっと目覚めた時、櫂がいなくて、辛くなるだろうと、そう思って…、と顔を触る。もともと従兄弟だから似てはいた。もちろん鼻の高さなんて、全く違うのだけれど、鼻の手術をして、カラーコンタクトをすれば櫂に似ていた。鏡を見ると、櫂が映る。

 ずっと櫂と一緒に生きていた。自分はその間、死んでいるようだった。

 淳之介のことを言っていられない、と佐伯は車に乗った。

 もう香里に会うのは止めよう。きっとこの顔だと余計に辛い思いをさせてしまう。そして香里から逃げるように車を走らせる。



「淳之介君。おやつ」


「恵梨ちゃん…。ちょっと待って」


「スーパー行こう?」


 クラゲに餌やりをしていると学校から帰ってきた恵梨は淳之介にひっついている。


「分かったから、宿題して待ってて」


「本当? じゃあ、ここで宿題していい?」


「ちゃんとテーブルでしておいで」


「うーん。分かった」と言ってもすぐに動かない。


「どうしたの?」


「あのね…。淳之介君は美湖ちゃんのこと、好き?」


「え? なんで、そんなこと聞くの?」


「だって、美湖ちゃんが…好きって言ってた」


 餌を入れた注射器を滑り落としそうになる。慌ててしっかり握った。


「淳之介君は嫌いなの?」


「嫌いじゃないよ。でも…もういい年だし…なんて言うか、クラゲの店は少しも先も見えないし…」


「じゃあ、クラゲの店が儲かって、大繁盛だったら、お付き合いするの?」と恵梨は大きな目で淳之介を覗き込む。


「うーん」と唸って、淳之介は言葉を無くした。


 大繁盛する未来が全く想像できない。


「お付き合いするのに、お金って必要なの?」


「お金は何するにしても必要だよ。おやつ買いに行くのも。恵梨ちゃんはおやつ買いに行けない人は嫌じゃない?」


「隊長」


「隊長?」


「あ、ううん。えっと、淳之介君だったらいいよ」


「え? じゃあスーパー行かないよ」


「それは…困るけど」としゅんと俯いたので、淳之介は笑って「ほら、宿題しておいで」と言った。


「うん。スーパー行ける?」


「行けるから」と言うと、元気よく立ち上がって、階段を登って行った。


 クラゲの餌を一通りやって、淳之介は二階が静かなので、様子を見に行った。宿題に難しい問題があったのだろうか、と思い声をかけようとしたら、画用紙に必死に絵を描いている。後ろから覗くと、色とりどりのクラゲが浮かんでいた。


「綺麗だね」


「あ」と言って、少し恥ずかしそうに笑う。


「南の海のクラゲみたいだ」


 見たことのない南の海にたくさんのクラゲが光に反射して、いろんな色のように見える。そんなことを想像して、淳之介は絵を見た。


「いつか行ってみたいな…」と呟くと恵梨は嬉しそうに話し出す。


 タイに行った時に見た海だそうだ。その時はパパもいた、と言う。三人でタイの南の島に行って、泳いだり、昼寝をしたりしたと言う。


「淳之介君も一緒に行こう。いつか」と恵梨が言う。


「そうだね」


「約束しよう」


「約束?」


「いつか、南の島のクラゲを見に行こう」


「クラゲいたの?」


「うーん、覚えてない。だから見に行こう」


「分かった」と淳之介が言うと、恵梨は小指を立てる。


 その小さな指に絡ませて、指切りをした。約束をすればするほど、不確かな気持ちになるのはなんでだろう、と淳之介は思った。でも約束は優しい嘘だ。今は二人で南の海を想像して、そして満たされることができる。透き通った海と白い砂浜と暑い太陽の日差しがそこにある。

 日差しが届かない深海にずっといたけれど、今だけは南の海にいた。


 恵梨が嬉しそうに笑う。


「なんか…恵梨ちゃんに救われた気がする」


「え?」


 淳之介は深い海に溺れていた。もう二度と日の当たる場所に行くことはないと自分から身を沈めたのだった。


 ぶくぶくぶく。


 真っ暗の中でクラゲを一緒に過ごしている時に、天井から光が差したような気がした。


 スケッチブックをめくると、いろんな絵が描かれている。綺麗なお姫様の絵がたくさんあった。中に人魚姫の絵もある。なんとなく恵梨に似ている気がする。じっと見ていると、

「あ、人魚姫。王子様を助けるんだよ」と教えてくれる。


 王子様ではないけれど、差し込んだ光から恵梨が手を伸ばしてくれている気がした。


 ぶくぶくぶく。

 あと少し、もう少し。

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