第16話
静かな夜
「王子様が欲しい」
恵梨はそう言うと、みんなを眺めた。
「恵梨…。今はわがままを言う時じゃないのよ」と祥子は恵梨に言い聞かせるように言う。
「まぁ、いいじゃない。どういう王子様がいいの?」と佐伯は聞いた。
「えっとね…。穏やかで、怒らなくて…それからお姫様抱っこしてくれる人」と恵梨は真剣に答える。
淳之介はいつもおんぶしているのだけれど、どうやらそれは嫌だったようだ、と軽く傷ついた。
「それで、その人が来たらどうするの?」と今度は淳之介が聞く。
「え? もちろん結婚するの。そして末長く幸せに暮らしました…って」と言う恵梨の回答を聞いて、祥子はため息をついた。
本当に自分を反面教師として恵梨は生きていくのだろう、と少し辛い。
「恵梨ちゃんは…すぐに結婚したいの?」と美湖が聞く。
「うん。すぐに。だって好きな人とずっと一緒にいられるなんて、素敵だもの」
その言葉はその場にいる全員を沈黙させるだけの重みがあった。唯一、光輔だけは明るく笑っていた。
祥子と美湖と恵梨が三人でアパートに向かう。淳之介は佐伯に捕まって、お酒を飲まされていた。星が綺麗だったが、田舎のようには綺麗に見えない。
「美湖ちゃんの実家だったら、綺麗に見える?」と祥子は空を見ながら言った。
「はい。それはもう…天の川とか…怖いくらいで」
「私、見たことないから、見てみたいの。天の川」
「天の川?」と恵梨が聞き返す。
「星の川よ」と祥子が教えた。
「…祥子さん。あのごめんなさい。迷惑をかけてしまって」
「迷惑なんて少しも思ってないの。来てくれて、嬉しいし…」
「…でも」
「美湖ちゃん、来てくれるから楽しい」と恵梨もバスケットと大きく振りながら嬉しそうに笑う。
「…ありがとうございます」と言って、でもまだ何か言いたそうな顔でそのまま歩いた。
アパートに着くと、恵梨にお風呂に入るように言って、祥子はお茶を入れた。何か話したいことがあるのだろう、と思ったからだ。
「紅茶でいい?」
「あ、なんでも」
氷を入れて、アイスティーにしてだす。少し汗ばんだから、スッキリと心地よかった。
「あの…」
「いいよ。聞くよ」と祥子は言う。
「私…、淳之介さんのこと好きで…それで…その…祥子さんは…どうかなと思って」
「私? 好きよ」
即答だったので、美湖は固まってしまった。
「ずっと、彼のこと、嫌いになったことない。でも…私、ずっと彼に対して自信がなかったの。今もそう」
「え?」
「…私よりお似合いの人がいるんだって…、どこかで思ってしまう」と言って、笑う。
「祥子さん」
「だからあなたは気にしないで。どっちにしろ…私たちは終わったんだから」
アイスティのグラスが汗をかいている。
「…どうして? あなたみたいな魅力的な人が…?」
「ありがとう」と言って、祥子は柔らかく笑って「でも…もし、淳之介君が私のこと好きだって言ったら知らないよ〜」と言ってアイスティを飲んだ。
美湖はまた固まってしまった。
その顔を見て祥子は
(大丈夫、きっと淳之介くんはあなたみたいなのがタイプだから)とは言ってあげられない自分を笑った。
美湖は唇を噛んで
「私、本気ですから。頑張りますから」と言って、祥子に言う。
「それは私に言わなくていーの。淳之介君に言ってあげて」と立ち上がった時、美湖の目から涙がぽろぽろと溢れだす。
慌ててティシュを渡して、涙を拭くように言った。大きな音で鼻を噛んでから、美湖がぶつぶつと言い始める。
「…言いました。そしたら…今はそんな気じゃない…とか…時間が欲しいとか言われて…。それって脈なしですよね?」
「え? どうかな。本当に時間が欲しいだけかもしれないし…。それは分からないけど」
「私…我儘ですか?」
「それも淳之介君に聞いて」と言うと、テーブルに突っ伏して泣き始めた。
祥子は美湖がお酒を飲んだかな、と記憶を辿る。何だか一杯だけカクテルを飲んでいたような気がする、と思い出して、「泣き上戸?」と話しかけてみた。すると今度は勢いよく顔を上げて「違います」と言って、一瞬、目を大きく開けたかと思うと、またテーブルの上に上半身が崩れた。
「お酒…弱いんだっけ」と祥子は頭を撫でた。
お風呂から出てきた恵梨に寝るように言って、美湖にタオルケットをかけてからお風呂に入った。恵梨はお布団の中に入ったものの、テーブルに突っ伏している美湖が気になって、抜け出た。
「美湖ちゃん…。お風呂入らないの?」
「…うーん」と呟いて、また寝息を立てる。
「美湖ちゃん…。淳之介君が好き? いい人だよ。クラゲ王国の隊長で、 優しくて…。ファミレスに連れて行ってくれて…。でも…」と恵梨は心の中で自分の気持ちを呟いた。
そして画用紙を持ってきて、寝ている美湖の顔を描いて、横に「おやすみなさい」と書いて、布団に戻る。
祥子がお風呂から出てくると、寝ている美湖の絵の横に恵梨がおやすみなさいと書いているので、「お風呂に入りたかったら入ってね。明日は月曜日だから、頑張ろう」と書いて、さらに絵にまつ毛を増量しておいた。
美湖は夜中に目を覚まして、自分がどこにいるのか一瞬、分からなくなる。横に置かれた画用紙に目をやる。なんとも言えない優しい気持ちになった。昨日、祥子と話している間になんだかとても眠くなってしまったのだった。そもそも元婚約者の実家に行くという緊張であまり眠れなかったのだ。
お風呂を借りようと立ち上がると、一つのお布団に二人がくっついて寝ているのが見えた。月明かりが親子を浮かび上がらせる。恵梨は祥子の肩に頭をつけて眠っていた。それを見た瞬間、美湖は自分の子供が欲しい、と強く思った。美湖が来たせいで、二人が一緒に寝ているのだが、その光景は平和で 優しく見える。
足音を立てないようにそっと二人の横を通って、風呂場に向かう。祥子と何かしゃべっていたような気がしたけれど、全く覚えていなかった。お風呂を素早く済ませて眠る準備をする。そしてようやく元婚約者ともしっかり終えたことを振り返って、眠りについた。
淳之介は佐伯の店で目が覚めた。個室のソファで一人で寝かされていた。店はもう閉店しているはずだった。起き上がって、個室から出る。カウンターの方に明かりが灯っている。
「…お水、もらえますか」と淳之介が言うと、「おはよう」と佐伯は笑いながら、コップに水道水を入れてくれる。
「…。仕込みをしてるんですか?」
「うん。そう。キャロットラペ。味見する?」と言って、菜箸を上げる。
「今何時ですか?」
「十二時半過ぎたところ」と言って、冷蔵庫に作ったキャロットラペを入れる。
「ご飯も作れるんですね」
「そうだね。簡単なものだけどね。祥子ちゃんが教えてくれた」
「祥子と…付き合ってました?」
「何? 嫉妬? 付き合ってないよ」
「…いえ。もしあなたと付き合ってたら…こんなことにはなってなかったのかなって思って」
佐伯が笑いながら淳之介を見た。
「そうかな? それは分からないけど。…僕はずっと好きな人がいるから」と水道水のグラスを勧める。
塩素の味がして、少しぬるい水だった。
「その人は…二度と僕を好きになることはないけどね」
淳之介はその意味が分からずに、何も言えなかった。その時、携帯の電話が鳴る。焦ったように佐伯が出る。相槌を打っている佐伯だったが、いつもと様子が違って、余裕がなさそうだった。
「…はい。えぇ。わかりました。明日…はい。朝一で向かいます」と言って、電話を終えた佐伯がその場に座り込んだ。
淳之介は「大丈夫ですか?」と声をかけたが返事がなかった。
不安になって、カウンターを覗き込んだ。そこに、座り込んだままの佐伯がいる。
「あの…」
「目…を覚ましたって…」
「え?」
「…眠り姫が」と言って、黙ってしまった。
そして淳之介を手で追いやって、帰るように言う。立ち入っては行けない領域だと分かって、淳之介は店を出た。外に出ると、真夜中の星空が広がっている。ゆっくり歩いて帰ろう、と思った。特に明日、急いで店を開ける必要もない。そろそろ…淳之介も考えなくては行けない。いつまでもクラゲと過ごしていても仕方がない。それは誰より一番分かっていた。
夜空とクラゲと…そして自分しかいない世界に淳之介は帰っていく。ずっとそのことを考えながら…。星もクラゲも静かな夜だった。
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