第22話

曖昧な優しいさ


 祥子は自分のご飯がないので、帰りに買って帰ると言った。淳之介は何だか申し訳ない気がして、「お茶でも…」と言ったが、祥子は首を横に振った。


「恵梨、荷物片付けて降りてきて」と言って、すぐに家に帰るようだった。


 恵梨は軽い足取りで二階へ上がって行く。それを見ながら「ごめんね」と祥子は呟いた。


「ごめんね。淳之介君もディズニーランドに連れて行かされて…。本当は美湖ちゃんと二人で行けたらよかったのに…」と申し訳なさそうに謝る。


「あ。え? あのさ…美湖ちゃん、クッキー作るって」と慌てて言った言葉は足りなかった。


「そうよね。日曜日来るのかしら?」


「そうじゃなくて…」と淳之介は美湖が学校に通って、真剣にクッキー作りを考えていることを伝えた。


 そしてもしかしたら実家の近くに戻るかもしれない、と言っていた話までする。


「え? どうして? だって、あの子は好きだったのに…。淳之介君が振ったの?」と驚いた顔になった。


 祥子は美湖が淳之介のタイプだと思っていたから、付き合わなかったのが意外に思える。


「…振られたんだと思う。はっきり決められなかったから」


「淳之介君は好きだったの?」


「まぁ…。可愛かったかな」と言うと、それを聞いて祥子は笑った。


 はっきりさせないのが淳之介の優しさだと思った。


「確かに可愛かったのに。昨日、美湖ちゃん帰って来なかったから…てっきり…。電話するのも野暮だと思って」


「あ、昨日は自分の家に戻ったらしいよ」と慌てて誤解を解いておく。


「そっか。…淳之介は優しいけど」と言いかけた時、恵梨が降りてきた。


「じゃあ、ありがとうね」と言って、祥子は入り口まで行く。


 恵梨はクラゲに優雅に手を振って、そして「淳之介君、ありがとう」と言って、また優雅に手を振った。二人を見送ると、淳之介は店に鍵をかける。そして二階へ上がるとパソコンを開いた。仕事をするように、ディズニーランドをどうやったら恵梨と楽しく効率よく回れるか考えて、予定を立てた。

 仕事の件も少し考える必要もあった。



 佐伯はあれから毎日、香里の見舞いに行った。

 今日は病室に行くと空っぽで看護婦さんに聞くと、リハビリ室だと言われた。リハビリ室に向かうと、丁度、休憩していた香里がいた。香里は佐伯を見つけると、嬉しそうに微笑みかけた。その笑顔は相変わらず櫂を思い出していないことを教える。

 そしてそのことが少し佐伯の気持ちを落ち着かせた。


「具合はどう?」と横に座りながら聞いた。


「今は歩くリハビリしてるの。結構スパルタだから大変」と香里は言った。


「ゆっくりでいいよ」


「でも早く元に戻って、玲に遊びに連れていってもらうんだって思いながら頑張ってるの」と真剣な顔で佐伯を見る。


「…そっか」とまだマスクをしたままで、佐伯は微笑んだ。


「玲は毎日来てくれるけど、仕事とか…大丈夫?」


「仕事は優秀な部下が頑張ってくれてるから大丈夫。夜に仕込みをしておくし…。でも邪魔をしているのなら、来ないけど…」


「え? 邪魔じゃないよ。嬉しいよ。来て、来て」と必死で言う香里の顔を眺める。


(もし櫂のことを思い出しても、そう言うだろうか…)


 何か言おうとした時、リハビリの先生に香里は呼び出された。


「後、三十分で終わるから、もしよかったら、待ってて」と言われる。


 三十分くらい、今までの時間に比べたら、なんていうこともない。片手を上げて、リハビリに向かう香里を見送った。

 都合のいい夢を見ているみたいだ。櫂の記憶だけが抜けて、佐伯を頼ってくれている。一生、櫂のことを思い出さなければ、幸せになれるだろう。でもその補償はどこにもない。いつ、どんな時に、どんな形で記憶が蘇るのか…想像もつかないし、それは香里にとって辛いことだと思う。ただ彼女の辛い時に、傍にいたいと思う。

 眠っていた香里にずっと寄り添っていたように…。


「櫂のことを思い出したら…僕は必要なくなるだろうか…」と佐伯は呟く。


 今の香里は櫂に会う前の香里だ。


 リハビリが終わって、病室に戻るのにゆっくり寄り添う。


「手、必要だったら」と言うと、「腕を借りてもいい?」と言われるので、腕を差し出した。香里はそれを掴みながら、ゆっくりと歩く。


「玲…ごめんね。玲の従兄弟を好きになって…」


「え?」


「今は…全然思い出せないんだけど…。私は玲の従兄弟とデートして…車で事故にあったんでしょう? それで彼は亡くなって…、私は記憶が無くなって…。それで玲にこんなに優しくしてもらって…。ごめんね」と香里は腕をつかみながらも、玲の顔を見て言った。


「なんで香里が謝るの?」


「私のこと…優しくなんてしなくていいのに」と言いながらも、よろよろ歩くので、つい、支えてしまう。


 エレベーター前までようやく来た。ボタンを押すと、すぐに扉が開く。中にゆっくりと入って行く。


「したくて…してることだから」


 エレベーターは二人きりだった。


「愛してる…って…ほんと?」


「あれは…櫂のフリしたから」と佐伯は言う。


「私を起こすためだけに言ったの?」と香里はちょっと膨れたように言った。


「…愛してる」


「え?」


「櫂のフリして言ってた」


 香里の記憶が戻っても、櫂は戻ってこない。

 佐伯は香里を支える覚悟を決めた。

 エレベーターの扉が開く。窓から差し込む光で、病室までの廊下が白く光っていた。二人でゆっくり歩いていく。

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