第25話

宝物 


 ダンボを抱えて眠る恵梨が横にいる。その横顔を祥子はじっと見る。疲れたのかお風呂に入ると、何か話そうとしていたようだけど、すぐに眠ってしまった。


「お土産」と渡されたハンドタオルをテーブルの上に置いた。


 淳之介に言われたことを考える。恵梨の父親が恵梨に会いに来ると言って連絡をしてきた。自分とよりを戻そうとしているのか、分からなかった。そもそも彼を愛したことがあったのだろうか、と祥子は考えた。

 悪い人じゃなかった。楽しい思い出だってある。恵梨が五歳の頃、タイに移って二、三年くらいはのんびり暮らせた。


 父親、ジョージの家は小さなレストランをいくつか経営していた。その中にアジアンレストランもあって、イギリスに留学中の祥子はそこでバイトして、ジョージと知り合い、デートに誘われた。祥子は英語の上達のためと思って、何度かデートに行くことにした。そんなに好きではなかったが、嫌いでもなかった。顔は悪くないが、どうもアジア人女性なら誰でもいい、と言った、ある意味、アジア女性蔑視を感じていたからだ。ただ付き合ってみると、意外なことに紳士的な態度だったし、話す内容も興味深いところはあったので、付き合うことにした。


 妊娠を告げた時は驚かれることもなかったし、特に喜ばれることもなかった。そうかと言って、出産を反対することもなかった。それも全て祥子の選択に委ねられた。


「結婚は望まない。子供は産む」と祥子が言うと、驚いたような顔をしていた。


「てっきり…結婚したいと言うかと思った」と肩を竦めて言われたので、祥子も肩を竦めた。


 永住権が欲しくて、現地の人と結婚したいアジア人女性は一定数いる。祥子は同じように思われたくないと言うプライドもあったが、この国に永住したいとそこまで強く思わなかった。


 でも紳士的な男だったので、つわりで具合の悪い祥子に食べれるものを買って来てくれたり、働けない時の生活費、出産費用も全て用立ててくれた。そして子供が生まれる瞬間も付き添ってくくれた。生まれた子供を抱いて、多少の感動はあったようだった。


「一緒に住もう」と言われて、祥子は子供のために一緒にいることに決めた。


 学校も通えるようにのサポートしてくれたし、そこらへんの男性よりよほど育児に積極的だった。それなのに気持ちはいつも凪いでいた。ジョージが恵梨を連れて、他のアジア人女性とデートに行くのを見ていたからかもしれない。


「どうして連れていくの? 一人でも大丈夫よ」と言っても「一緒に出かけたいんだ」と言って、聞かないので、放っておいた。


 どうせ恵梨を相手の女性に見せて、牽制するためのアイテムに使っているのか、あるいは


「子連れでもいいのか?」と言う相手の気持ちを測る秤として使っているのかもしれない。


 その相手と夜を過ごす前には恵梨を返しにきた。ベビーシッターと説明をしているのだろうか、と思ったが聞く気にもなれなかった。


 祥子が学校を卒業した時に、タイに行くからついてこないか、と言われた。本場で料理の勉強をしようと思ったらしい。タイには行ったことがなくて、興味があったのと、やはり一人で子供を異国の地で育てるのは大変だったし、日本に帰国したところで、勝手に子供を生んだことで、自分の両親からは勘当されてしまっていた。


 タイに移住するとバンコクの外れでやっていた地元のタイ料理店を買い取り、料理を学ぶと言っておきながら、コックもそのままでジョージは店を経営した。祥子は内装やインテリアを担当し、ウェイトレスもした。そんなに忙しい店ではなかったが、地元の客がちらほら来てくれたり、料理の配達も割合あった。

 のんびりとした空気感の中で恵梨を育てていると、このままでもいいかもしれない、と思った。年月を重ねていくうちにゆっくりとジョージは恵梨の父親になっていった。ただ恵梨が小学校に入学したくらいからだろうか。ジョージは遊びに出歩くことが増えた。


 結婚していないのだから、その辺は祥子がとやかく言う問題ではない。家を出ていけ、と言われない限りは、同居人として過ごそうと決めていた。


(男は裏切るから)とジョージが夜に出かける度に母の声が蘇る。


 そもそも結婚という契約をしていないのだから、裏切りも何もなかった。ただ…いつまでこうしていられるのかと思うと、そろそろ考えなければいけない、と思った。夜、一人でオープンエアのレストランでビールを飲む。氷を入れたグラスにビールを注ぐ。ジョージの店の従業員としてビザと給料をもらえてはいるが、タイにいつまでいるのだろうかとぼんやり考えた。恵梨のこともある。日本に帰って、日本を見せたいとも思う。

 携帯が鳴った。佐伯からだった。


「祥子さん、僕、明日、帰国します」


「そうなの? お疲れ様でした」


「…ありがとうございました」


「ご丁寧に…」


「祥子さんは帰らないんですか?」


「…ちょうど考えてたところで」とタイミング良く声をかけてくれた佐伯に感謝する。


「帰国することがあれば、いつでも声かけてください」と言われて、ようやく日本にも居場所があるような気がした。


「ぜひ」


 電話を切って、飲みかけのビールを流しにながす。恵梨が眠っているベッドの横に行く。すやすやと眠る寝顔を見て、何よりも大切だと思う。彼女を連れて日本に帰国してもいいかもしれない、と初めて思った。


「ちょっと南の島に行かないか」とジョージに言われた。


「仕事?」


「いや。バカンス」


「私と?」


「…家族で」


 思ってもみなかった言葉を言われて、祥子は驚いたが、行ってみたかったので、頷いた。バカンスは一週間。恵梨は楽しそうに海辺で遊んでいた。大きな声で呼ばれたから、祥子は恵梨のところまで走る。

 海岸に透明な不思議な形のものがあった。


「何これ?」と恵梨が指をさした。


「何かな?」と祥子が触ろうとしたら、後から来たジョージに「触るな。クラゲだ」と言われた。


 砂に打ち上げられたクラゲは透明に光っていた。強い太陽の日差しでいつかは干からびてしまうかもしれない。


 浅瀬にもちらほらクラゲが浮かんでいるのが見える。


「わ、クラゲー、あそこにも」と恵梨は楽しそうに指差す。

 

 波に煽られて、浮かぶクラゲを見ていると、不意に淳之介との初めてのデートの暗い水族館で見たクラゲを思い出した。暗い中でぼんやり光クラゲと今、目の前にいるクラゲは同じなのに全く不気味さはなかった。水の塊のような不思議な形をじっと見ている。

 あの時の胸のドキドキをあれから二度と感じることはなかった。ちょっとした好奇心で大切なものを失ってしまう。巻き戻せない時間の遠さを感じた。


 あの時、もし淳之介の好きな人を知らなければ…、知っていても、知らないふりができれば…、と何度、過去を振り返っても、きっと同じことをしていただろう。彼女の存在を知らないふりをして、付き合っていても、きっと卑屈になっていたはずだった。


「さようなら」と不意に口からクラゲに呟いていた。


「サヨナラ?」とジョージが聞き返した。


「…クラゲに」と言って、祥子は笑った。


 もうあの場所から時間も遠くにいる自分。祥子は過去の気持ちに手を振るつもりで大きく海に背伸びをした。



 嫉妬深い中国人の恋人の文句からか、祥子の存在が煩わしくなったようで、ジョージから別れを告げられて、日本に帰って来た。佐伯のおかげで色々、仕事も住むところもあったが、店の客から付きまといをされて、逃げ出した。佐伯の客だったので大事にしたくはなかったが、家を知られていたので、恵梨もいたし、怖くなって解約した。落ち着いたらどこか探そうと思って漫画喫茶を転々としている間に具合が悪くなってきた。


 タイにいるときから、時々体がものすごくだるくなる。病院に行くのが怖くて、先延ばししていたが、漫画喫茶の中でついに倒れてしまった。恵梨がお店の人に言って、救急車に乗せられた。


「検査も…入院もしません」


 そう言ったので、面倒臭い相手は出て欲しかったのか、すぐに退院できた。恵梨のために働きたいと思うけれど、淳之介への返済もしなければならないし、なかなか思う通りにならない。自分の不安な体調を考えたら、ジョージに恵梨を任せてもいいのかもしれない、とそんなことも考えていた。

 ジョージが恵梨を傷つけることは一緒に暮らしていた中で、一度もなかったからだ。


 そんな中で淳之介に言われた「祥子は好きに生きたらいいけど、もう振り回すのは辞めなよ」と言う台詞は胸に刺さった。


 恵梨の寝顔は大分、変わってしまったけれど、それでもやっぱり替え難い宝物だった。


「一人で産んで、育てるって思ってたけど…」


 それは思ったより大変だった。

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