第26話
手を掴む勇気
「祥子ちゃん、どうするの?」と佐伯はグラスを拭きながら、仕事帰りに立ち寄った祥子に話しかけた。
「どうしよう?」と軽い返事を返す。
「どうしたいの?」
「後少しは…恵梨といたいけど…。父親といるのもいいのかな」と言って、オレンジジュースを飲んだ。
「体調良くないんだったら、検査、してもらったら? お金なら心配しなくていいよ。出すよ。それくらい。だって…あのこともあるし」
「…あれは」
佐伯は自分の店の客のせいで、祥子がいなくなったのを知っていた。他の従業員から聞いていたのだった。
「恵梨ちゃんだって…父親といたくないんだろ? 自分から淳ちゃんにプロポーズしたんだっけ?」
「そうみたい。親子で同じ人、好きになってる」と言って笑った。
「笑いごとじゃないよ…」と佐伯はため息をついた。
「そろそろ帰らないと」と言って、席を立った。
「…祥子ちゃん、病院、予約入れとくから」と佐伯は言う。
祥子は首を横に振って、店を出る。正直、疲れたのだった。何かに反抗して生きるのも、誰かに頼って生きるのも、何もかも疲れた。恵梨は可愛い。でも可愛いと思った次の瞬間「お母さん、分かってない」とか、最近、大人になる前だからか、ひどく態度が悪い時がある。そう言うことにももう疲れた。体のだるさもあって、気持ちがどうも引きずられる。
淳之介の店まで行って、恵梨を引き取りに行った。
「この間は…ごめん」と淳之介に謝られた。
「いいよ」と祥子は普通に返事をした。
「でも力になるから言って」
「ありがとう」と言って、微笑む。
全てが隠す言葉だった。恵梨に荷物を片付けるように言うと「ご飯は?」と言われた。
「そうね…」と祥子がどうしようかと思った時、淳之介に腕を掴まれた。
「…祥子。ちゃんと…話を」と淳之介が言った瞬間、祥子の視界が暗くなった。
遠くで誰かの話し声が聞こえる。だんだん近づいてきて、それが恵梨だと分かった。
「大丈夫? 大丈夫かな?」
「こんなこと、今までにあった?」
「えっと…。あの病院に行った日以外はないけど…でも…時々、辛そうなことあった」
「…栄養…足りてないことないよね」
「あ、目を開けた」
恵梨が顔を覗き込む。
「大丈夫?」と淳之介も覗き込む。
どうやら二階に運ばれて、ソファに寝かされていたようだった。
「あ…ごめん」と祥子は起きあがろうとして、そのまま寝ているように言われる。
「ご飯、うどんでも作るから」と淳之介は立ち上がって、そのままキッチンに行った。
恵梨の心配そうな顔を見ていると、祥子は胸が辛くなる。
「ごめんね」と祥子が謝った。
「どうして? 謝ることなんかしてないよ」と恵梨が目に涙を浮かべてい言う。
まだ何もしていないけれど、祥子は恵梨を手放すことも考えていたのだった。そして泣きながら、首元に抱きついてくる柔らかい暖かさを感じながら、どうしたらいいのか分からなくなる。自分一人ではできることが限られていること。なんでも一人でしようと思っていたけれど…。誰にも頼らずと思っていたのはただの自分の意地だった。
(実家に帰ろうか…。今更受け入れてくれるとは思えないけれど)
「恵梨ちゃん、ご飯できたよ」と淳之介が声をかけてくれたから、恵梨は体を離した。
「祥子も…。うどん。食べられる?」
ゆっくりと体を起こす。淳之介が本当に心配そうにこっちを見ていた。
「…ありがとう」
恵梨はお腹空いていたのか、ちゃぶ台の前に行って、きちんと座っている。
「先に食べていいよ」と祥子が言うので、「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。
淳之介はソファに来て「病院、行こう?」と言う。
差し出された手を掴む勇気を出さなければ。誰よりも恵梨のために、と思って、祥子は口を開いた。
「…恵梨のこと…お願いできる?」
「預かれるよ。もし入院しても」
祥子は「私が…死んでも?」と小さな声で聞いた。
「え?」と驚いた顔をする。
「冗談よ」と言って、体を起こした。
ソファから立ちあがろうとした時、「いいよ」と淳之介が言った。
「え?」
「だから…安心して。祥子が大切にしてるの分かってるから」
思わず涙が溢れた。慌てて手の甲で拭ってちゃぶ台に座る。そして急いで手を合わせて「いただきます」と言った。
うどんにはネギと溶き卵が入っているシンプルなものだった。市販の出汁を使っているのだろうけれど、今まで食べた中で一番体に沁みた。
「ありがとう。美味しい」
「よかった」
恵梨は食べ終わって、淳之介にゼリーがないかと聞く。淳之介は冷蔵庫から葡萄味のゼリーを取り出して、恵梨の前に置いた。美味しそうに食べる姿を見て、淳之介だって、彼女を守りたいと思った。
初めて来た時は「施設に行かなくてはいけない」と言っていたのに、随分、気持ちの変化が出るものだ、と自分で驚く。
後片付けをして、淳之介の店を出た。アパートまで送って行こうと言ってくれたが、店先で別れる。恵梨はゼリーも食べれたのが嬉しいのかスキップをして夜道を歩いた。
「ねぇ。淳之介君、お姫様抱っこして、二階へ運んだんだよ」
「え?」
「ちょっと大変そうだったけど」
「あ…。恥ずかしい」と祥子が言うと、恵梨は不思議そうに言った。
「どうして? 私だったら嬉しいのに」
幸せそうな顔できらきらした表情で言う。どうかこの子が幸せでありますように、と祥子は願いながら、ふと自分は幸せなんて欲しくないと思っていた、と苦笑いをした。淳之介がいてくれて、気持ちがずいぶん楽になった。
恵梨が祥子の腕に手を絡ませてくる。
もう何もかも嫌だ、と全てを投げ出してどこかへ行きたくなる気持ちも本当だし、この温もりを大切にしたいという気持ちも本当だ。とりあえず、病院は行こう、と祥子は思った。恵梨は愛嬌もあって、人見知りもしないからきっと大丈夫だとは思う。けれど、あんなに首に巻き付かれて泣かれると、自分が彼女にとってかけがえのない存在なんだと思わされた。
「お母さん。好き」
その言葉は誰よりも本当だと思った。夏の夜は微かに風が吹いて、歩きやすかった。わずかな距離を二人で帰る。月と星と一緒に。
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