第14話
かつて好きだった人と今好きだと言ってくれる人
柔らかな暖かさが背中に伝わってくる。思いがけない行動を取られて、淳之介は動けなくなった。クラゲがふわふわと漂っているのを目でしばらく追っていると、少し震えているような感触がした。
「ごめんなさい」と言って、美湖は体を離す。
ゆっくり淳之介が振り返る。
「どうしたの?」
「ごめんなさい。あ…の…。好き…です」
「え?」
美湖は俯いて、両手を胸のところで組み合わせている。様子がおかしい。
「好きって…」
「あの…私」と言って黙り込むが、手も足もガタガタ震えていた。
「どうしたの?」
落ち着かせようと、二階に上がる上り框に座らせる。
「ちょっとお水持って来るから」と言って、淳之介は階段を上がる。
突然で驚いたが、柔らかな感触と暖かい体温に触れたのは久しぶりだった。緊張して震えているのとは少し違うような気がして、コップに冷蔵庫のミネラルウォーターを入れる。階段を降りると、美湖は泣いていた。
横に座ってから声をかける。
「どうしたの? お水飲める?」
「ありがとうございます」と声も震えていた。
少し水を口に含んで、それから「あの…あの」と繰り返した。
「落ち着いてからでいいよ」と淳之介はぼんやりとクラゲを見ながら立ち上がって、店を閉めることにした。
閉めなくても誰も来ないだろうけれど、万が一、誰か来たら困ると思って、表の看板をclosedにして鍵をかける。しばらく美湖から離れて、クラゲを眺めて過ごした。突然、告白されたけれど、あれが本心だったとは思えない。
「ごめんなさい」と細い声が聞こえた。
「…うん?」と言って、少し距離を空けて、美湖の前に立った。
「元…婚約者が駅にいて…私に…両親に謝れって」
「え?」
「それで腕を掴まれて、逃げてきたんです。家は知られているから…ごめんなさい」
美湖は結婚を約束した人がいた。親の挨拶もして、婚約していたのに。式場を決めるのも楽しみにしていたのに。ある日、音信不通になった。電話をかけてもつながらず、折り返しかけてくることもなかった。休みの日に、家に行くと、全く知らない女性が出た。長い髪が綺麗で、部屋着のような格好だが、相当美人だ。
「だあれ?」と知らない女性に言われて、部屋を間違えたのかと思った。
その女性の後ろに婚約者を見るまでは。
二人でお揃いのTシャツを着て、短パンと言うラフな服装をしている。
「どう言うこと?」と声がようやく出たが、ダンマリを決め込んで、謝罪も釈明もしない。
扉を開けていた女性が後ろの婚約者と見比べて「あ、結婚迫った女ってこの子?」と婚約者に聞いた。
どうやら婚約者の中では美湖は結婚を迫った女になっていた。
就職して一年、先輩のあたりがきつく、転職しようかと悩んで、相談もしていた。その時、「結婚しよっか」と言ってくれたのは愚痴を聞きたくなかっただけなのだろうか。仕事の悩みを話したことが結婚を迫ったことになったのか…、と美湖は呆然とした。親の前で「幸せにします」と言ってくれたのは嘘だったのだろうか。美湖の実家まで電車で言って、家の前で「緊張するなぁ」と言って、でもしっかり挨拶してくれたのは…何だったのだろう。
いろんなことが頭の中を駆け巡る。
「結婚…したくなかったんだ」と美湖が呟く。
ようやく聞けた声は「ごめん」だった。
もうそれ以上、そこに立っているのが惨めだった。馬鹿みたいに、結婚できると浮かれていた。仕事は辛かったが、結婚できると思うと、なんとか続けられていた。でもそれは美湖一人だけの考えだったのだ。目の前にいる男は違う女に、美湖をウザイ女として話していた。美人に言い寄られたのだろうか。自分から行ったのかは分からない。でも明らかに美湖は捨てられたのだ。
「そっか。気づかなくて。…馬鹿だから」と美湖は自分でそう言って、口角だけ上げた。
婚約者の部屋に些細な私物があったが、もうどうでも良い、と思った。お辞儀をして立ち去る。
「あ」と言ったのは、美人の方だった。
美湖は勢いよく後ろを向いて、そしてそのまま走って去った。涙が溢れるのハンカチで押さえながら、駅まで向かう。不思議なことだけど、嫌な思い出が少しも思い出せなかった。優しかった記憶が後から後から出て、駅についても、ずっと待合室の椅子から立ち上がれなかった。もしかしたらここまで来てくれるかもしれない、と少しは期待もしていた。
小一時間して、家でしっかり泣こうと思って立ち上がって、電車に乗った。泣き顔を見られたくなくて、ドアの横で立っている。揺れに耐えながら、風景を見る。婚約者の家に行く時に、幾度ともなく見ていた風景だ。もう見ることもないだろう、と思って眺める。窓から流れる風景を見ていると、最寄駅の手前で小さな青い壁の店を見つけた。
「クラゲ店」と看板があるだけで、喫茶店のような外観で窓一つ、ドアが一つあるだけだった。
(クラゲ?)
喫茶店の店名だろうか、とふと思う。クラゲを売ってる店なんてなかなかない。喫茶店だろうか、と一瞬、思考が切り替わったおかげで涙が止まった。最寄駅ではあるが、反対側のお店なので、今まで気にしたことはなかった。
(クラゲ? 喫茶店?)
駅に着くと改札を出て、反対側に行く。同じ駅なのに知らないお店がたくさん並んでいた。肉屋の店先ではコロッケを売っていたし、小さな惣菜屋さん、パン屋とカフェがあった。どうして反対側に行こうと思わなかったのだろう、と自分でも不思議になる。
電車から見たら、すぐかと思ったけれど、歩くと結構距離があった。初めての道だからさらに遠く感じる。でもクラゲの店が気になって、歩いているうちに涙が乾いた。どんなお店だろう。喫茶店だったら、何か飲んで、出てくればいい、とかさっきまでのことはまるで頭から抜けて、美湖の頭の中には見たこともない未知のお店のことで占められた。
ついに店の前に着く。窓ガラスは古いタイプで、歪んで何だか見えずらい。扉を開けようとすると、向こうから開けて人が出て来て、思わず小さな悲鳴をあげた。
「あ、ごめん」と出てきた男が淳之介だった。手に水槽を抱えている。
「あ、本当にクラゲ…」と思わず美湖は口に出した。
「え?」と淳之介は水槽を外に運んで置いて、「よかったら、どうぞ」と中に入るように言う。
「あの…私…。電車からこのお店を見て、それで…ちょっと気になって」としどろもどろに言う。
「見るだけでもいいですよ。せっかく気になってくれたんだから…。中も見てください。クラゲしかいないですけど」と淳之介は言う。
「今から水の交換しようと思ってるんで…。ゆっくりして行ってください」と中に淳之介も入っていった。
美湖は店の中に入ると驚いた。まるで真っ暗の部屋で、クラゲの水槽が並んでいる。ぷかぷかと浮かんでいるクラゲに包まれているような気分になる。暗い室内なので、今なら泣いても誰にも気づかれないと思った。
そしてクラゲを見ていると、不思議な形状とその動きに少し心が凪いだ。
それから元婚約者の連絡先を着信拒否と消去した。自分の親には自分で伝えたが、相手がどう言ってるのか何も考えていなかった。
まさか自分の都合のいいように親に伝えて、美湖に謝りに来るように言っていたなんて、思いもしなかった。会社帰りに駅で待ち伏せされていたとは気づかなかった。
「…それで逃げてきたんだ」と淳之介は納得した。
それと告白は一体、なんだったんだろうとは思ったが、それについては先送りすることにした。多分、気の迷いだろうと考えることにする。
「家に帰られないの? だったら…祥子のところに泊めてもらう?」
「…ここじゃ、ダメですか?」
「え?」
先送り決定していた話が戻ってきた。
「あの…さっき、変なことして…ごめんなさい。でも…私…あの」
一瞬先に気持ちの中で「ごめん」と淳之介は返事をしていた。
「好きです」
本当にいい子で、恵梨が言うように可愛いくて…。でもだからこそ、淳之介は応えられなかった。
「…ありがとう。気持ちは…嬉しい」
美湖は目に涙を貯めて、淳之介を見る。
「…今はまだ…誰かを好きになるとか…そういう気持ちになれなくて」
「他に好きな人がいるんですか?」
「いや…。いないんだけど」と言って、涙で揺れている目から視線を逸らした。
「私じゃだめですか?」
「だめな訳ないんだけど…」と言ってからずっと言い訳を探しているようなことしか言えてないと淳之介は思った。
「じゃあ」と立ち上がり、勢い込んで言われて、淳之介は片足、後ろに下がった。
「ちょっと、時間が欲しい」
咄嗟に出た言葉は情けないながら、それしかなかった。
「時間…?」と言って、その長さを美湖が測っていた。
「それよりまず、君の問題を片付けよう。元婚約者がもしここに泊まってること知ったら、それこそ、相手の思う壺だから」と淳之介は突破口を見つけた気がした。
「…そう…ですね」
「一緒に必要なものを取りに帰るのは付き合ってあげるから、泊まるところは祥子のところにした方がいい」
どうしてこんなに必死に美湖を拒絶しているのか、自分でも分からなくなる。可愛くて、良い子なのに。
「分かりました。ごめんなさい。ご迷惑をお掛けして」
「いや。迷惑とかそんな風には思ってないから…」
「本当ですか? 私がここに来るのは…迷惑かと…」
「いやいや、それはないから。好きな時に来てくれていいし…それは本当に」と言って、自分が何がしたいのかさっぱり分からなくなる。
ともかく、先に元婚約者の話を片付けようと、弁護士を探したり、相手が原因であると証拠を掴む貯めに色々しなければいけない、と言うことを美湖に伝える。美湖は真剣に頷いた。
祥子に事前にメールしていたから、祥子がクラゲの店に戻ってきた時、美湖を心配していた。美湖はある程度の荷物をまとめて、クラゲ店に来ていた。
「実家に戻れたら一番いいんですけど。遠くて…」と祥子に謝っていた。
「いいよの。人が増えると楽しくなるでしょ?」と笑う。
そして美湖と二人でちょっと遅い晩御飯を作ってくれると言う。まだ恵梨は帰ってこなかった。恵梨が佐伯といるというのは連絡を受けていたようで、大人だけの晩御飯なので、と簡単に焼きそばになった。
「本当はもっと美味しいもの作りたかったんですけど…」と美湖に言われて、淳之介は恐縮する。
「淳之介君、今日は両手に花だね?」と祥子はなぜか嬉しそうに淳之介を挟むように座った。
居心地悪いがテーブルは小さなちゃぶ台しかないので仕方がない。女二人は美湖の元婚約者のことを話し合っている。淳之介はさっさと食事を済ませて、コーヒーを入れることにする。皿を洗って、お湯を沸かしながら、不思議な空間にいるような気がする。
二人の女性は既知の友のように色々話している。かつて好きだった祥子、好きだと言ってくれる美湖が同じ空間にいることが不思議だった。
お湯が湧いた時、電話が鳴る。
「淳君? 開けて? 帰ってきたよー」と佐伯の明るい声が届いた。
不思議だった空間に佐伯と恵梨が加わって、さらに不思議な気持ちになった。恵梨は佐伯に着せ替え人形を買ってもらっていて、嬉しそうにみんなに見せていた。淳之介がコーヒーを用意していると、恵梨が淳之介のところにも見せに来る。
「見て見て。お姫様」と水色のドレスを着た着せ替え人形だった。
「何だか海のお姫様みたいだね」
「うん。クラゲ王国のお姫様」と言って、笑う。
「なるほど…。ちょっと恵梨ちゃんに似てるね」
そう言うと、一瞬、驚いたような顔をしてから、嬉しそうに笑った。コーヒーを運ぶと、美湖の問題は佐伯が人脈を使って、色々手助けしてくれると言う。それで一安心していたら、
「淳君も手伝いなよ。どうせお店、開けてても人、来ないでしょ?」と佐伯に言われた。
断りたかったが、美湖が「そんな、ごめんなさい」と謝ったので、断れなくなる。そして淳之介も佐伯の指示の元、動くことになった。
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