第4話
お母さん
その日は珍しくクラゲが売れた。客は背の高い、ハーフの男で、バーを何店舗か経営しているという。真っ白なスーツを来て店に来たので、何事かと思ったが、ある店舗でクラゲをインテリアに置きたいと言った。従業員も連れて来ていて、餌の孵化の仕方や、水の変え方などを教えてくれと言われた。
「僕は全然、生き物を触れないんです」と言いながら、クラゲの水槽の周りを見て回る。
「そうですか」と相槌を打って、従業員に飼育方法を書いた紙をコピーして渡した。
「でも…いいんですか?」
「え?」
「別にクラゲに愛情がなくても、買っていいんですか?」
思いがけないことを聞かれて、淳之介は驚いた。
「生き物を飼うには愛情を持たなくてはいけない…そんな風潮でしょう?」
「いえ。別に…」
その男は水槽から餌まで一式買ってくれたので、十万円は超えた支払いをしてくれるからそう言った訳でもない。男は水槽を見ながら、「そうですか」と言った。
「でも…どうしてクラゲを?」と興味があるから聞いてみた。
「僕のバーは熱帯魚も置いてて…。まぁ、珍しくないですけど。水商売だからか、水と相性いいんですよ」と謎の答えが返ってきた。
「相性ですか」
「そうです。相性です。あまりうるさい動物だと落ち着きませんしね。話さない生き物で…植物でもいいんですけど。やはり水商売ですから…水の生き物がいいんです。しかしクラゲをこんなにゆっくり見ることはありませんけれど…。不気味ですね」と言いながら、指先を擦り合わせた。
「まぁ…。そうかも知れません」と淳之介は不思議な空気感の男を見る。
この男だって、案外クラゲに真けず劣らず不思議な空気感を漂わせている。白いスーツに色白の肌はまさにクラゲの王子のようだ。
「でも人は不気味なものに心惹かれることもありますよね」と淳之介を見て笑う。
「まぁ、僕はディティールをそんなに気にしないタイプなんで。ふわふわ浮かんでいるのが、面白いと思って」
「僕はダメです。もうこの足の粒々、形が気になって仕方がない」と言って、身震いをしたが、また水槽を覗き込む。
まるで取り憑かれたように見ていて、淳之介は不思議な人だな、と思った。
「定期的に買いに来ます」と振り返って言う。
クラゲの寿命は長くないし、飼育も簡単ではない。慣れるまで、難しいだろう…と伝えてはある。
「ありがとうございます」
そしてその男も買う、買わないに限らず、よく顔を出すようになった。水槽を覗き込んで、身震いしている様子がおかしくて、「気持ち悪いですか」と声をかける。
「えぇ。本当に不気味です。妖怪とかそういう想像の生き物を軽く超えるビジョンです。僕はこんな不気味な生き物に生まれなくてよかった、とクラゲを見て思うんです」と男がそう言うように、相当顔立ちがいい。
「ただいーまー」と恵梨が学校から帰ってきた。
祥子は退院して、英語の先生を始めた。近くのアパートの住居を費用は淳之介が立て替えたが、祥子たちはそこに住んでいた。
「借金を返すまでは近くに住むわ」と言われて、別に頼んでないのに…と心の中で呟いた。
学校から帰ってきて、祥子の英語の塾が終わるのが夜遅いので、恵梨は淳之介の店に帰って、ご飯も食べて、お風呂まで済ませて、祥子と一緒に戻っていく。
「あれ?」と恵梨がお客を見て言う。
「あぁ…君は祥子の?」
「お母さんの…社長さん!」と恵梨が指差すので、淳之介は慌てて、手を両手でそっと掴んで下に降ろさせる。
「祥子の新しい彼氏?」と淳之介に聞くので、首を横に振った。
「淳之介君は優しいから…。お世話になってるの」と恵梨が言う。
何だか、少し情けない気持ちになるので、他人に言わないで欲しい、と思った。
「祥子は元気?」と社長と言われた男が恵梨に聞いた。
「うーん。今は元気だよ。社長さん、元気?」
「まぁね。祥子…お金返してくれないだろうな」
それを聞いて、淳之介はお金が返ってこないことを覚悟しなければならないのか…とため息をついた。
「ごめんね。お母さん、今、必死に働いてるから。待ってて」
「いいよ。いつまでも待つよ」と見惚れるような笑顔で笑う。
「社長さん、お金持ってる? 大丈夫?」と恵梨は心配そうな顔で聞く。
淳之介はいや、きっと彼より俺の方がお金はない…と思いながら、思った通りの回答を聞いた。
「たくさんあるから、また祥子が困ったら頼ってって言って」
「うーん。でも…お母さん…お金返せないかも…」
「じゃあ…。恵梨ちゃんもらおうかなぁ。借金の形に」
「借金のカタ? 私、働かされるの?」
「いや。僕のお嫁さんになってくれたらいいよ」と言って、また魅惑的な笑顔を見せる。
年齢が離れすぎているけれど、美男と美少女だから変な嫌悪感が出てこないのが不思議だった。
「うーん。社長さんは…ちょっと」と恵梨に断られているのを見て、淳之介は申し訳ないけれど、笑ってしまった。
「どうして? お金もたっぷりあるし、好きな服も、ご飯もなんでも買ってあげるのに」
「うーん。浮気しそう」とどこで覚えたのか、そんなことを言う。
すると社長は笑って「しないよ。恵梨ちゃんなら」と言って、しゃがんで恵梨と視線を合わせる。
(ロリコンか?)とちょっと見る目がキツくなってしまいそうなので、淳之介は眉間を人差し指で上げた。
「えー、絶対するよー。だってお母さん、言ってたもん。いろんな人と付き合ってるって」
「祥子はもう」と言って、笑う。
恵梨に何を言われても嬉しそうに笑っている。祥子はバーでも働いていたのか…。その間、恵梨は一人で待っていたと想像すると、少し胸が詰まった。
「宿題してくる」と言って、恵梨は店の奥に入って行った。
「あ、おやつ冷蔵庫にゼリーがあるから」と声をかけると「ありがとー」と明るい声が帰ってくる。
魅惑的な笑顔を淳之介に向けて「お母さん?」と聞いてきた。
否定できずに、視線を逸らした。
祥子が疲れた様子で迎えに来た。恵梨はもう布団の中で眠っていた。帰ってくるのが遅い日が多いので、迎えにくる頃にはもう寝てしまっていることが多い。
「ねぇ、本当にごめんなんだけど…。ここで食べていい?」とコンビニ弁当が入ったビニール袋を上に持ち上げる。
「どうぞ」と言いながら、クラゲの餌の孵化をさせる。
「…怒ってる?」
「え?」
振り返って見ると、お弁当も開けずに淳之介を見ていた。
「怒ってる?」
「…まぁ…。子供を巻き込んでいるのはどうかと思うけど…。それは僕が関与すべきかは…正直分からないけど。でも、彼女にとって縋るものは君しかいないのは分かるべきじゃないか? それを他人の…しかも男のところに預けてもいいって…」
「恵梨に選ばせたの。そしたら淳之介君のところだったから…。いいかと思って」
「その信頼はありがたいけどね。でも…その考えは良くない」
二十四時間後には餌になる卵に命を与える作業をしていて、何だか説教するのもどうかとは淳之介は思った。
「うん。そうね。これからはちゃんとするわ」
「ちゃんとって…。あ、なんかバーの社長にも借金してるんだって?」
「え? あ、佐伯さん来たの?」
その言い方に少し引っ掛かりを覚えて、祥子に聞いてみた。どうやら祥子がこの店を紹介したらしい。
「祥子の紹介だったんだ…」
「あ、別に無理には言ってないわよ。感じのいいインテリアを探してるっていうから…、別にあなたの店でクラゲを買いなさいなんて一言も言ってない」
大口の客は祥子の紹介だったという事実。そんなに売れるものではないから売れない前提だったけれど、正直嬉しかった。だからこそ、祥子が関係していたことに少し腹が立った。
「嫌だった?」
「別に。ありがたい」と言って、プランクトンの卵をしまう。
「淳之介君…。ごめん。お世話になったから、ちょっとお返ししたかった」
「気をつかう間柄でもないだろ。ご飯、食べたら」と言って、淳之介は冷蔵庫に言って、冷えたお茶を取り出す。
そしてガラスコップに注いで、祥子の前に置いた。
「社長に借金、いくらしてるの?」と訊いた。
「十万円よ」
「用立てようか?」
「いいの。借金はね…。その人との縁みたいなもんだから」
「は?」
「私、淳之介君とも借金があるでしょ? 返すまでは縁切りできないじゃない?」とにこにこ笑う。
「はぁ…」と気の抜けた声がでた。
「今日、恵梨に何食べさせたの?」と言いながらお弁当の蓋を開ける。
「みかんゼリーがおやつで、晩御飯はカレーライス。レタスのサラダ」と淳之介が言うのを頷きながら聞くと、祥子は
「見て」と言って、コンビニ弁当を差し出す。
ごく普通のトンカツ弁当だった。温められて、カツは衣がしなしなしてそうだったが、トンカツ弁当の何者でもない。それでも祥子は微笑みながら、弁当を突き出してくる。
「カレー残ってたら、カツカレーになるんだけど」
淳之介は椅子から立ち上がって「少々お待ちください」と言って、カレーの鍋を温め始めた。
「お皿貸して」と後ろから祥子が呼びかける。
「いいよ。そこに、洗ってるのあるから」と水切り柵の皿を指差す。
祥子はそれを取って、お弁当のご飯を皿に移して、そしてトンカツをその上に乗せていた。カレーは少なくなっていたので、すぐ温まる。
「お待たせしましたー」と小鍋を持ってきて、その上にかけた。
「ふふふ。美味しそう」と笑う。
「そう言えば…お母さんって言われたよ。社長に」と淳之介が言うと、祥子は吹き出した。
確かに今やっていることはまるで深夜に帰ってくる娘に夜食を出すお母さんだ。
「お母さんかぁ…。だから淳之介君はあったかいのかなぁ」
クラゲ以外にも餌りしている気持ちは何だか複雑だった。
「お礼に、カツ一個あげる」
「いらん」と断って、祥子を見ると、嬉しそうに笑って食べていた。
少し恵梨と似ていると思った。眠ってしまった恵梨を背中におんぶして、祥子のアパートまで行く。すぐ近くなので、助かるが、もうこのまま寝かしておいてもいいような気もするが、しかし男性と同じところで寝ることに慣れてはいけない、と淳之介は考えて運ぶ。
一応、恵梨は起こされるのだが、眠たくて玄関でどうしても立ち上がれなかった。淳之介がお姫様抱っこしてくれるかも、と期待していたが、まさかの背負いだったとは想像つかなかった。でも広い背中が心地よくて、ほんの少しの距離だけれど、そのままおんぶされることにした。
「こうしてると家族に見える?」と祥子が言う。
「お母さんが二人の?」と淳之介がつまらなさそうな声で言った。
恵梨はおんぶされながら、そんな二人のやりとりを聞いていた。今まで一緒にいた男性とは違って、自分の母が声を荒げることがなかったのが、驚きだった。
(淳之介君は優しいから)
その言葉が木霊する。歩く振動と、時折、ずり落ちそうな体を戻すように上げられるのが心地よかった。深夜は静かで優しい時間だった。
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