第3話

臨時休業


 病院に着くと、恵梨は少し嬉しそうに受付で祥子の名前を言った。看護婦さんは淳之介の方をちらっと見たが、そのまま部屋を教えてくれた。花なんか用意した方が良かったのかもしれないけれど、とにかく状況も知りたかったし、恵梨も連れていたから、それどころではない。


 六人部屋の入り口右側の真ん中のベッドだった。どのベッドもカーテンが仕切られている。恵梨は母のところへ飛んで行った。淳之介もその後に続く、お互い十年以上過ぎたが、全く分からないかもしれないと思ったが、確かに年月は感じさせたがそんなに変わっていなかった。点滴を受けていたが、相変わらず祥子は綺麗な女性だった。


「久しぶり」


「ごめんね。淳之介君のところに行ったのね」


「…うん。それで…どうしてこうなったの? 体調は?」


「極度の栄養不足」


「え?」


「恵梨には食べさせたかったし…」


 どれだけひどい生活をしていたんだ、と思った。


「エリートとは別れたの?」


「エリート? あ、うん。早かった。三ヶ月くらい」


「そっか」


「彼に頼ってもよかったけど…。もう結婚してるみたいだし…。フェイスブックになんでもあげるから、怖いよね」


 祥子はいろんな人と付き合い、イギリス人との子を産んで、結婚せずにしばらくイギリスで暮らしたり、東南アジアで暮らしたりしていたらしい。五年前に別れてから日本に戻ってきたが、実家からは勘当されていた。


「母子手当とか…色々、行政を頼ったりしなかったの?」


「え? なんで?」


「なんで…って」


「私、別に幸せになんかなりたくないんだよ。いろんなことを経験したかったから。一人で子供を育てられるか…やってみたかったの」


 淳之介はそれで巻き込まれた恵梨が何だかかわいそうに思う。祥子一人なら好きに生きれば良いけれど、子供がいるのに、何をしているんだ、と思った。


「幸せになりたかったなら…淳之介君とずっと一緒にいたよ」


「は?」


「淳之介君といる時はすごく幸せだった。でも…私は別に幸せに興味なくて…」


「分かった。あのさ…、祥子は好きに生きたらいいと思うけど、この子はどうするつもり? 学校だってろくに行ってないって」


「でも勉強は家で教えてたから」


「家って…。漫画がたくさんのところ?」


「それは…最近の居場所だけど」


「…。行政に頼る気持ちはないの?」


「うーん。…病院代。払えないんで、看護婦さんとかが困ってるのよね」


 それでさっき、看護婦さんに見られたのか…と淳之介は理解した。


「もしかして…。いや。保険も入ってないよな?」


「うん」


「点滴打って、元気になったの?」


「まあ。おかげさまで…」と祥子は言いながら、横を向いた。


「退院。できる限り早めに退院すること。いくらか聞いてくるから」と淳之介が言う。


「でも…」


「それから行政に頼ること」


「私、もう働こうと思ってるの。ちゃんと」と眉を少し上げて、抗議するように言う。


 昨日の恵梨の顔と似ていた。


「…それは後。ともかく、ここの病院代は立て替えておくから」と淳之介は関わるつもりがなかったのに、言い出してしまった。


「え? そう言うつもりじゃ」


「じゃ、どういうつもりなんだよ」


 少し声が大きくなっていたのかもしれない。看護婦さんが来て


「みなさんがいらっしゃるので、お静かに」と言われた。


 淳之介が「すみません」と謝って、祥子も頭を下げた。なぜか恵梨が笑っている。


 貴重な退職金が減った、と淳之介は思った。


 役所に行って、勝手に手続きするわけにも行かなかったが、恵梨の学校のこともあるので、色々相談することにした。母親が入院していると言うこと、病院まで確認に行くと行ってくれた。学校は住民票を移す前に近くの学校に通えるようにすぐに手配してくれると言ってくれたが、それは淳之介の店の近くの学校と言うことだろうか。まだ住むところも決まっていないが…、と悩む。


「しばらくの間は…多分、家から通うことにはなるかと…」と言うと、意外とあっさり「分かりました」と言われた。


 祥子がなんて言うか分からないが、行政がきっと校区内でアパートを探してくれるだろう、と割り切ることにした。なるべく恵梨が早く学校に行けるように手続きしてあげたかった。


「学校はね、来週から行けるように手配しておくからね」と恵梨に役所の人が言ってくれる。


「じゃあ、この番号にご連絡しますね。後、お母様に会ってからまた色々お話しすることもあるかもしれません」


「はい。よろしくお願いします」と言って、役所を恵梨と一緒に出た。


「施設…入らなくていいの?」


「いいよ。だって、お母さん、元気だから」


「そっか。よかった」


 すんなり納得していたけれど、やはり心配で不安だったのかもしれない。


「今日は漫画の部屋に戻る?」と恵梨が聞いてきた。


「…あそこは、ね。住む場所じゃないんだ」と前を見て、言った。


 恵梨が俯いていたので、


「今日も…クラゲのお城に来ていいよ」と言う。


「クラゲのお城?」と恵梨が淳之介を見た。


「そう。クラゲがたくさん…お出迎えしてくれるから」


 恵梨が嬉しそうに笑う。


「じゃあ…、布団買おうか。どうせ、お母さんが来て、引っ越すことになっても…持っていけばいいし」


 クラゲ店の二階は住居になっている。その店舗は昔、父が文具屋をやっていたのをそのまま使っている。家賃がいらないからこそ、クラゲ店なんかできるのだ。


 夕方、布団を買って、タクシーで店に戻ると、一人の常連客が立っていた。常連とはいえ、一度も購入はしてくれないが、よく来てくれていた。日常のストレスを癒しに来ているのだろう。あまり話したことはないが、OLをしていると言っていた。


「今日は」と淳之介が声をかける。


「あ、今日はお休みなんですね」と言って、隣にいる恵梨を見る。


「…ちょっと今日は…臨時休業でごめんなさい。クラゲ見に来てくれたんですよね」


「あ、いつもお邪魔してます。あの…お嬢さんですか?」


「いや、あの…友人の子供です。この子のお母さんが病気になって、急に預かってて…。それでお休みさせてもらってます」と別にしなくていい説明をした。


「こんにちは。桃田恵梨です」ときちんと挨拶をした。


「わぁ、かわいい」と常連客の女性は言う。


 ハーフなので、お人形のような顔立ちをしている。


「あ、少しだけ、見て帰りますか?」と淳之介は店の鍵を開けた。


「いいんですか?」


「いいですよ。見てもらっても、クラゲは減りません」


 そう言うと、女性は笑った。それで彼女のストレスが緩和されるのなら、きっといいことだろうと。


「ちょっと荷物あげてきますので、ゆっくりしてください」と言って、淳之介は布団を二階へ運んだ。


 恵梨は下にいるようだった。一緒にクラゲを見ているのかもしれない。布団の梱包を外して、シーツをかける。どれも真新しい匂いがした。昨日は恵梨がソファで寝た。自分が寝ているところに恵梨を寝かせるのがなんとなく可哀想に感じたからだ。正直言うと、加齢臭とか少し気になった。

 自分のベッドの下に布団を敷く。何だか変な気分だが、祥子もよく男の家に泊まらせようとしたな、とそれについては後で怒っておこうと思った。


 下から小さな話し声が聞こえる。


「お姉さん、クラゲと淳之介君が好きなの?」


「え? 淳之介君?」


「さっきの男の人」


「あ、うん。優しい人だなって思って。毎日、見にきても怒らないし、たまに色々教えてくれるし…、いい人だなぁって」


「淳之介君は優しいんだって」


「誰かが言ってたの?」


「うん。ママが。だから淳之介君のお店に行きなさいって」


「ふうん」


「お姉さんも困って来てるの?」


「うーん。困ってる…のかな?」


「私、すごく困ってて…。でも淳之介君助けてくれたから…。お姉さんも困ったら来ていいよ」


 勝手なことを喋ってる…と淳之介は出て行きにくくなった。


「クラゲ…って不思議だね。生きてるんだけど…何の目的もなくて…。それでいいんだって言われてるみたいで、ここに来るとちょっとほっとするんだ」


「私はねぇ。真っ暗なお店でクラゲを見たの。綺麗だった。まるで宇宙みたい」


「へえ」


「恵梨ちゃん? しばらくここにいるの?」


「うーん? 多分」


「また話に来ていい?」


「うん。私、お友達いないから…、嬉しい」


 影で聞いていて、淳之介は少し泣きたくなった。


「ママと一緒も楽しかったけど、今日は淳之介君と一緒で、お姉さんとも話せて楽しかった。お姉さんの名前は?」


「私? 美湖みこ。美しい湖の近くで生まれたの」


「へぇ」


 小さく笑い声が聞こえて、ようやく二人の前に出られた。


「あ、すみません。なんか…」と言いながら、何に謝っているんだろう、と淳之介は思った。


「クラゲ…いつか飼いたいです」


「いつか…そうしてください」


 美湖はしばらくクラゲを眺めて、店を出て行った。美しい湖…その言葉が淳之介の頭に残った。

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