第5話

クラゲ店の理由


 七時過ぎて、佐伯社長が来ている時に、美湖もやってきた。もう店を閉めたいと思っていた時間だったが、美湖が疲れた様子で入ってきた。


「こんばんは」と声をかける。


 彼女にいらっしゃいませという言葉は淳之介は言わないことにした。


「こんばんは。遅くにすみません」と言って、頭を下げる。


「どうぞ。ごゆっくり」と言うと、二階から恵梨が降りてきた。


「淳之介君、ご飯…買いに行こうか? あ、こんばんは」と恵梨が美湖に挨拶をした。


「あ、恵梨ちゃん、こんばんは」と美湖も嬉しそうだった。


 佐伯社長は美女二人がいるので、クラゲを見て震えるのをやめて、こっちに来た。


「あ、社長。また来たの?」と恵梨が言う。


「うん。なんか不気味で、震えちゃうんだけど、また見にきた」


「変な人」と恵梨は愛想なく言う。


「あの…ちょっと晩御飯作るから、ゆっくりして行ってください」と淳之介はみんなに声をかけた。


 どうせ商売にならないんだからいいだろう、と思った。


「えー。淳君、行っちゃうの?」と社長から言われる。


(誰が淳君だ)と思ったが、愛想笑いを浮かべて「お母さんなので」と言って、二階へ上がった。三人で盛り上がっている中、一人でスーパーで買ってきたすでに成形されているハンバーグを焼く。最近は祥子の分も作ることになっている。サラダはレタスを切っただけのものだ。


「本当にお母さんみたいだ」と思わず呟いてしまう。


 ご飯を炊飯器にセットして、味噌汁を作る。具は乾燥わかめだけだ。


 ある程度用意して、下に降りる。三人の笑い声が何だか羨ましい。


「美湖ちゃん、ぜひ僕の店に遊びに来て。クラゲもいるし、熱帯魚もいるから。もちろん僕の奢りで」と佐伯社長が言う。


 美湖は愛想笑いを浮かべて、お酒は飲めないと断っていた。社長の携帯が鳴って、


「ノンアルコールもあるから気軽にきてね」と言いながら、去って行った。


「帰ったのかな?」


「うーん。どうかなぁ」と恵梨は首を傾げた。


「一緒に暮らしてるんですか?」と美湖に聞かれる。


「いや。ご飯だけ…。この子のお母さんが帰ってくるのが遅いから」


「英語の塾で働いてるの」と恵梨が嬉しそうに言う。


 恵梨はいつも祥子のことを得意げに話す。そういう姿を見ていると、少し切ない気持ちになった。どんな母親であれ、祥子は恵梨にとって、大切な家族なんだな、と思わさせられる。


「だから帰ってくるのが遅くて…。僕が母親代わりしてる」


 そう言うと、美湖が感心したように相槌を打った。その日から、美湖が何か差し入れしてくるようになった。駅前の揚げたてコロッケ、家で作ったという煮物…。毎日というわけではないけれど、週に二、三回は持ってくるようになった。


「あの…ありがたいけど…。これ…」と言うと、


「恵梨ちゃんに食べてもらいたくて」と言われると、淳之介が断ることもできなくなる。


「わー。美湖ちゃんのご飯、美味しいから好き」と手放しで喜ぶ恵梨が受け取ってから、「淳之介君のもまぁ、まぁいけるけど」と付け足された。


 微妙な気持ちになりつつ、そういう訳で、ご飯のおかずが増える日があった。


 淳之介はこれで美湖がここに来るのに気持ちよく来れるのなら、それはそれでいいか、と思うことにした。



「あれ? 肉じゃがとか…作れたの?」と祥子が美湖が作ったおかずを食べて言った。


「あ、それ。お客さんの差し入れ」


 美湖をお客と言って良いのか分からないが…、それ以上説明できる言葉がなかった。


「え? お客さん? 女性の?」と祥子が首を傾げて淳之介を見る。


「恵梨ちゃんに、だって」とわざとゆっくり言う。


「恵梨に? って言ったの?」


「そうだけど?」


「へぇ。じゃあ…。お礼をしないと」と言って、にっこり笑う。


「そう? いつ来るか…わかんないけど」


「淳之介君はその人のこと、なんとも思ってないの?」


「え?」


「お手製のおかずをわざわざ届けてくれるんだから…、なんかあるでしょう?」


「親切とか? 同情…されてる? とか…?」と淳之介が首を傾けると、祥子は少々憐れみを湛えたような目で見た。


「…」


「あのさ…。言いたくないけど…こんなことになってるのは」


「私のせい? でしょ?」


 淳之介はため息をついた。嫌なら断れば良いのに、何だか自分から片足突っ込んでいるようなところがあるから祥子のせいにしたくなかった。


「だから…、その女の子は可愛いの?」


「は?」


「淳之介君が好きなら、この際、お近づきになれるんじゃないかなーって思ったの」


 深いため息をつく。


「向こうは若くて…。こっちはリストラされた三十三。お近づきも何もないよ」


「そうかな? お金や若さなんて意外と求めてないかもよ。だって、クラゲを見に来るような人でしょ? もし淳之介君がいうようなことを求めている子だったら…クラゲなんか見に来ないと思うけど」と肉じゃがを食べながら言った。


「じゃあ…なおさら、男なんかに興味ないだろう」


「ふーん。モテない訳わかった。モテると思わないから、モテないのよ」


 祥子と会話するのが面倒臭くなって、淳之介は一人で下に降りる。静かなモーター音がするくらいで、クラゲは何も喋らない。それなのに、なんとなくクラゲのリズムが伝わってくる。


 ぷわぷわ ぷわわん


 静かにクラゲは光っている。


「モテるとか、モテないとか」


(どうでもいい)


 本当はお客だって来なくていい。退職金が無くなるまで、こうして一人で静かに過ごしていたかった。深海に沈んで、もう二度と浮上できなくて、クラゲのようにいつか海の底で溶けてなくなれば良い…と思っていた。


 あの日…、同期に自分が積み上げてきたものを全て奪われた時、もう全てがどうでもう良くなった。


 仕事は嫌いじゃなかった。むしろ…好きだった。お互いの利益を考えて、互いに良い関係を築けるように、いつも真剣に考えて、仕事をコツコツしていた。大きな利益より、相手先との関係を良くしていこうと心を砕いた。

 最初は結果が出ないが、長く付き合うことが大切だと淳之介は考えてこつこつ仕事をこなしていた。三十を超えた時、その結果がようやく現れて、今までの成果が大きく実った。それを同期がどう思っていたのかは分からないが、知らないうちに「担当が変わった」と相手に連絡していた。

 相手先の人はどうなっただろう。心配したが、上司もそれでいいと言う。

 後から知ったことだけど、その上司のゴルフの送迎を同期はしていたようだった。


 積み上げてきたものを奪われるとまた一からのスタートになる。数字はゼロからのスタートだった。


 また新たな取引先で…と思ったが、ことごとくうまくいきそうな段階で奪われ、結果が出ないように見られたのかリストラ対象になった。

 そのせいか、同じ職場で付き合っていた彼女にも振られた。


 もう戦う余力も全く残っておらず、素直に退職することにした。早期退職だか、何だかたくさん手当をつけてくれたけれど、そんなことも何もかもどうでもよかった。


 騙し合いをしなければ生きていけないのなら…と淳之介は帰り道、電車の線路を眺めた。

 その時、後ろで小さな子供が激しく泣いた。母親はおろおろしているが、みんなその声に苛立っている。

 ただ淳之介はその声の主の必死さに心が突き刺さった。

 なんで泣いているのか理由は知らないが、こんなに泣いて主張できる子供が羨ましく思った。結局、なんの申し開きをすることもなく、ただリストラを受け入れている自分が滑稽に思えた。そしてそのまま実家に戻って、クラゲ屋という商売にならないことを始めた。

 親は黙って、そっとしてくれていた。相当ひどい顔をしていたのだろう。


 階段を降りる音がする。


「淳之介君…。おんぶ」と言って、恵梨が後ろから抱きついてきた。


 起きたのだから、歩けるだろう、と思ったが、そのままおぶった。階段の上を見ると、祥子が「大丈夫?」と声をかけてきた。


「…帰ろう」と言って、自分の家でもないのに、とそう思って、立ち上がった。


「ねぇ…。クラゲが…見送ってくれてる」と後ろから恵梨が言う。


 ぷわぷわ ぷわわん


「お姫様が帰るからね」


「淳之介君は…お姫様抱っこできる?」


「できない」と言うと、後ろからため息が聞こえる。


「そう言うのは、王子様にしてもらいなさい」


「王子様っているのかな?」と聞こえたが返事はしなかった。


 でも恵梨はクラゲに優雅に手を振っていた。

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