第6話
透明なクラゲ
祥子の英語の塾が休みの日曜日に、美湖がドーナツを抱えて店に来た。朝から淳之介は店先で水槽の水を交換していた。
「ねぇ、商売っていうより…。ただ大量のクラゲを飼ってる人に見えるけど…」と祥子がそれを見ながら、淳之介に言う。
「…買う? 欲しかったら売るけど」と祥子に言った時、「今日は」と美湖が話しかけてきた。
「あ、こんにちは。どうぞ、ゆっくりして行ってください」と淳之介は水の交換の手を止めて、扉を開けようとした。
「あの…これ、恵梨ちゃんに」とドーナツが入った紙袋を渡す。
「あ、あなた、いつもありがとう」といきなり祥子がドーナツの紙袋を取ろうとするので、美湖が驚いて、紙袋を抱えた。
淳之介は美湖に恵梨の母親だと祥子を紹介した。驚いたような顔で祥子を見る。
「お母さんが…英語の先生をしていると聞いて、勝手に外国の人だと思ってました」とおどおどしながら話す。
「あ、そっか。そう思うよね。あの子は父親似なの。今…友達の家に遊びに行ってるのよ。友達ができたなんてびっくりだけど。初めてじゃないかな」と祥子はあっけらかんと話す。
そういうのも淳之介は胸が痛い。
「ともかく…クラゲは中にもいるから」とバケツの中にいるクラゲをゆっくり水槽に戻す。
新しい水の中にいるクラゲは少しだけ嬉しそうに見える。ほぼ、淳之介の思い込みであるが。水槽を運ぶのを祥子は手伝ってくれた。
「ねぇ、やっぱり一匹買おうかしら?」
「クラゲ? 育てられるの?」
「ううん。育てるのは淳之介君がしたら良いじゃない」
「はぁ?」
水槽を運びながら、そんな話をする。
「一匹ずつ、私が買ってあげる。このお店のクラゲ…全部買う日が来たら…」
「あ、気をつけて。棚にあげるよ」と淳之介は力を入れて、そっと棚に置いた。
それからエアポンプをつなげたり照明をつけたりする。
「…で、クラゲ買って、どうするの?」
「食べる」
「食べれるクラゲ…ねぇ」と言いながら淳之介が検索してみようと携帯を取り出した。
「あの…」と美湖が話に入ってきた。
クラゲを食べないで欲しい、と言いながらドーナツの入った紙袋を祥子に渡そうとする。
「あ、別にお腹空いてるわけじゃ…」
「私…ここに来て、癒されてるんです。食べられちゃうと困ります」と必死な顔で紙袋をさらに押しつける。
その袋を受け取りながら「コーヒー飲まない?」と祥子は淳之介に言う。
「美湖ちゃんも飲む?」
「え? 良いんですか?」
「二人分も三人分も同じだから」
嬉しそうに笑う美湖の顔を見て、淳之介は二階へ上がった。コーヒーを淹れながら、祥子が余計なことを言ってなければ良いけれど…と思う。お湯を沸かしながら、ぼんやり考える。祥子がクラゲを買うと言った意味を。
『全部買う日が来たら…』
買う日が来たら、何だというのだろう。それを聞きたくなくて、話を逸らした。祥子もその後を言わなかった。
全部買う日…。祥子が全部、クラゲを買う日が来るのだろうか。言われなくても、分かっている。いつかはこの生活を辞めて、きちんと働かなくてはいけない。現実的にお金も無くなるし、それが生きる選択をした道の続きだろうと思う。ただ今は生きていても、死んでいたい。何も考えずに、クラゲの飼育をずっと続けるだけで良い。
階下から明るい笑い声が聞こえた。祥子だけでなく美湖の声も混ざっているようだ。
コーヒーが入ったので、紙コップに入れて、下に降りる。
「お待たせ」と言うと、二人が淳之介の方を見た。
「ありがとう」と祥子が笑いながら、コーヒーを受け取る。
「あ、ミルクも砂糖もないけど」
「私は大丈夫。美湖ちゃんは?」
「あの…牛乳…」
「あ、入れてくるよ」と淳之介が言うと、祥子が私が行くから、と言ってカップを持って、階段を上がって行った。
二人きりにされると特に話すことは何もない。いつもクラゲを眺めているのをそっとしておいたのだから、改めて二人になって、何も話すことがないのが分かった。
「牛乳入りが好きなんだ」
いくら言うことがないとはいえ、何を言ってるんだ、と自分でも絶望した。
「あ、はい。苦いのが苦手で。お子様ですよね」
「え? いや…。ごめんね。なんか。最近、クラゲとしか付き合ってないから…。うまく喋れなくなってきた」と淳之介は素直に言う。
「クラゲと?」と言って、少し笑った。
「うん。クラゲの面倒しか見てなくて…人間と話すことも少なくて…」
「でも…恵梨ちゃんや祥子さんとはお話ししてるんじゃないですか?」
遠慮がちに聞かれたが、思い返してみても、そんなに話している記憶がない。一方的に喋られていることは頻繁にあった。
「あの二人は勝手に喋ってるだけだから」と言うと、後ろから「ごめんね。話、聞いてあげなくて。今日は聞くよ?」と祥子が戻ってきた。
「いや、特に話すこともない」
「なんで? 私になかったら、美湖ちゃんでも良いじゃない。『クラゲ持って帰るの? 家まで届けようか? 恋人いる?』 とか」と言うと、美湖が顔を赤くした。
「祥子?」と咎めるように言って、淳之介は祥子が持ってきたコーヒーを奪ってから、美湖に渡して謝る。
祥子のことを淳之介から謝られたから、余計に美湖は二人の関係が気になった。
「お二人はお付き合いされてるんですか?」
「ないない」と淳之介は手を振った。
「私はお付き合いしてもいいよ」と祥子が言う。
淳之介は思わず、振り返って、祥子を見る。あの頃のようなきらきらした笑顔を向けている。その意味が分からなくて、そのまま、美湖に向き直すと、美湖は唇を噛んでいる。
「私…クラゲ…全部買います」
「…は?」
「全部のクラゲのお金持ってきます」と言い出す。
そこに「淳くーん」と佐伯が入ってきた。
今日は麻のジャケットにズボンだった。麻なのに皺ひとつないジャケットだった。そして淳之介に笑いながら、従業員がクラゲを死なせてしまったから、クラゲの追加に来た、と言う。すると、美湖が顔を上げて「ダメです。クラゲは私が買います。全部」と言った。
「えぇ。でも美湖ちゃん、そんなのにお金使うなら、うちに来てくれたら良いのに」と佐伯は美湖の肩を抱く。
すぐに美湖から手を払い除けられた。
「…クラゲは売れなくて良いんだ」と淳之介が言う。
「なになに? 推しに全額注ぎ込むっていう乙女の気持ち、分かんないの?」と前髪をかきあげて、淳之介の顔に顔を近づける。
その綺麗な顔を押しやって「近すぎる」と淳之介は言う。
「とりあえず、僕のお店のクラゲ五匹は欲しいんだけど。従業員に渡して」と言いながら、淳之介に触られた額を除菌ティッシュで拭いている。
「あ、佐伯さん、お金返すわ」と祥子が佐伯に言った。
「いつでも良いのに。祥子ちゃん、ひま? 店に来てくれる?」
「暇だけど…娘を待ってるの。お昼には帰ってくるだろうし」
「一緒でいいから。インテリアの相談に乗って。よかったら、美湖ちゃんもおいで。クラゲもあるし、フリードリンクサービスしてあげるよ」
「私は…」
「淳君のこと助けてあげなくていいよ。こんな人…」と佐伯がチラッと見て、言った。
「そんな」と美湖は息を飲んだ。
「好きで落っこちてるんだから」とクラゲ入りビニールを持った淳之介を手で追い払って、表にいる従業員に渡すように言う。
その通りだ、と淳之介も思った。誰ももう構わないで欲しい、と心から思いながら、表にいた従業員にクラゲを渡す。背の低い従業員が申し訳なさそうに受け取った。
「クラゲ、可愛いっす。でもご飯食べさせすぎたら…動かなくなって」と落ち込む。
「ご飯、頻繁にあげたら、水質悪くなるから。別容器にクラゲを入れて、そこで餌を揚げたらいいよ」
「オーナーは気持ち悪いって言うんっすけど…、俺はこの透明なところとか、ぷるぷるしてるとことか、マジやばくて…」
嬉しそうにクラゲの袋を眺める。この中で一番クラゲを愛しているのは彼かもしれない、と淳之介は思った。店に戻ると、美湖が佐伯に説教されていた。
「あのね、うちにも多いけどさ。推しにお金を注ぎ込む子。そう言うのって、結局、お金としか見られないからね」
「でも…そんなつもりじゃ」
「淳くんは押せば付き合えると思うでしょ? そう言うタイプと付き合っても幸せにならないよ」と佐伯が真剣な顔で言ってる。
「えー? 私は幸せだったけど」と祥子が横で言う。
それを聞いて、美湖が涙をこぼした。
「あーあ」と佐伯が祥子を見た。
「…あのさ、とりあえず、祥子とさえっちは外に出てくれる?」と淳之介が言うと、「さえっち? 可愛い」と佐伯は自ら喜んでいた。
「美湖ちゃん、頑張れ」と祥子が言って、佐伯と出て行く。
二人きりになって、淳之介は改めて美湖を見た。まだ若くて、世間に慣れていない様子が切なくなる。どんな思いでドーナツを持ってきたのか、頻繁にここに来ていたのか…詳しい理由は分からないが、その気持ちは分かる。
「…辛いこと…あった?」と淳之介が聞いた。
美湖は赤い目を大きくして、淳之介を見る。
「…はい。…淳之介さんも?」
「あったよ」
思い返せば辛いことばかりだ。
「だから…、この店をやってるんだ。自分の癒しのために…」
「ごめんなさい。私、お邪魔でしたか?」
「全然…。クラゲは…きっと何も思わないから。僕もそうなりたくて。何も考えずに、何も…傷つかずにって。君にとってもそうありたかったから…」
素直に頷いて、美湖は自分が婚約していた男性に裏切られたと話した。大学を卒業して、春から就職した仕事も慣れない中、愚痴を言ってしまったかも知れない、でも…心が離れていたとは知らない間に、彼は新しい女性と暮らしていた、と言った。
「今となってはそんな男と別れられたことは良かったと思います」
「そうだね」
「私、ここに来て、癒されて…。クラゲを見るだけの迷惑な私なのに、嫌な顔ひとつせずに受け入れてくれて…。自分の居場所みたいに勘違いしてました」
「それでも全然、僕は構わないけどね」
「でも…私…何かお返ししたくて…」
「ありがとう。それで十分だから。君が元気になってくれたら、なお…良いし」
「良くないです」
美湖を見ると、唇が震えていた。
「…だって、私も…元気になって欲しいって…思ってます」
不思議だ、と思った。
「好きだから…」
透明なクラゲが愛される。
「淳之介さんのこと」
何もせずに、そこにいるだけなのに。
「ありがとう」
口から出た言葉は拒否する言葉にも、受け入れる言葉にも、どちらにもならず、曖昧だった。でも彼女の気持ちは大きすぎて、そしてそれを今は取り込めずに眺めるしかない。
「また…来てもいいですか?」
「もちろん。…ドーナツ、食べていい?」
「はい」
店の上がり框に一緒に並んで、腰をかけてドーナツを食べた。甘くて、サクサクして、ほんの少し塩気を感じる味だった。
こうして誰かと並んで何かを食べるだけでも、なんとなく温かい気持ちになるんだ、と思って、「ありがとう」と言った。
驚いたように美湖が淳之介の顔を見た瞬間、戸が開いて、恵梨が入ってきた。
「ただいまー」と走って来て、二人の前に立った。
「ずるーい、二人だけでドーナツ食べてるの」と言って、無理矢理、間に入り込む。
「お母さんたちいなかった?」と淳之介が聞くと、首を横に振った。
「これ、恵梨ちゃんに」とドーナツを美湖が渡す。
「おいしそう」と言って、手も洗わずに食べようとするから、淳之介が「手を洗ってきなさい」と言う。
「じゃあ、淳之介君が食べさせてくれたらいいよ」と言って、美湖の手から直接口でドーナツを咥えて、淳之介に取るように顔を上げた。
淳之介が仕方なく立ち上がって、キッチンペーパーを取りに行った。そしてドーナツを包んで、渡す。少し文句を言いたそうな顔をしていたけれど、でも美味しそうに食べ始める。
そうしている間に、佐伯と祥子が戻ってきた。
「お邪魔しました」と美湖が言って、立ち上がると、「みんなで、佐伯さんのところに行こう」と祥子が言う。
「えー? 美湖ちゃんも行く?」と恵梨が聞いた。
「みんなでおいでよ。クラゲも、ドリンクもサービスするから」と佐伯が誘った。
結局、淳之介以外のみんなは連れ立って、佐伯の店に行くことになった。みんなを見送ると、淳之介はまた店に戻った。
深く深く平安な深海のような場所に沈んでしまう。光も届かない、音もしない静かな空間。
でも今日は海の底で小さな綺麗な貝殻を見つけけて、それに触れた気がした。
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