第9話

愛の記憶


 病室にフリージアの香りが漂っていた。佐伯が数店舗を駆け回って集めてベッドの周りに置く。ベッドの周りが花で埋もれていて、邪魔だと言いたそうな看護士もいたが、付きっきりで側にいる佐伯に面と向かって言う人はいなかった。


「フリージアはいい匂いだって…彼女が言うから」と黄色い可愛らしい花束を抱える従兄弟が言い訳がましく言った。


 佐伯の母方の従兄弟はハーフで綺麗な顔立ちをしている。彼の恋人は佐伯の友人の香里だった。だから「香里に合わせてくれてありがとう」と感謝された。三人で出かけることもあった。


「二人とも仲良いんだから、二人で出かけたら?」と佐伯は言う。


れいがいてくれた方がいた方が楽しいじゃん」と従兄弟が言う。


「そうよ。三人で遊ぼう。玲も彼女できたら、一緒に出かけたらいいし」と香里に言われた。


「彼女が出来たら、俺は別に二人きりで出かけるから」と二人に言った。


 そう言いながら、彼女はできない、と心の中だけで呟く。

 香里のことが好きだったから。


 高校の頃だった、たまたま香里と一緒に勉強に必要な本を探しに出かけた時に、従兄弟のかいに会った。横にいて、すぐに分かった。二人が一瞬で惹かれあったこと。お互いから連絡先をねだられたので、面倒臭くなった佐伯はデートをお膳立てしてあげた。その時も、二人で会えばいいのに、二人から一緒にいて、と言われる。それから度々、デートの付き添いを誘われた。断ればいいものを、どうしてか断れず、自分の心をナイフで突き刺し続けるような痛みに耐える。自虐しているのか、と自分でも分からない。


 大学生だった櫂が車の免許を取ったと言うので、三人でドライブにも出かけた。助手席に乗る香里を後ろから眺めるだけだった。後部座席のシートにはフリージアが置かれている。


「いい匂いね」


「うん。好きだって言ってたから」


 目を閉じて二人のやりとりを聞く。流石にもうこれで終わりにしようと思った。きつすぎる。従兄弟も好きだったし、香里はもっと…だった。


 早春の海に着く。まだ肌寒くて、海風が冷たかった。太陽の光が海に反射して優しく光っている。佐伯は砂浜に腰を下ろして、波打ち際で戯れあっている二人のシルエットをぼんやり眺めていた。


「ここを出よう」とそう思った。


 日本を出て、世界を旅しよう。もうここにいて、動けない自分から始めようと決めた。手で砂を掴んで掬い上げる。指の間からサラサラ溢れる砂さえ、光っているように見える。恋を諦めて、世界を旅して、自分の生き方を考えよう。そう決めると、心が軽くなった。

 顔を上げると、二人が手を振っている。


「さよなら」と佐伯は聞こえない声で挨拶をする。


 波打ち際から香里が走ってきて、佐伯の横に座る。


「水、冷たい」と裸足で海に入ったことが分かった。


「まだ…三月だからな」


「玲…。ありがとう」


「は?」


「いつも付き添ってくれて」


「いや…。なんかなんで俺、ついてきてるんだ? って思ってるんだけど?」と香里に言う。


「そっか」と笑う。


 後から櫂が香里の靴を持ってきてくれた。


「足がベタベタする」と香里が言うと、櫂が「水買ってくるから、待ってて」と靴を置いて行ってしまった。


「櫂くん、優しいね」と香里は佐伯に言った。


「ずっと、昔から、あいつは優しいよ」


「そっか。私より昔から知り合いだもんね」


「…。何? 妬いてる?」と冗談ぽく言うのが精一杯だった。


「私…、ちょっと玲のこと…いいなって思ってた」


 香里は海を見て言った。残酷なことなど何もないように。白くぼんやり光る海がただ広くて、眩しく感じた。


「従兄弟だからかな? でも櫂君に会った瞬間、何だか歯車がカチと音を立てて嵌ったような気持ちになったの」


「…それ、俺も横にいて、分かった。二人が…一瞬で恋に落ちたの」


「えー。恥ずかしい」と言って、抱えた膝に顔を埋める。


「運命ってあるんだなって思った」


「うん」と言って、顔をそのまま横向けて「ありがとう」と言った。


「別に…」


 それ以上、どんな言葉も出てこなかった。二人からお礼を言われても困るしかない。櫂が戻ってきて、ペットボトルの水を香里の足にかけるのを見て、


「俺…海外行こうと思う」と言って、立ち上がった。


 突然の話に驚く二人に「だから…お幸せに」と言った。



 そう、心から言ったはずなのに。

 佐伯が世界を旅して、インターンをしたりして、日本に戻る直前だった。


 櫂が運転する車は事故を起こし、櫂は命を落とし、香里は意識不明の重体だった。佐伯が戻った時にはもう葬式も済んで、全てが終わった後だった。香里はまだ目覚めない。お見舞いにも何度も言ったが、もし目が覚めて…櫂がいなくなったと知ったら…そう思うと怖くなった。


 それが佐伯の顔を変えた理由だった。従兄弟に似せるように。中身さえも櫂がしていたようなことをして、口調もまねた。櫂が潔癖だったのも真似しているうちに、自分もだんだんそうなっていった。でも少しずつ歪みが出てくる。櫂はどうだっただろう。どう言っただろう、そう考えては皮肉に思う自分も生まれてきた。

 何もかも…どうでもいい、とさえ思った。

 たった一つ、香里が傷つきさえしなければ、と。


 フリージアも櫂が贈ったようにたくさん揃える。

 その日も、櫂として、眠り続けている香里に話しかける。


「愛してる」


 目を覚まして欲しいような、このままずっと眠ったままの方が幸せなような、佐伯はどちらがいいのか分からない。ただ眠っている香里の前では「優しい櫂」を演じ続けていた。


 その分、他の人の前ではいい加減になる。くたくたに疲弊している心を取り繕う気持ちになれない。祥子から淳之介のクラゲを買って欲しいと言われた時、初めて淳之介に会ったが、深海に沈んでいるような男が幸せに思えた。孤独になれる自由があるのだから、と。


 香里を見捨てて、深海に行くことは佐伯にはできなかった。


「愛してる」


 目を閉じたままの香里にそう囁く。


 陽が傾いてきた頃、年配の看護士が入ってきた。


「いい匂いね。フリージア? 愛の記憶っていう花言葉ですって」と言って、検温を始めた。

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