第12話

今更の質問


 眠気と、怒られたことの腹いせでおやすみも言わずに黙って着替えて眠ってしまった恵梨を見て、祥子はため息をついた。確かに彼女を引っ張り回したことは間違いないけれど、愛情がないわけではないし、良いと思うことはできるだけ取り入れて子育てをしてきた。

 学校に行かなくなったのも、心配だったが、見た目でいじめられていることもあって、勉強だけは家で教えた。昼間は恵梨に付き添い、夜は佐伯の店で働いて、寝る時間を惜しんで育ててきた。


 それなのに淳之介にも、佐伯にも間違っている、と指摘された気がして、辛くなる。


 祥子は淳之介と付き合っていた頃、幸せで毎日が楽しかった。あまり女性との付き合いに慣れていなかった淳之介は心を砕いて、デートをしてくれた。だから付き合いは長く続いた。優しくて、穏やかで真面目な彼。レポートも一緒に考えてくれたり、ご飯だって一緒に作ったりと毎日が幸せだった。


 祥子の母は「男は裏切るから。だから条件で選ぶといいわ」といつも言っていた。


 父が浮気をしていたと知ったのは高校生の頃だった。母は美人で有名だったが、それでも浮気されるのか、と祥子はある意味、驚いた。そして母は父の条件で結婚したと言うだけあって、離婚はしなかった。

 家庭内は冷たい空気が漂っていたが、もう高校生になっていたし、祥子は自分の世界の方が大切になっていたので、心が痛むことはなかった。ただその時、自分は自分で生きていこうと決めた。


 大学に入って、祥子は男性から声をかけられることが多かったが、デートはしたが、その後、断った。自分が気に入った人と付き合おうと決めていたからだ。そして見つけたのが淳之介だった。淳之介に声をかけると、少し驚いたようだったけれど、デートに連れて行ってくれた。それが水族館だったので、本当に驚いた。それまでにデートした男たちは車でドライブや、映画、高級レストランのディナーなど、祥子を喜ばせようとしてくれたが、淳之介は自分が行きたいところへ誘ったのだった。


「水族館行かない?」


「え?」と思わず驚いた顔を見せたら、淳之介が慌てて「あ、別のところにしよっか」と言い直したが、祥子は少し興味を持って出かけることにした。


 淳之介は目立つタイプではなかったが、顔も綺麗だったし、たまに女子の間で話題になっていたのに、なぜか一人でいたので女性に興味がないのかと思っていた。


「好きな子、いなかったの?」と祥子が聞くと、ちょっと恥ずかしそうに笑って、「いたけど…振られた」と言う。


「じゃあ…私で…よかった?」


「え?」と驚いたように顔を見る。


 きっと淳之介が好きだった子は読書が好きでもの静かな女の子のはずだった。何だか二人で図書館とか行ってそうだ、と祥子は勝手に妄想した。


「正直…声かけられて、驚いた」と淳之介が素直に言うので、祥子は笑った。


 周りからは何だか似合わないカップルだと思われていたようだけれど、祥子は気にしなかった。でもある日、友達の友達から淳之介が好きだった女の子が誰かを教えられる。たまたまカフェテリアでお茶をしていた時、窓際に座っている女の子がそうだ、と教えられた。想像していた通り、黒髪が綺麗でお淑やかな雰囲気の女の子だった。


「淳之介を振ったのに、今更近づいてるみたいよ。どういうことかしらね?」と友達が祥子に言う。


 確かに淳之介に何かの本を貸してもらっているところを見た。


「人のものになったから…よく見えたんじゃない?」とまた誰かが言った。


 お茶を飲みながら、聞き流そうとは思ったけれど、明らかに自分とは違うタイプの女の子だった。

 大切にされているのは分かっていたけれど、淳之介が本当に好きな人と付き合ってみたいと思うのではないか、と祥子は思った。祥子もまだ若くて、淳之介は好きだったけれど、一生一人の人を愛するのか、と言うことが考えられなかった。


 ちょうどその時、社会人でエリート男性から声をかけられ、祥子は淳之介と別れた。


 嫌いになったわけでもない。ただ新しい人と付き合ってみようと軽い気持ちだった。軽い気持ちで考えたが、エリートとの付き合いは酷くつまらなく、すぐに別れた。淳之介が好きだった子と付き合っていると思い込んでいたが、その後、淳之介は誰とも付き合わなかったようだった。


 そして祥子は好きという気持ちが分からないまま、いろんな人と出逢うが、会うたびに男というものが信頼できなくなる。母の教えが蘇ってきた。


「男は裏切るから。だから条件で選ぶといいわ」


 子どもが欲しいと思った時がたまたま付き合っていたイギリス人だったので、ハーフだと可愛いだろうと子どもを生んだ。そして予想通りの可愛い子が生まれる。母の言うことが嘘ではないと思った瞬間だった。男は裏切るが、条件は裏切らないと。


 そしてまた母の家訓が正しいことが証明された。男は裏切る。あんなに「一番大好きだ、愛してる」と言っていたのに。


 恵梨の父親が他の女性と付き合うから、と別れを切り出された時、母の声が聞こえて、ふっと笑ってしまった。


 母のことを見下していたはずなのに、呪いのように台詞が蘇ってくる。

 恵梨の天使のような寝顔を見て、思わず涙が溢れた。自分は母のようにならないと思っていたのに、結局、母の言葉に囚われていたことが辛い。

 恵梨のためにと頑張っていたことだけど、もしかしたら、自分も彼女に何かの呪いをかけているのかもしれない。

 小さい頃は二人でも幸せだったが、恵梨はこれから自分の世界の方へ軸を移していくだろう。彼女が思うように進んでくれたら良いとは分かっているが、しかし手放しでそれを応援するのも心配が先に立ってしまってできない。

 

 自分がしてきたことを後悔はしていない。でも…あれこれ苦労して、結局、母の呪い以外は何も残らない…のだろうか、とふと寂しさが襲いかかってくる。


「ママ」と恵梨が寝言で呟いた。


 久しぶりに「ママ」とよばれた。

 どんな夢を見ているのか分からないけれど、寝顔はうっすら微笑んでいた。


「はあい」と祥子は返事した。



 クラゲの水を換え終わって、淳之介は時計を見る。そろそろ恵梨が戻ってくる時間だがなかなか帰ってこない。気になって、店先に出るが、姿は見当たらない。いつもなら、もうとっくに家についているはずなのに。しばらく待っていたが、最近、物騒なことも多いので、淳之介は店を閉めて、小学校まで歩いていく。小学校に近づいたけれど、すれ違うこともなかった。ついに小学校の門まで来たが、そこでうろうろしていても不審者と間違えられるので、どこかですれ違っているかもしれないと、また店に戻る。

 店の前にも恵梨がいなかった。勝手にアパートに帰っているのかな、とそっちに向かおうとした時、


「ただいまー」と恵梨の声がした。


「あ、おかえり」


「淳之介君、お店閉めたの? どうして?」


「いや、帰ってくるのが遅かったから、心配して…小学校まで行ったんだけど」と言って、お店の鍵を開ける。


 クラゲたちがぼんやり光っている。


「あ、ごめん。図工ができてなくて残されてた友達を待ってたの」とクラゲたちに手を振りながら言う。


「そっか。ちょっと心配した」


「えー? 大丈夫だよ。おやつある?」


「あるよ。ゼリーと…プリン。好きな方食べて」と言うと、恵梨は駆け足でお店の中を通って行った。


 昼の日中ではあるが、いつもと同じ時間でなければ、不安になってしまう。淳之介はため息をついて、クラゲの世界に戻って行った。


 夜になると、美湖がコロッケを持ってきた。駅前の肉屋で販売していると言って、渡してくれた。


「いつも…ありがとう」と淳之介はもう断らずに受け取ることにした。


「二階に恵梨ちゃんがいるから、上がって」とまで言う。


 すると明るい顔をして、上に上がって行った。ご飯と味噌汁は用意してあるから、勝手に食べてくれるだろう。三十分後くらいに祥子も来た。クラゲを売るより、なんというか子ども食堂をやっている気になる。


「今日、美湖ちゃんがコロッケ持ってきてくれたから」と言うと、祥子は「そうなんだ」と言った。


 階段の方に行く前に淳之介に


「ごめんね」と謝る。


「何が?」


「全部。全て。私の自分勝手な行動について」


「…僕に謝ることは何もないよ」


 そう言われると、何だかそれはそれで辛くなった。それ以上、何も言えなくなって、階段を上がろうとした時…


「まぁ、でも昔のことは…受け入れる」とすれ違いざまに、ぼそっと呟いた。


「え? 昔のことって。私が…心変わりしたこと?」


 祥子が振り返って言うが、淳之介は背中を向けたまま答えた。


「そう。やっぱりショックだったから」


「ごめんなさい。今更だけど…。聞いていい? あの子とどうして付き合わなかったの?」


「あの子?」と淳之介は全く誰のことだか想像もつかなかった。


「好きだった子…。本、貸してたでしょ?」


「…あぁ。…え? まさかそれで?」と思わず淳之介は祥子の方を振り向いた。


「そればっかりじゃないけど…。私より、お似合いだと思ったから」


「…どうして?」


「だって…」


 でも今更その先を言ったところで、時間も気持ちも取り戻せなかった。でもあの時、思ったことを口に出してみた。


「好きな人と一緒にいたいかなって思ったから」


 淳之介はじっと祥子を見つめた。


「好きな人…。一緒に…いたかったよ」


 それが誰だったのか、十年以上経って、祥子は初めて分かった。淳之介が視線を外した。


「…そっか」


「だから、謝罪は受け入れる」


「ごめんね。大好きだったんだけど…。あの頃は…大切にすることが…分からなくて」


「それは…お互い様じゃないかな」


「淳之介君といた時間が…一番だったよ」と祥子は笑った。


「そう言うこと…言う」と淳之介も笑った。


 二階から笑い声が聞こえる。テレビを見ながらご飯を食べていそうだったので、祥子は慌てて階段を登った。

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