第11話
教育ママ
海で遊んだ後、香里が眠っている病院に立ち寄った。恵梨は黙って佐伯について行った。佐伯はピンクのバラの花束をたくさん買って、持って行く。まるで婚約でもするのか、と言う勢いだった。
「お花好きなの?」
「うん。特にフリージアが、ね。でも今はもう季節から外れてるから」と言う。
佐伯の後ろを歩いていた恵梨には甘いバラの香りが漂っている。病室に入ると、すぐに花瓶の花を入れ換えるから、と言って、出ていった。恵梨は椅子に座って、眠っている女性の顔を覗き込む。眠れる森の美女のようだ、と思った。佐伯のキスで目を覚ますのだろうか、とふと思う。
バラを入れた花瓶を持ってくると、すぐ横のテーブルに置いた。
「匂いは分かってくれるかも知れないからね」と言う。
バラが添えられて、ますます物語のように思えた。
「香里…。今日は可愛いお客さんも来たよ」と優しい声をかける。
テーブルの上には佐伯そっくりな人と元気そうな香里の写真が置かれていた。
「あれ? これ…」と恵梨が言うと、佐伯は笑いながら「櫂だよ」と言った。
それは恵梨にも、香里にもどちらにも言ったように聞こえた。
「かい?」と恵梨が聞き直すと、佐伯は微笑みながら頷く。
そしてゆっくり香里の耳元で「愛してる」と言った。
恵梨が驚いて、佐伯を見ていたが、全く気にしていないようだった。まるで恵梨がそこにいないかのように、佐伯は香里の額に手を当てて、撫でた。本当に愛おしそうに撫でる。
「愛してる」
その言葉が届いているのか分からない。でも恵梨はただ黙って見ているしかできなかった。
「さぁ…。行こっか」とにっこり笑って、病室を出た。
日がもう沈んでいる。
「お腹空いたねぇ。何か食べて帰ろうか? それともお母さんが心配だったら…帰るけど」
「…ハンバーガー食べたい。お母さん、食べさせてくれないから」
「いいよ」とすぐに佐伯はハンバーガーやさんに向かう。
恵梨は子どもたちがハンバーガーのおもちゃを持っているのが羨ましかった。祥子はなぜかご飯だけは厳しかった。なるべく手作りや、忙しいときは素材にこだわった冷凍食品を食べさせたりしていた。ファーストフードはせいぜい、うどんくらいだった。
「わぁ」とメニューを見て、目を輝かせる。
「好きなの全部頼んでいいからね」と佐伯は言う。
恵梨は子どもセットのナゲット、ストロベリーシェイクを頼む。そしてスキップしながら、席に座る。佐伯はそれを見て笑いながら、出来上がった商品を運んだ。
「今日は付き合ってくれてありがとう」と恵梨に言うと、恵梨は驚いたような顔をした。
「え? 私の方が…ありがとうだよ。楽しかったし…。こんな夢まで叶えてくれて」
「夢?」
「うん。だって、おもちゃ付きの食べたかったもん」
「あ、お母さんがダメって?」と佐伯が聞くと、少し困った顔で頷いた。
「あの人、そう言うところ厳しいんだね」
「うん。後、勉強もうるさいし…」
「へぇ。意外だなぁ」
恵梨は少しため息をついた。
「お母さんのこと好きなのに、嫌い」と言って、シェイクと口にした。
「そっか…。まぁ、お母さんっていうのはうるさい存在なんだよ」と言って、佐伯もハンバーガーを齧る。
「私、お母さんは淳之介君のことが好きなんだと思うんだけど…」
「うん?」
「でも一緒にはいないんだって。なんでか分かんない。幸せが全てじゃないって」
「うーん。祥子さんは独特だからなぁ…。なんて言うか…、難しいというか。面倒な人かも」
「あ、そう。面倒かも」と恵梨はいい言葉だと言わんばかりに佐伯の言葉に頷いて、「でも私はお姫様になりたい。いつか素敵な人と末長く暮らすの」と言って微笑む。
「恵梨ちゃんなら…できると思うよ」
佐伯に言われて、嬉しそうに恵梨は笑う。そしてふとさっき病院で会った人のことを聞いた。
「佐伯さんの好きな人なの?」
「そうだよ」
「じゃあ、目が覚めるまで待ってるの?」
「…どうかな」
「え?」
「目が覚めたら…きっとびっくりしちゃうだろうし…。それに…悲しいことが分かってしまうから。だから…」
「悲しいこと?」
「彼女の恋人はもういないんだ」
「え?」
「あの写真に写っていた櫂…は事故で亡くなってしまってる。彼女も一緒だったんだけど、彼女は意識が戻らなくて…」
恵梨は写真にそっくりな佐伯を見て、佐伯の顔が変わった理由が彼女のためだったと分かって何も言えなくなる。
「だから目覚めるのを待っているのか、永遠にこのままがいいのか…。何がいいのか分からない」
お姫様は王子のキスで目を覚ましました。
めでたしめでたし。
そんなお話しか恵梨は知らない。
「もちろん、彼女が目を覚ましたら、全力でサポートするけれどね」
そう言って、微笑む佐伯は微笑んでいるのに、ずっと悲しそうだった。恵梨は思わず涙が溢れてしまった。
「ごめん。変な話して」
「かわいそう」
「え?」
「玲君も…。みんな」
初めて飲んだストロベリーシェイクの甘さがずっと口の中にある。慌てて涙をハンカチで拭かれながら、佐伯の温かい手を感じていた。
その後、車で店まで戻ったが、恵梨が眠りこんでいたので、佐伯は祥子も一緒に家まで送った。
「帰ってくるのが遅かったから、もう、くたくたよ」と祥子は佐伯に文句を言う。
「あ、ごめんね。色々、連れて行ったから」
「それはありがたいけど…。晩御飯は何にしたの?」
「あー、それは内緒」と言って、車を走らせる。
「ふーん。まぁ…いいけど」
「恵梨ちゃん、厳しく育ててるんだって?」
「そう? 言ってた?」
「うん。食事制限やら、勉強やら」
「そう聞くと、ひどい親みたいね?」と祥子は笑った。
「よくやってると思うけど、頑張りすぎじゃないの?」
「…淳之介君には怒られたけど」
「へぇ。怒るんだ」
「…なんで、怒られなきゃいけないの? って思ったんだけど、その後、お金貸してくれて、市役所で色々手続きしてくれて…。母子手当とか、そんなこと受け取って。でもそれって…縛られることにならない? この場所とか自治体とか…日本とか」
「…祥子さん。僕ですら、この社会の一員として存在してるんだから、それは仕方ないって諦めなよ。ヒッピーになりたいの?」と笑うと、祥子はそうじゃないけど、と言って黙る。
「恵梨ちゃんの夢は素敵な王子様と末長く結婚することらしいよ。あんまりぶっ飛んだ母だと片方はそういう堅実な考えになるのかもね?」
「そんなの絶対、あり得ないでしょう。相手に頼る人生なんて」
「さあね。頼る相手がいないから分からないけど」と言って、佐伯はため息をついた。
「…佐伯さんは…、どうして変わったの?」
「顔のこと?」
「中身も…」
「変わったっていうか…、変えたんだよ」
「変えた? 何も悪いところなんかなかったじゃない」
「祥子さんが言う、幸せが全てじゃないならさ。良いところが全てじゃない。どうでもいいんだよ。そんなこと…。良いも悪いも。お金があっても、本当に欲しいものは手にできないし。お金で買えるものは…大体、朽ち果てる」
「じゃあ、本当に欲しいものって何?」
「眠り姫の気持ち」
「眠り姫?」
「僕の好きな人は…誰かを思ったままずっと眠ってる。僕は僕のことを好きになってくれるなら、全財産捨ててもいいし…、両目が見えなくなっても構わない。だから…顔を変える事なんて、瑣末なことで。今、僕に起こっている全てのことはどうでも良いことばかりなんだ」
あまり自分の気持ちを話すことが少ない佐伯の言葉を聞いて、祥子は驚いた。
「春が来て、夏が来て…、それぐらいどうでも良いことなんだ。死んでるのと同じように生きてる。でも恵梨ちゃんは…まだ眩しい存在だから、ちょっと自分の我儘を抑えて、彼女を大切にしてあげなよ」
「…淳之介君にも似たようなこと言われた。けど私なりに大切にしてるつもり」と他人から言われたことで無性に傷つく。
「分かってるよ。はい。着いた」と言って車を止める。
祥子は寝ている恵梨を起こして、アパートの階段を上がる。人形のような外見で、そして可愛い我が子だ。大切に育ててるつもりだ。でもどうして批判されるのだろう。狭い部屋に入って、「歯を磨きなさい」と言う。
眠たいからか、不機嫌に足音をどんどん立てて歩く。階下に響くから、それも注意した。さらに不機嫌が加速する。
「自分の我儘?」と不機嫌そうな恵梨を見て、そう呟いた。
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