佐竹義宣の危機
家康が霊武者と戦っていた頃。
「書状だと?」
鹿島神宮から数週ぶりに戻って来た佐竹義宣は、和田昭為から一通の書状を渡されていた。
一時期ほどではないが眼光を炯々とさせていた彼の周りからは人がかなり減っており、半ば職務放棄状態だったためか東義久こと佐竹義久が職務代行状態でもあった。
義久は問題なく佐竹を治めていたが、それでも優秀な義重やしっかりとした義宣と比べるとどうしても地味な存在であった。その義久もまた和田昭為と同じように義宣の側に控えており、書状の中身はまだ見ていない。
「どこの誰からだ」
「北条です」
「北条?」
北条が一体何のつもりかと言う話だが、それでも見ない訳にもいかない。
「貴公らの事情、察するに余りある。
せっかく戦勝を確約して戦場に出たにもかかわらず妖の如き童子に蹂躙され先代殿と当代殿の弟君を失うとは残念至極。
さらにその勝利に勢いづいた伊達が蘆名を取り込み最上らとも和し大国として君臨するとあっては心胆を冷やしている事は必至でありその点もまた同情に値する。そのして伊達らが敗戦の苦難の中にある貴公を狙うは必定でありこの北条相州、鎌倉時代より続く名家が絶える事を見過ごすこと叶わず。
そこで我が一族新左衛門をそちらに差し上げる故、どうか佐竹の係累を守っていただきたい。この希求をお聞きいただけるのであれば幸甚である。
北条相州」
新左衛門と言うのは氏政の妹の息子であり、平たく言えば北条の血族だ。しかも五男坊(長男が夭折しているため実質四男坊だが)であり、そんな存在を寄越すと言うのはどう考えても佐竹を取り込もうとする処置でしかない。要するに、佐野とかと同じになれと言う事だ。
「馬鹿馬鹿しい」
当然のようにそう吐き捨てる義宣だったが、それを断ればどうなるかなどすぐわかる。
北条が、攻めて来る事だろう。
ただ
「今更と言う気持ちもありますが」
なのも事実だった。
あの人取橋の敗戦から二年が経っており、弱り切った佐竹を攻める時間はいくらでもあったはずだ。今では佐竹も中身はともかく兵数はそれなりに揃っており、急に攻められても回すぐらいの余裕はあった。
「どうなさいます」
「どうなさいますも何もあるまい、我々はそこまで弱ってはおらぬと伝えておけ。それから里見にも改めて使者をやれ。それから兵たちにも伝えよ、北条がついに動き出すと」
「はっ…」
当然と言うべき言葉を投げ付け、義宣は氏政の胸をえぐるのように顎を振る。宣戦布告だと言うのならば遠慮なく受け取ってやるまで、怒らせようが何だろうが知った事かと言わんばかりだった。
「やるのですか」
「私自ら出る。東殿たちには悪いが新生佐竹の戦だ、ここで戦果を挙げねば軽侮の視線を受けるのは必至。里見はまだしも他の御家の力を借りず、しっかりとこの戦勝たねばならぬ」
「それなのですが、北条を名乗る存在が少し前に変な書状を送り付けて来ておりまして」
「なぜ見せなかったのです!」
やる気になっていた義宣に対し、義久が別の書状を渡して来た。その書状をひったくるように受け取った義宣が中を見ると、義久の言葉を得心せざるを得なくなった。
「征夷大将軍こそ佐竹の災難の大元ゆえ、責務を問うなら彼に問え…………?」
征夷大将軍とは、足利義昭ではないか。
幕府そのものは十四年前に実を失っているがまだ名だけは残っており、義昭は今でも征夷大将軍だった。だがそれでも就任当時から何の実権もない事は明白であり、佐竹と言う遠い地のそれをうんぬんする力などないのは言うまでもなかった。あるとすれば信長か秀吉であり、実際両者と佐竹はそれなりに仲良くしていた。
「征夷大将軍様が何をなさったと言うのやら………………」
「ええ。ですから無視していたのですが」
「すみませんでした、しかしなぜそんな物を」
「ですから、北条を名乗る存在がです。北条とは限らぬのです」
「ふむ…」
北条を名乗ると言うのと本当に北条だと言うのではまるっきり違う。もちろんそれだけでどうにかなる訳ではないが、旗印や合印などその手の使者の装束を偽装し、北条の領国側から来た事にすれば誤解させる事は出来る。
しかしなぜ、そんな事を知らせる必要があるのか。誰に理由があるのか。何の意味があるのか。
「もしかするとこの征夷大将軍と言うのが義昭公ではない可能性も」
「まさか義政公か?あるいは義教公か?馬鹿馬鹿しい、そんな過去の人物に何の責務があるのか」
「あるいは殿が人取橋で対峙したその霊は…」
「あのな、幕府の将軍が足利持氏を征伐した話はあっても東北まで兵を進めた話はあるまい」
足利義政については政務を蔑ろにして風流に耽り応仁の乱を引き起こし戦国乱世を招いた存在として諸大名の中でも評判は悪く、その妻である日野富子の方が問題はあったが数倍ましな存在とまで言われている。あるいは強権政治を行い暴君と言われた足利義教かと思ったが、それについては近年武士らしいそれであり幕府の威を示そうとしたとして失敗はしたもののさほど軽く見られてはいない。
と言うより京に構えられた幕府が東北に干渉する事は極めて少なく、関東ですら一五〇年前の永享の乱がほぼ最後である。と言うか関東と言っても常陸まで来た事などなく、ある意味佐竹は独立勢力のような状態だった。
「っておい待て、霊だと?」
「ええ。二年も経っており皆の頭も冷えたと思い話を伺ってみたのですが」
「わしだって聞いておる、あの身のこなしは人間業にあらずと」
「一人の兵の頭を踏み付けて飛び上がったとか言うのですが、それにしてはその兵に足跡がなかったと言うのです」
「三歳児の体重などたかが知れておりましょう」
「それでも三貫(≒11.2キログラム)はありましょう。刀剣の重さを加えればもう一、二貫は増える以上、頭に圧を感じるには十分なはずです」
「頭を割られて血まみれだったはずなのに足跡が見えるものなのですか」
「見えます。百姓などは売値が下がると不評ですがな」
実際に霊武者と呼ばれていたし、実際にこちらを見据えながら後ろ走りで下がって行く、馬よりもはるかに速く走り、鳥のように高く舞うなどその行いは常人のそれでない事は間違いなかった。
その「霊武者」の恐怖から逃れるために、それこそ鹿島神宮とか言う場所に二年も政務を半ば放置して籠っていたのに。自分なりに、あれは霊は霊でも悪霊ではなく、ましてや佐竹の敵でも伊達の味方でもない存在だと結論付けていたはずだったのに。
「なぜまた蒸し返す?」
「その霊と征夷大将軍に関係があるかもしれぬと言う事です」
「何だまさか、結城合戦の話でもする気か?」
そう甥に言われて義久はおののいたが、それでもひるむ事はしない。
結城合戦とは永享の乱の二年後にこの常陸の結城一族が足利持氏の遺児を旗頭に起こした乱の事であり、その際に義教は持氏の遺児二人を殺させている。だがその遺児二人は享年十歳前後であり、三歳児前後であったと言う人取橋に出て来たそれの話とは合わない。もう一人四歳の子がいたが、その子は生き延びて成氏として立派に天寿を全うしている事からしてもおかしい。
「……まったく、北条だか誰だか知りませんが変な書状を送り付けて来た輩がいた物ですな。いつ頃そんな物を」
「五日前です」
「五日前ですか、そうですか。見た所字はかなり丁重で墨も上物ですが、ずいぶんと手の込んだ悪戯をする者もいるのですね」
結論は出たとばかりに腰を浮かす義宣の目に映るのは何だったのか、本人ですらわからない。
ただ確実な事として、義宣どころか和田昭為や義久、それどころかこの城の人間すべてに北条に対する侮りがあったのは間違いなかった。
今まで何をやっていたのか、それこそ二年もなぜ自分たちを放置したのかと言う。
—————その二年もの間、決して北条は惰眠を貪っていた訳ではない事を、彼らは見落としていた。
そして、自分たちの北の存在が自分たちを……いやこれは見落としていたとは言わないだろう。
佐竹の視界に元から入っていない存在が関与していたのだから。
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