徳川家康の決断

 ここで時は再び三ヶ月ほど前にさかのぼる。






 浜松城にて上田城攻略戦が惨敗に終わった事を聞かされた家康は驚嘆すると共に、榊原康政の死を知らされて泣いていた。

「小平太が……」

 これから徳川を支えて行くはずだった存在が、こんな所で死んでしまうと言うのか。


 ただでさえ死傷者三千対六十、と言うか二十と言う屈辱的惨敗を喫したと言うのに。 







「どうなったのだ」


 平身低頭する大久保忠世に向かって、家康は力なく七文字の言葉を投げる。忠世たちも忠世たちで、泣く気力すら失せたかのように突っ伏している。

 あの誰よりも武士としての気が強そうな大久保彦左衛門すら、何も言わない。

 ただ黙って責めを待つと言うより、他に何をしたらいいのかわからないから話を進めて下さいと言うのが正しそうなほどの打ちのめされぶり。


「……真田はいったい何をやったのだ、詳しく教えてくれ、頼む」


 家康も低姿勢で大久保忠世・忠佐・鳥居元忠に呼びかけるが、誰も何も答えない。

 はっきり言えと怒鳴り散らしたいが、実際にやってもおそらく無意味だろう。

 道中、敗戦とは言えずっとこんな調子だった以上、彼らが立ち直るには時と言う名の妙薬をもってするしかないのかもしれない。



「まったく、そんなに黙りこくって。沈黙は金雄弁は銀と言いますが、金は万能ではないのですぞ」

「どういう意味だ!」



 そんな気まずい沈黙をぶち壊したのは、本多正信だった。


 今年で四十八になる、家康の側にいつも引っ付いている軟弱な男。


 しかも一度家康に逆らったことから帰り新参と蔑まれ、そのくせ家康から頼りにされている鼻持ちならない男。


 そんな男からのずいぶんと嫌味ったらしい言い草に、元忠が怒鳴った。


「どういう意味も何も」

「三倍どころか、三十倍、いや下手すれば百倍以上の損害を出したとか言うのに何ヘラヘラと笑っている!お前のその舌先三寸で死者が蘇るとでも言うの…」

「やれやれ、真田より与しやすい敵を見つけたか。まあ強敵を避け雑兵を討ち取って

戦果を稼ぐは基本だからな。

 まあ、とにかく何があったか言ってくれ。それだけでいい」


 元忠はハッとしたかのように口を閉じ、顔を赤くしながら家康に平伏する。

 ある意味での敗戦に次ぐ敗戦に元忠はさらにへこむが、家康は笑う。


 まったく、大した阿吽の呼吸ぶりだ。元忠と彦左衛門が苦虫を嚙み潰したような顔になる中、忠世と忠佐は苦笑した。



 とにかく雰囲気も落ち着いたとばかりに家康が再び優しい言葉を投げかけると、総大将であった大久保忠世がようやく面を上げて舌を動かし始めた。


「我々は二手に分かれ、上田城攻撃役として弟と鳥居殿、本隊として拙者と榊原殿と言う体制を取りました。その兵力はだいたい半々であり、上田城を攻め落とす上に敵奇襲を凌ぎ切るには十分だと見たのです」

「まあそうだな」

「しかし上田城に突入した忠佐を待っていたのは、上田城の民兵でした。彼らは予想外に粘り強く、さらに地の利を生かして激しく抵抗して来たのです」

「だろうな。わしらからしてみれば上田城の主を挿げ替えるだけのつもりでも、向こうからしてみればわしらは自分たちの利益を守るかどうか分からん怪しい人殺し共だ。敵に失政がない場合、民百姓の不満もないかあっても少ない。そんな相手に勝つにはそれこそ力しかないのだ」


 兵たちの忠義心もさることながら、民たちの忠義心も重要である。いくら兵が強かろうと民百姓にそっぽを向かれていたら、誰も兵を動かすのに必要な物資を提供してくれなくなる。最悪、飯も食えなくなる。

 右顧左眄しているとか言うと不信感を買いそうになるが、それでも本人にとってはしょうがない事だし農民にとっては下手な戦乱が起きないのが一番である。右顧左眄による体裁を気にするのはそれこそ上級国民様の特権であり、庶民にはどうでも良い事だった。


「確かにそれは問題でした。でも民兵を足しても所詮は三千程度であり、いずれは落ちると思っていました。ですがそこでとんでもない事が起きたのです……」

「上杉か」

「いえ、上杉は動きませんでした……確認は出来ましたが……」

「では何だと言うのだ」

「水です、水!」

「彦左衛門、それは大した事なかっただろう。無論犠牲者は出たが…」

「いや水です!神川に榊原殿は呑まれたのです!真田のせいで!」



 その上でここまで打撃を与えた存在に付いて聞こうとすると、彦左衛門がいきなり水だと叫び出した。忠世が止めようとしても言う事を聞かずに榊原康政の死の責任を水と真田に押し付ける。その姿は自分の思いを伝えようと必死な子どもじみていて、情けないと言うよりむしろ恐怖心を掻き立てるそれだった。


「おい彦左、そなたが一番はっきりと見ていたであろう!あのおかしな男の姿を!」

「それは…!」

「忠世、おかしな男とは」

「間違いなく真田忍びで」

「静まれ!」

「は、はい……ですが」

「聞こえんのか!」

「いえ……………………」

 忠世に叱責されても口を動かそうとする彦左衛門を忠世は一喝するが、それでも彦左衛門は全身を震わせている。

 おそらく水を真田が使い、徳川軍に打撃を与えたのは事実なのだろう。だがそれならなぜ榊原康政の亡骸が回収できたのかと言う、ある意味根本的な問題の解決にはなっていない。


 と言うかついさっき水に呑まれたとか言っていたくせにいきなり真田忍びがとか言い出すなど、正直聞き苦しい事この上ない。


「で、だ。おかしな男とは」

「謎の剣士が現れて…」

「謎の剣士?」

「古めかしい袴を穿いた男で、顔は…なぜかやけに美しかったような気がします」

「それが小平太を斬ったと申すのか」

「はい。しかしそれ以前からとんでもない真似をしておりました!」

「……………………」


 家康ではなく、彦左衛門に向けるような大声。

 自分が兄であり、司令官であった身であり、この場の責任者だと言う事を示すような大声。

 たとえ不利益になろうとも隠しようなどあるかと言わんばかりに、改めて覚悟を決めた事を示すような大声。


 彦左衛門はついに黙ってしまい、いたたまれなくなったかのように家康の目ばかり見つめる。その視線には力はなく、ほとんど置物のようになってしまった。


「何をやったと言うのだ」

「まるで馬のような速さで走り、ほぼ一人で五千の中に斬りこんだのです。そして五千の兵の誰をもってしても刃をかすらせる事さえできませんでした」

「五千もいてか」

「ええ。しかもまるで古の麒麟のように高く舞い、着地の際にも全く留まる事なく走り、砂煙も立たないのに血煙だけは立つのです」

「その男に小平太は斬られたと…」

「ええ。その挙句です、かなりの川幅があり、少なからぬ兵を飲み込んだはずの神川を、飛び越えるのではなく走って越えたのです。これも間違いありません」


 その忠世が申し述べた謎の剣士とやらの為し様は、どう聞いてもまともな人間のそれではない。


 彦左衛門が言うような忍者とか言う現実的な可能性を探ったとしても、五千とか言う存在を相手に無傷で戦うなどあり得ようがない。


 しかも特別な武器を使ったとかではなく、業物である事は間違いないだろうが刀一本で。

 攻撃を受けるや目にも見えないほどの速さでかわしたとか言うにしても、十分人間業ではないと言える。



「ですが!」

「彦左!失礼、真田はまるで動揺しませんでした」

「…そうか。まったく、熟読玩味もいいが暗記では限界があると言う事だな。

 どうやら真田め、何が起ころうが兵たちに作戦の成功を専一にせよとあらかじめ言い含めていたらしい。ったく、してやられたわ……」



 その現場にいた存在である彦左衛門が蘇ったかのように口を動かすのを必死に封じた忠世がもう一つ信じられない事実を付け加えるが、家康は冷静沈着だった。


 「いいか。おそらく真田はそんな事態が起きるかもしれないと予想していた訳だ。そして起きようが起きまいが、あるいはその男が自分たちの敵となろうが構う事なく作戦を実行する気だった。

 もちろんその見込みが外れれば真田が消えていたかもしれないが、その覚悟は持っていたんだろう」

「では真田はその謎の男を……」

「知っていたのだろう、ただ当てにはしていなかった。まったく、真田昌幸め、見事な男だ」

「しかしそんな男が」

「どこにいたかなどどうでもいい、いや良くないか……とにかくそなたらには迷惑をかけてしまった。小平太の分も含め、徳川家より補償はする。しばらく体を休めよ」


 家康の処分は、実に寛大だった。

 確かにあまりにも不合理で不条理だが、それでも間違いなくその侍とやらは存在し、そして榊原康政を撃った事は間違いない。


 その存在を真田に把握され、自分たちが把握していなかった。それが、今回の敗因の全て——————————。




「先に知る者は勝つ、か……」

「いったいどこから来て、どこへ行ったと言うのか……」

「弥八郎、そんなに背負い込むな」

「この浜松と言う地に対する油断があったのかもしれませぬ……」



 忠世たちがいなくなり二人きりになった大広間で、本多正信は頭を抱えた。

 本来ならば自分がつかんでいるべきだったのに。なぜ気付かなかったのか。



 忍者と聞くと暗殺、潜入とか派手なそれを思い起こさせるが、実際の任務は情報収集が主だった。

 そしてその情報収集の範囲は他国だけではなく内輪にも及ぶし、また自分たちの領国に入って来ている敵の忍びを発見し討つのもまた忍者の仕事である。


 だがこの時徳川配下の伊賀忍びは甲信や尾張、相模や伊豆などに振り分けられており、駿河はまだともかく三河や遠江、ましてや浜松と言う本拠地周辺にはほとんどいなかった。

「しかし浜松周辺にそんな怪しき者がいたとは」

「たまたまその時にいただけかもしれませぬが、これよりは足元を固めるためにもこの浜松にも数名ほど置かねばなりますまい」

「わかった」

 家康は正信の言葉を呑み、服部半蔵に要請して浜松周辺に数名ほど間者を寄越すように連絡する事を決めた。




(何度でも、何度でも大難はやって来るか……鎌倉右大将公もいろいろ苦難を味わったのだろうな……時にはこのようなあり得ぬ力に、押されもしたのだろう……)




 鎌倉右大将とは、鎌倉幕府を興した征夷大将軍・源頼朝の事である。



 家康は、源頼朝を尊敬していた。



 新田源氏の末裔である家康にとって源氏は崇拝の対象であったが、そこに武田信玄と言う源氏の大物のそれをまともに受けてしまったのだからたまった物ではない。

 それが羽柴秀吉とか言う農民上がりの存在を軽蔑する理由になる訳でもないが、それでも自分の血には誇りを持っていた。


 家康は自分もまた、頼朝の様に苦難を重ねながら強くなって行けていると言う自信があった。


 今回の大敗もまた、石橋山の敗戦のようなそれだと思う事にしたのである。

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