誰も動けない

「そのような!」



 甲州を揺るがした事件が家康の耳に入ったのは、襲撃から半日後の事だった。


 この時北条との問題もあり駿府城にいた家康の下に、万千代丸を含む数名の武士が死に物狂いで駆け込んで来たのだ。

 万千代丸を含め兵たちは半死半生で、それこそ駿府城は野戦病院が宿屋のようになっていた。


「穴山殿の墓を荒らした男は、そのまま躑躅ヶ崎館へと向かい、万千代丸様を……!」

「兵たちは!」

「数十名の死傷者を…中には負傷こそ軽微なれど心理的打撃を受けている存在も多々おり、いやと言うかぶり返した存在が…」

「ぶり返す?」

「ええ。どうやらその男は榊原様を討った男と同じである、と……」



 そしてさらに、あの男の再登場だと言う絶望的な現実。

 なぜだ、なぜまた我々の前に立ちふさがるのか。



「誰か!」



 家康の悲痛な叫び声に呼応するように、無音で家康の前に現れる男。



 言うまでもなく、服部半蔵正成だ。



 さすがに昼間と言う事で黒い忍び装束は着ていないが、音もなく着地するその様はまさに忍び頭のそれであり、「足軽頭・服部正成」はそこにいなかった。


「ああ!」

 

 だがその静寂をぶち壊すように悲鳴が上がり、転がり出す兵が出た。あわてて抑え込むもその姿は彼がもはや兵としては使い物にならない事を示すそれであり、家康の胃が痛み出した。

「おいこら半蔵だぞ」

「ああ、そうでしたかぁ!半蔵様申し訳ございませぬぅぅ!」

 その兵だった存在は起き上がって泣きわめきながら土下座し、震えている。つい先ほど小用に行っていなければ、小便を漏らしたかもしれない。


「申し訳ございませぬ、ここは味方しかおりませぬ事を失念しておりました」

「良い。それが普段のそなたなのだからな。今後ともよろしく頼む」

「はい…」


 無音である事が、恐怖を与えている。



 おそらくあの男、此度だけではなくあの上田の時も。




 静寂と言うのは、平穏と等号とは限らない。

 静寂の中で淡々と人を殺して行く存在に遭遇した身からすれば、静寂は恐怖でしかない。

 一応戦場相応の音声はあったが、そんなある意味日常の中に割り込む「非日常」は人間の心を痛め付けるには十分だった。



「で、だ。甲州にはどれほどの徳川の兵が残っている」

「まだわかりませぬ」

「すまぬな、少し気が逸ってしまった。かの男が甲州の民を傷つけていると思うといささかばかり業腹でな」

「得心しているつもりではあります。武田でも徳川でも何でも、良き政を行う主に民は付いて行きますから」

「ああ。

 それだけに気になるのは北条だ。ただでさえ小田原の安全のために相模の隣国の甲斐を狙っていた北条が動けば甲斐はあっという間に北条の物になる。そうなれば信州の我が手勢とは分断だ」

 そして現実的に問題なのは北条だ。小田原城の隣である甲斐は文字通り目の上のたんこぶであり、下手すると駿河よりも厄介だ。そこに長年武田信玄と言う厄介な存在がいたから頭を悩ませていただろうし、その信玄が消えたと思ったら数年で自分たちがやって来たのだから余計に面倒くさいだろう。


「ですがかの男が北条の味方をする保証はどこにもありません」

「それはそうだがな…まあ、北条は未だに佐竹を攻めようとせんのか」

「ええ。

 確認は取れておりませんが伊達及び蘆名が佐竹を支援しようとしているとか」

「馬鹿を言え…と言えんのが北条か。うますぎる時は注意せよとか言うが、北条の上がまず今の事態を受け入れておらんのだろう。何なら佐竹義重の死すら疑っているのかもしれん」

「ハァ?」



 だがそれ以上に、北条は慎重を通り越して優柔不断だった。

 謎の男が上田に現れた事も、謎の少年が人取橋に現れた事も知っているはずなのに。

 それにより徳川と佐竹が大打撃を受けた事も知っているはずなのにだ。


「あるいは北条は伊達や蘆名と組むのでは」

「両家と組んで北条に何の得もない。佐竹を潰したとしても常陸の半分は北の連中が持って行くし上杉についてもまたしかりだ。だが下手に攻めればそれこそ伊達は勇んで救援とか言う名目で兵を入れて来る。

 ああそうか、だから今は生かさず殺さずにしている訳か……」

「佐竹義宣は」

「人物としては悪くなかろう。どうもあの戦いで父親らを必死に制止したのは彼一人とも言われている。だがその反動で鹿島神宮にこもりっきりになり今では行政は残った家臣任せらしい。まあ、その家臣に慕われているからこそかの謙信公のようにやっていけてるのだろうがな」

「僭越ながら申し上げますが、佐竹はあの霊武者にやられたはずなのに、逆に救われていると」

「そうでもある。北条はどうもまだあの二人が自分たちの敵なのか味方なのか計りかねている所があるからな。まあ、北条は陸奥など見ていなかったからな……」



 現在の佐竹の立場は実に不安定だ。

 一見北条にとって絶好の機会に見えるが、下手に攻めれば佐竹は見栄も外聞もなく北の伊達や蘆名に助けを求める可能性がある。そうなれば陸奥出羽の勢力対北条となり、得をするのは上杉や徳川、と言うか豊臣秀吉だけだ。


 無論そうなる前になぜ動かなかったのかと言う話ではあるが、小田原と人取橋はあまりにも遠く、それ以上に北条の目が向いていなかった。上田にしても徳川と真田の争いだと思い目が向いておらず、結果的に北条はその一件に関して鮮度の高い情報を掴めなかった。

 いくら情報を掴める手勢がいた所で、結局使う人間次第でありその方向次第と言う事だ。その上に下手に世間慣れしていたせいでか動きも鈍くなっており、実力以前の何かに恵まれていないと言うべき結果になってしまったとも言える。


「とは言え北条は!」

「動くかもしれんし動かんかもしれん。北条に大義名分があるとすれば最後の最後まで武田を見放さなかった所だろうが、それとて上杉が勝っている。と言うか上杉は我が徳川よりその点では強いがそれはその際どうでもいい。

 いずれにせよ、北条はとんだ出遅れをかましてくれたものだ。と言うか、まあ勝千代や万千代丸がああならない以上どうにもならなかったろうがな。於義丸もずいぶんと気に入られたらしいからな」


 そして北条には、大義名分が不足していた。

 かつての武田征伐の際に当時同盟を組んでいた北条氏政は、決して武田を裏切る事はしなかった。だがその際の織田・徳川の出兵を邪魔する事もなければ、今川氏真のように向かい入れる事もしなかった。平たく言えば、傍観していたのである。

 織田との対立を避けるためであり仕方がなかったと言えばそれまでだが、武田からしてみれば不誠実である。一方で上杉には信玄の七男がおり、何なら秀吉に頼み込んで「武田家当主」として祀り上げる事も出来なくはない。と言うか、北条への敵対行動への種とする事さえも出来てしまう切り札だった。もっとも上杉にそんな野心などないだろうし自分たち徳川との事もあるから絵空事だが、それでも北条の手を重くするには十分だった。



「まあ、しばらくは業腹だが好きにさせるより他ない。その上でどうするかだ。下がって良いぞ」

「はっ…」

「どうした」


 鷹揚に言葉を放ってみたものの、半蔵は動こうとしない。

 まだ何か伝えたいのかひざまずきながらも視線をさまよわせ、家康を待っている。


「実はその、大変申し訳ございませんが榊原殿の兵が」

「小平太の兵がどうしたと言うのだ」

「いえ、かすかに声を聞いただけであり空耳ではないかと思っていたのですが…故に伝え遅れてしまい大変申し訳ございませぬ」

「何の事だ」

「上田城の戦で聞いていたそうなのです。変な声を」


 そして発言を促すと、榊原康政と言う思いもよらぬ名前をぶつけて来た。二年前に討ち死にした康政の将兵は今家康自ら預かりになっているが、その兵たちと家康はあまり深く関わっていないのが現実だった。


「何と言っていたのだ」

「ライチョウ、と……」




 ライチョウ。




 褐色と純白の羽毛を持った鳥であり、その美しさは後白河天皇が褒め称えたほどでありその手の事に関心のない家康でさえも知っているほどだった。


 確かに甲信の国境の八ヶ岳はライチョウが住まう地だが、なぜいきなりそんな話になるのか。


「ライチョウを見たと申すのか」

「いえ、遠くから聞こえて来ただけであると。ライチョウと言う文字を」

「来襲…快調…まさか来朝でもあるまいな」

 来朝と言うのはそれこそ外国の使者が朝廷に来ると言う意味であり、こんな場所で出る言葉では絶対にない。しかしライチョウの名前を出す事自体、もっとおかしい。

「幻覚でも見たのではないか」

「拙者もそう思ったのですが」


 家康がもっともな事を言うと、半蔵は急に声を太くした。

「まさか…」

 腹の底から声を出し、いかにも呪詛でもかけるような、家康が背筋を伸ばしそうになるほどの狂気を見せる声だった。


「ええ、今のようにその存在を心底憎むが如き恐ろしき呪詛の声だったとの事です」

「ライチョウへの呪詛?まさか食事でも取られたか?」


 家康はおどけて見せたが、実際それぐらい意味が分からない。一体なぜライチョウが呪われねばならないのか。




「先ほど甲州の兵たちと会った所、その声を聞いたと言うのです。

 ライチョウを呪う声を」




 そして、なぜまた今…と言う疑問は、半蔵の言葉により吹っ飛んだ。

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