本多正信、「ライチョウ」を知る
「ライチョウですか?」
「ああ。どうやらあの男は、ライチョウを憎んでいるらしい」
「ライチョウでございますか」
半蔵を下がらせた家康は、すぐ本多正信を呼び付けた。相変わらずの痩身で何を考えているかわからなさそうな風体だが、それでも家康にはどんな武者よりも頼れる存在に見えていた。
だが鷹匠であったとは言え本多正信もまた、鳥の事にはそれほど詳しくもない。それより鳥の餌の方が詳しいだろと陰口を叩かれる程度には貧弱な男を家内で良く言う人間は皆無に近く、比較的まともなのは酒井忠次や大久保忠世と言った年長の家臣ぐらいだ。その上に石川数正と言うもう一人正信より年嵩の重臣がいたがそれがつい先ごろ秀吉に走ってしまったこともあり、正信はさらに孤立していた。
「何を空とぼけておるのだ」
「ライチョウとは、ライチョウなのでしょうか」
「もったいぶるな、早く言え」
「おそらくは符丁か何かだと思います」
符丁。要するに隠語の事だ。
戦場でも武士同士御家同士隠語の一つや二つぐらいあるものだが、それらは仲間うちの結束を確かめたり怪しい者が紛れていた際に使う物でありまるで呪詛のように使う物ではない。かつて武田信玄は僧を戦場に連れ込んで祈祷と言うか呪詛の言葉を投げかけまくった事はあるが、それは相手が仏教への信仰に根差しているからこそ有効でありライチョウとか言われても首をかしげこそすれ脅えは出来ない。
ましてや、敵はたった一人なのだ。
「弥八郎。その符丁を誰に聞かせると言うのだ」
「すみません、つい理屈っぽくなってしまいまして。符丁でないとすれば、本当に呪詛であると思います」
「呪詛だとすると何だ、まさか誰かの諱だと言うのか」
「おそらくは」
諱と言うのは本名の事であり、また「忌み名」にも通じるように他者に知られる事は禁忌であった。諱で呼び付けるのは親かよほど格上かの人間ぐらいであり、それこそ家中でも弥八郎とか小平太とかそういう通称で呼ぶ。万一本名が露見すればそれこそ呪詛の対象となり、そのせいで命を落とすとか言う事になりかねないと本気で信じられていた。
だから諱を連呼するのは身内ですら禁忌であり、もし呼ばれているとすれば情報管理の甘さを指摘される話である。
もし忌み名を連呼する事が許されるとしたら悪戯をした子供を叱る親か、よほど目上の存在か、さもなくば「敵」だった。
「しかしライチョウ、いやらいちょうとか言う名前が存在するのか、僧であってももう少し他に法号があるであろうに」
「あるいは愛憎重なった何かがあるのかもしれませぬ。本当はライチョウではなく忌み名を言ってやりたいのですが、それでも必死にこらえているとか」
「愛憎半ばするゆえに、か……」
本当は思いっきり忌み名を呼んでやりたい。だが、それをやるにはまだ情がある。
わずかな期待を抱き、必死にあがきながらライチョウの名を口から出している。
「それでだ、あの男を正信はどう思っている?」
「あの霊武者は、別に徳川の敵ではないと思います。ただ、織田様とは相容れぬ存在だとは見ております」
「過去の存在だと言う事か」
家康は自分が信長ほど進歩的ではない事を自覚している。
信長はそれこそ外からやってくる全ての物に触れようとし、その上で取捨選択を見極めて来た。だがそれが信長の才覚ありきである事を家康は理解しており、秀吉もまたしかりであった。
と言うか自分の手で時代を切り開く満々の信長や元百姓の秀吉に対し零細とは言え大名上がりの家康は元から保守的であり、源頼朝とか言う四百年前の人間を尊敬している事を公言していた。
かつて信長が同じ場所で物乞いをしている男を見つけ源平合戦のあれがあるから先祖代々とか言い出したのを聞いた時にはその事を言い出した村人を激しく叱責し苛烈であっても自分たちには寛容だと思っていた住民を震え上がらせたと聞いた時には、感心すると同時に震えもしたのが家康だった。
「では東北で暴れ回っている童神とやらも同じだと思うか」
「確かにそうかもしれませぬが、それ以上に遠慮のなさも感じます。南部家を一人で族滅させるなど、あの霊武者でもやりますまい」
「族滅…」
「本当の本当に族滅できたか確実ではありませんが、四百年続いた南部家が統治能力を全く失ってしまった事は間違いない様です」
「そこに伊達が入り領国を拡張していると…」
「ええ。ですが伊達に対しては何とも思っておらず、単に南部を憎んでいただけだと思われます」
これもまた、信長が嫌いそうなやり方だ。
前の統治者を徹底的に叩き潰すと言えば爽快ではあるが、実際それをやれば領国は一気に荒廃する。
信長は百姓一揆を嫌う理由の一つに本来生産活動を行うべき民を兵士として駆り出し生産力を細らせると言う自爆的なやり方が卑怯であると言う持論があり、家康も初めて聞いた時には目から鱗が落ちた思いだった。逆に言えばそこまで追い詰められているとも言えるしそうさせないように民を大事にする必要はあるが、一向一揆などはそうではなく完全に手駒、と言うか人質としての扱いをされていた。
「……総じて言えるのは、いささか古臭い感がありますな」
「古臭いとは」
「武士道と言うより、それこそ野性的な道。生まれたその日から戦いが始まり死ぬその日まで決して戦いを止めないと言う精神です。無論それは今でも変わりませんが、その戦いが文字通りのそれでしかなく四六時中刃傷沙汰になる事を覚悟していると言うべきかもしれません」
やられる前にやっちまえ。
隙を見せたお前が悪い。
貴様は俺を怒らせた。
その考え方そのものは、今でも別に滅んでなどいない。
だが今はそのためにじっくりと準備を整え、決して細かく騒いだりせず一挙に畳み込むやり方を是としている。感情のままに動かず、確実にその感情を処理しその上で手を打つのが大人の戦だった。
「古臭い、か。だが古臭い事と悪しき事は等しくはない。温故知新と言う言葉もあるが、わしはそういう考えの方が好きだ」
「もしお館様が天下を取ったらやはり…」
「ああ。平和の中にも戦を忘れてはならぬ。ただし、敵は人ではないがな」
「敵は…」
「ああ。山に海に野分(台風)、豪雨に火山。それらと自分たちの傲慢と慢心。それらの敵と戦える国が欲しいのだ」
まあそれもまた乱世が終わりかけの時代では十分に古臭くなるかもしれないが、家康の言う通りまだしばらくは命脈を保つ思考ではあったのも事実だった。
そしてその思考のまま、自分自身の傲慢や自然災害と言った敵に立ち向かい続ける国を作りたい。
それが、今の今まで誰にも語っていなかった家康の野望だった。
当然その野望をいの一番に聞かされた正信の顔は真っ赤になり、改めてついて行くぞと決意させるには十分だった。
「しかし、となると甲州は放っておけません」
「だな。まずは喫緊の課題をどうするかだ」
「それで私からなのですが……」
正信は頭を深く下げ、一人の名前を口にした。
その名前に家康は驚き、そして二人だけの会議が始まる。
実に和やかなそれであり、気の置けない友人同士の会話にさえ見える。
それが、家康と正信の関係だった。
※※※※※※
「それがしを甲州にですか」
正信に名前を出された本人は、不機嫌そうな同行者のせいでもないがいささか戸惑っていた。
その同行者こと大久保彦左衛門は不服そうに家康と本多正信を両目でにらみ、納得のいく説明をしないかと迫りそうになっていた。
「過去には、未来で立ち向かわねばならぬ」
家康は二人の疑問を半ば無視するかのように、まだ二十七歳の大将・井伊直政に向かって言い放った。
直政はもちろん甲州の異変を知らない訳ではなかったが、それでもその担当はずっと大久保家の物だった。直政はある意味では気楽に振舞い好き勝手に過ごせていた中での唐突な呼び出しは直政にも大久保家にも予想外だった。
「未来?」
「ああ。あの霊武者はどうやらかつての無念を我々にぶつけようとしているらしい。これを止めるには万千代、そなたの働きが必要だ。それに彦左衛門も万千代と共に戦ってもらいたい」
井伊直政だけでなく、彦左衛門もまだ二十八歳。徳川の次世代を切り開くには十分な年齢である。
「お言葉ですが、それがしの上司は新十郎兄上。その兄上を飛び越しては」
「新十郎にはわし自ら言い含める。とにかくだ、万千代、彦左衛門。その方らの力がどうしても必要なのだ」
「兄上を説き伏せて下さいませ!」
彦左衛門が忠世を通してくれと粘ろうとすると家康自ら頭を下げる物だから彦左衛門も居直ったように叫ぶ事しかできず、こうして大将井伊直政・副将大久保彦左衛門と言う部隊が出来上がった。
「ではそれがしは新十郎様を呼びに行って参ります」
「うむ、頼むぞ弥八郎。
それでだが、なぜ小五郎は駄目なのだ。小五郎なら彦左衛門もすんなりと受けただろうに」
「なりません。小五郎殿だけは絶対に駄目です」
若い力をもって古き因習を打ち破ると言うのならば確かに直政は適任だし、彦左衛門も悪くはない。だが自分の五男の救援である以上、総大将には自分は無理としてもそれに近い存在を置きたかった。自分はさすがに無理だし、息子は秀吉の人質である於義丸でもまだ十五、三男の長丸は九歳で論外だった。
そこで家康は酒井忠次の息子で自分の従兄弟である小五郎こと酒井家次の起用を提案したが、正信は頑固に反対した。
(囮にでもする気ですか、か……弥八郎。わしにはおぬしの推理がまだわからぬ。別に焦ってはおらんが、いずれでいいからいつか教えてはくれんか……)
確たる証拠こそないが、かの霊武者は酒井家次を殺すために身命を賭して向かって来る。
普通でも戦えない相手にそんな事をされたらとか言う理屈を前にして、家康は酒井家次を諦めるしかなくなった。
あの霊武者の秘密がわかるのなら。
そんな誰もが思っている疑問を、家康もまた抱いていた。
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