真田昌幸
「やっぱりな」
信州の上田城にて、そうつぶやきながら腕組みをする男。
家康より三つ下の男は、実に冷静だった。
狸親父とか言われる家康と違い、それなりには勇ましい顔をしている男。
だがその勇ましい顔の下に隠されている脳髄から出るそれがどれほど恐ろしいか、わかっていない人間などここにはいなかった。
「父上。ですが玄播の報告によりますと、予想よりも大軍との事ですが」
「大軍か、七千かと思っていたが八千か、一万か」
「一万にもなるとか」
「そうか、この真田昌幸がそんなにも恐ろしいか、アハハハハ……」
「父上、上杉家に援護を」
「無論だ。だが上杉とて右顧左眄してばかりの真田を本気で助けには来ないだろう。ここである程度の力を見せておかねばならぬ。まあ、一万ではなく七千にはできるだろうがな」
余裕だと言わんばかりに笑う真田昌幸だが、その領国は上田城と上野の沼田城周辺の数万石であり、動員可能兵力はせいぜい二千。しかもその内上田城に注ぎ込めるのは半数よりやや多い数ぐらいであり、それこそ十倍の敵をも相手にする事になる。農民や工人などの民兵を注ぎ込めるとしてもせいぜい三千程度であり、純粋な軍隊の一万と比べるとどう考えても劣勢である。
でも、単に右顧左眄とか言った所で、それなりの力がなければ顧みてくれない。それこそただ乗り換えるだけでは不忠者と言われて切り捨てられるのがオチであり、単独でもできると言う事を見せねばならない。いくら上杉が誠実だとしても、何から何までやってくれるわけでもない。援軍ぐらいは出してくれるだろうが、それでもその援軍が徳川を全部請け負ってくれるわけはない。それこそ徳川の兵の一部を割かせれば重畳ぐらいである。
「信之、敵を攻めるのは難しい。そもそもなぜ攻める必要がある?」
「それは敵を討ち、領国を手に入れるため」
「そうだ。だから百姓一揆は厄介だ。百姓がいなければ領国を手に入れてもしょうがないからな。まあ織田信長と言う人間はそれを承知でやったのだから恐ろしいのだがな」
領土を手に入れた所で、そこで生活をする人間がいなければ何も産み出さない。それこそ無駄にだだっ広い、持てあますだけの場所を持ってしまう事になる。それこそ植民の手間が必要になり、得た以上のそれを失うとか言う馬鹿馬鹿しい事になりかねない。
できれば頭だけ挿げ替える形で成り代わるのが理想であり、そのために皆知恵を絞っている。無論それが絵空事に近いから平民も殺すし鍛えさせているのだが、それでも「兵士」を殺す事に対してはもうさほど良心が痛まなくなっているのも事実だった。
百姓一揆と言うのは一種の焦土戦術であり、なればこそ他国も手を焼いた。織田信長は圧倒的な力をもって叩き潰す事が出来たが、それをやれたのは信長だからである。
「百姓はしたたかだ。我々の統治を鵜の目鷹の目で見定め、不満があればすぐさま叛旗を翻す。いやないとしても、新たな統治者を表向き唯々諾々と迎える。それが得だからな。そして駄目と見ればすぐさま叛旗を翻す」
「そうですね」
「羽柴筑前と言う人間は、そこがわしらとは違う。駄目と思えば平気で逃げられるし、必要とあればいくらでも頭を下げられる。極めて優れた百姓であり、武士とは違う。だがそれゆえに危うきところもある」
昌幸がもしこの戦に勝てば、上杉配下と言う形で秀吉の臣下となるのは間違いない。その秀吉がどの程度の存在なのか、昌幸には信長配下の元百姓とか言う知識しか存在しない。だがそれでもその情報なりには考える事でもできたし、強みだって分析できた。
そして、弱みも。
「百姓に甘いと言う事ですか?」
「違う。自分の目的のためならば手段を択ばぬと言う事だ。今までは天下統一し戦なき世を作ると言う真っ当な目的だからそれでいいが、それがもし間違った方向に使われたらそれこそ元の木阿弥と化す。そして天下人になってしまえばその彼を止められる存在はほとんどいなくなる。もう五十路だから母君はそれ以上だし、奥方の影響力も残念ながら知れている」
「そうなのですか」
「残念ながら筑前殿には子どもがいない。正室にも側室にも。無論それも問題である」
秀吉の妻のおねに男児はおろか女児すらいない事は、おねの力を落としていた。今はむしろ誰もいないからそうでもないが、いずれ誰かが男児を産もう物ならその誰かにいっぺんに権勢が行く可能性がある。それこそ危険であり、その妻と言うか母の才能にゆだねられてしまう危険性があった。
秀吉が寵愛している茶々は信長の姪とか言う血筋がともかく戦を嫌って来た母親だけにそちらに物事を向かせない可能性があり、武士しかいないような国を治める為政者にはなれないかもしれない。かと言っておねのような存在をいまさら見つけ出すなど絶対に不可能である。
「それではまた天下は乱れると」
「だろうな。だが小一郎殿と言う筑前殿の弟がおりこれはかなりの人物だ。その小一郎殿が継げば世は安定するだろうが難しいな。筑前殿が天下を手にするまでもう数年はかかる。その時既に筑前殿は五十代半ば、四つか三つ下の小一郎殿ももう五十代前半。もしその間に男児が出来ようものならば筑前殿はその存在にひどく執着するのは確実。一応甥御がいるらしいがあまり噂を聞かない以上、筑前殿もあまり高く評価していないのだろう」
天下を統一するのと乱世を終わらせるのとは違う。乱世を終わらせると言う事はそれこそこれまで乱れに乱れ切った秩序を正すと言う事であり、戦に勝っていればいいだけのそれとはわけが違う。それこそ優秀な秩序を作り戦をするよりしない方が得だと思わせなければならない。その事に失敗して天下をつかみ損ねたのが後醍醐天皇であり、中国にも始皇帝やら司馬炎やら似たような存在は山と居る。その結果治まりかかった乱世がさらに長引き、五胡十六国時代や南北朝時代のように余計に長引いたり項羽と劉邦の戦いのように誰かに持って行かれたりする。
「ではどうすべきかと」
「まだまだこの真田の右顧左眄は続くと考えるべきだろうな。ま、とりあえずは生き残るしかあるまい。信之、策は練ってあるから安心せい」
「それはそうですが、弟が気になります」
「信繫は我々が徳川と戦う限り問題なかろう」
「いえ、あれは上杉の殿様相手でも噛みつきます。真田とか関係なく、一人の武士として戦いたがります」
とか言った所で、たかが数万石の小大名である真田昌幸にできる事など保身行為がせいぜいだった。とにかく時代が動き終わるまでの間少しでも損害を抑え、勝った方に乗っかって島津や南部よろしく次の時代でも生き残れる家になる事だけが目標だ。大江広元だって、あの鎌倉幕府初期の粛清劇を乗り越えて末裔に毛利とか言う大当たりを遺している。
それにあたり、上杉の協力を得るために次男の信繫を人質にやったのだが、どうも上杉から聞こえて来る信繫の評判は良い、と言うか良すぎる。
尚武の気風の強く誠意を重んずる上杉に気に入られるためではなく素直にそれをやっているのだろうが、少しばかり浮かれ過ぎではないかと言うきらいは抜けない。もしこの戦いで敗北して自信と信之が死ぬ事になれば、真田家の運命はそれこそ信繫一人の肩にかかる事になる。安田信清のように上杉の配下として生きて行くのはいいとしても、そこで死なれてはそれこそ真田自体が終わってしまう。
「決して裏切る事はしませぬと伝えてくれ」
次男坊の気楽さに三男坊のくせに呆れてもみたが、そう思うと世の中の長子とか言う生き物が全て偉大に見えて来る。一人や二人ではない弟や妹を抱え込み、その全てを背負って行かされる存在。いくら親やら祖父母やら叔父伯母やらがいるとしても、より近しい存在として守らねばならぬ運命。そんな運命を背負った存在が弱くなりようもないのは、理屈からして明らかだった。
だが逆に、山と兄やら姉やらがいる弟や妹はどうなるか—————無論親が一人ではないとか言った所でどうしても長幼による差は産まれ、十番目となれば九人も上にいる事になる。あるいは物心付く前に死んでしまい存在を知らない兄姉もいるだろうが、それでも親からしてみれば十番目であり扱いもそれ相応になる。良くも悪くも放っておかれた結果、よく言えば自立心の強い悪く言えば自分勝手な存在になるだろう。
「……家康。わしとてそなたの事を心底から憎んでいる訳でもない。だがこうせねば我々は終わってしまう。お互い様だろう?」
とりあえず長男にいう事を聞かせ、次男の行く末を少しばかり憂えてはみた。だがその次がどうなるかなど、昌幸自身にもわからない。
ましてや、見た事もない男の事など。
「間違いなく武士です。しかしどこか古めかしく、あとやたら足が速く思えました」
「気づかれたのか」
「その様子はございません」
浜松にやっていた忍びから聞かされた、謎の男の話。
徳川方のそれとは思えない、全く不可解な存在。家康についてやって来るのか、浜松に残るのか、それともまたどこかへ行くのか。
だがその様子を探っていた腕利きの忍びが汗だくになりながら報告する時点で、その男が家康かそれ以上の存在である事はわかる。
それがもし味方になってくれればとか言う益体もない妄想を頭の中から追い出すように刀を振り、策も整えてみせる。
その程度には、真田昌幸は冷静だった。
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