徳川家康
ここで、話は三ヶ月ほどさかのぼる。
浜松城にて、徳川家康は爪を噛んでいた。
「殿…」
「弥八郎。信州の連中はどうした。と言うかお前はいつも楽しそうだな」
「そのような事は」
徳川家康・四十三歳は、四つ年上の弥八郎こと本多正信よりもかなり老けて見えた。
本多正信とて若年時に家康に反抗して一揆をおこし数年間諸国流浪を命じられ戻って来てからも武断派の家臣から邪険にされるなど全く楽な人生など送って来なかったが、それでも家康よりは若く見えた。
「ええまあ、信州ですが真田が調子に乗っておりまして、我々に付くとかふた月前には言いながら今では上杉の配下気取りです」
「まったく、信玄公も厄介な存在を遺してくれたものよ。勝頼ではなく昌幸が信玄公の跡目だったら今でも武田は健在であったろうな」
「でも味方にはしたいのでしょう?」
「無理な事を言うな」
徳川家康と言う人間は、それこそ生まれたその時からずっと忍耐の人生を送って来た人間だった。
勇猛だった祖父清康は自身が生まれる八年前に亡くなっており、父広忠は織田と今川の間を右顧左眄せざるを得ない生涯を送ったまま八歳の家康を遺して祖父の下へ向かった。ついでに母も生後一年で生き別れとなり、母子再会できたのは十九になってからである。
それからはほぼ今川家の人質と言うか部下の状態であり、戦国大名どころかただの今川家の武将として生涯を全うするのがせいぜいのはずだった。
で、桶狭間の戦いにて今川義元が亡くなったどさくさ紛れに故郷の岡崎城を取り戻し独立大名を気取ってみたはいいにせよ、所詮は小大名でしかない。西の織田信長と同盟とか言ってみたはいいが、義元を討ち取った信長とでは規模が違いすぎる。平たく言えば盾であり、使い走りであり、部下であった。浅井長政が反旗を翻した際に金ヶ崎から逃げたり、はるか越前の姉川で突っ込んだり、それこそ何にも関係のない所で命を張って来た。結果的に真面目で律義な人物と言う名声とそれなりの武名と経験を得る事も出来たが、それでも母国で待っていた相手はあまりにも過酷だった。
本領となった三河遠江の北の、武田信玄。甲斐源氏の血を引く名家にして大大名である存在。
義元を失い弱り切っていた今川に脆弱だった朝倉、質はそれなりだったが数が伴っていない浅井、元々東国志向で伊豆より西にはさほど関心のない北条氏康まではいいとしても、進行方向がかち合ってしまった武田信玄は本気で来ていた。その頃には北の上杉謙信との戦いもひと段落ついており、今川氏と断交してまで海を求めた信玄は駿河を巡って徳川や北条と激しく争い勝ち取り、その勢いのまま遠江にまで攻めて来た。
その騎馬隊の力はすさまじく、織田信長をして正面切って当たろうとしなかった精鋭中の精鋭部隊。しかも信玄はその部隊を使いこなすほどに老練であり、まだ二十代の家康は浜松城から引き出されて攻撃を受けてしまい、命こそ守ったものの家臣を失い個人的尊厳の破壊もされ、信玄が病により死んでいなければそれこそこの世にいる事さえもできなかったかもしれない。
だから長篠にて信玄の四男の勝頼率いる「武田軍」が完膚なきまでに吹っ飛ばされた時は感動すると共に失望もし、愕然ともした。その後信長共々武田家を完全に滅ぼした時にはなおさらである。
「真田昌幸とか言う男が、信玄の何をどれほど受け継いでいるのか。それこそ信玄の策略のそれを受け継いでいるとしたら数の差など問題にはならん。信玄は元から強者だとか言うなよ、それこそ信濃の山中を延々二十年かけて踏破して来たような男だ、弱者の戦い方が身についていないはずがない」
「あの…」
「わかっている。味方にできればしたいか、だろ?できるかもしれないが、心底から心服させる事が出来る自信がない」
「そうですか…」
本多正信が自分よりはるかに感情の量が少ない事など、家康はとっくに知っている。そして自分がいかに感情過多の人間であり、その感情を抑え込んでいるかも知っている。
その性格を作っているのは自分自身であり、織田信長と羽柴秀吉と言う静と動の違いこそあれど感情豊かな存在であり、それ以上に信玄だった。真田昌幸とか言う元信玄の小姓にその臭いを感じるとか言う非論理的な事を言い出す気もないが、家康はどうにもその男が苦手だった。
「なればこそ、徹底的に叩き潰さねばならぬ。秀吉と向き合うためにも領国は大きければ大きいほど、安定していればいるほど良い。現状だと一万は無理か」
「七千から八千でしょう」
「大将はやはり忠世と忠佐か。ただどうしても気になるのだ、相手は信玄の弟子だからな……」
「鳥居殿では駄目なのですか」
「無論悪くはない。だが元忠ではあの二人と変わらん。誰か一人、もう少し若い将が欲しいのだが」
「では榊原殿ではどうかと」
家康が家督相続したのは、一番早く言えば広忠が亡くなった年だから八歳である。当然年下の家臣など全くおらず、そしてその関係は三十五年も経ったと言うのにちっとも変わらない。家臣団最年長の酒井忠次は叔父と言う事もあり十五も上だし、大久保忠世・忠佐兄弟も鳥居元忠も家康より年上である。
年少となるとそれこそ彼らの子どもや本多忠勝、井伊直政ぐらいしかおらず当然家内での権威も落ちる。本多も井伊も名家ではあるがその事をごり押しする訳にも行かない。
そんな所に出て来た榊原康政と言う名前は、家康にとって絶好のそれだった。
本多忠勝と同い年の榊原康政がその名を売ったのは、それこそ去年。
小牧長久手の戦にて、秀吉を盛大に非難する書状をまき散らしその上で大功をあげた時からだった。
秀吉も秀吉でいったんは派手にキレておきながら康政を気に入っており、ここで康政に功績をあげさせられれば秀吉もますますこちらを無視できなくなる。
「康政の手勢も加われば一万は行くか」
「そうなりますな」
二人だけの会議により、榊原康政の上田城攻略への参加が決まった。
※※※※※※
「それがしも上田城へ向かえと」
「そうじゃ。上田城を落とさねば徳川の信濃の支配は完全とは言えぬ。真田昌幸は上杉の配下として援軍を求めるは必至。敵は真田だけではあるまい」
榊原康政は家康の前にひざまずきながら、その言葉を聞く。
ある意味で油断していた康政の面相は三十八とは思えないほどに愛らしく、それが家康の心を少し和らげる。
「小平太。まさか出番がないと思っておったか?」
「いや、上田城は大久保様で十分かと…」
「かもしれぬ。だがな、なればこそそなたに経験を積ませたい。秀吉は策略家だが図体が大きすぎて小牧長久手では失敗した。そう、失敗しただけだ。
今度の相手である真田昌幸はそんな事などしない。むしろ図体が小さすぎて捉えるのが難しいぐらいだ。だがだからこそ、確実に仕留めねばならぬ。獅子はウサギを狩るにも全力を尽くすとか言うだろう」
その言葉が信玄のそれに似ている事もまた、家康は自覚していた。
五・六分の勝ちは上、八分の勝ちは中、十分の勝ちは下。
確かに五・六分ならもっと頑張らねばと思えるが八分だとこれでいいと満足してしまい、十分だとそれこそ驕りが生まれてしまう。
なればこそ、油断などせずどんなに少数であろうと勝つために自分なりに最善の手を打つ。
それが自分なりのやり方のはずだ。
(まったく、わしは死んだはずの敵と戦っているのか……)
十分の勝ちを追おうとしている自分は、正直馬鹿なのかもしれない。
普通に考えて大久保兄弟や鳥居元忠で十分のはずなのに、それにさらに味方を加えてどうしようと言うのか。三人の自尊心にも関わるし、それ以上に兵を動かすと言うだけでもいろいろ金がかかる。
だがそれでも、武田信玄の虚像を打ち払いたかった。
自分のやり方で、成果を挙げたかった。
本能寺の変が起こってから伊賀を越え逃げ切ったすぐ後、羽柴秀吉による明智光秀討伐の報を聞いた自分がやったのは手近の甲斐を奪う事。それこそ、ありふれた火事場泥棒。その後も信濃へ兵を進めていると言えば体裁はいいが、これまたありふれた侵略行為。特別な事は何もない。
凡事徹底とか気取った所で、三段討ちや中国大返しとか言ったとんでもない真似をして見せた織田信長や羽柴秀吉にはなれない。なる気もないが、ありふれたやり方だけでは二人には勝てないし、それまでの存在と思われてしまう。もし両者に続く存在がまた現れた時、自分は彼らより魅力的で居られるのか。
「わかり申した、全力を尽くします」
その言葉と共に下がって行く康政は実に頼もしく、自分の選択が間違いでないと思わせるには十分なはずだった。
その日の浜松の空は日光こそ乏しいが雨粒の予感は微塵もなく、ただ純白の雲ばかりが広がっている。
純白。
それこそ、自分がある意味ですがっている色。
羽柴秀吉とか言う農民上がりに対して自分の正統性を訴えるための色が、自分を見下ろしている。
その下には、自分自身のための真っ白な旗と、自分が送り出す家臣の白い地に模様の描かれた旗。
その旗が赤く迫る事は避けられないと言う自分の見通しが正しい事を確信しながら、何を迷っているのだとばかり家康は腰を落ち着けた。
そのはるか下に、見慣れぬ一人の男がいる事にも気づかぬまま。
そして、真田にはその男の存在に気付かれている事を知らぬまま。
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