第一章 上田城の戦い
「怪しき少年」
「何をやっているのですか!」
「まさかあそこまでとは…」
当然極まる言葉に、父子して平身低頭するしかなかった。
子どもの方はまだ責任は少しばかり軽く、そのせいもあり背筋を伸ばして口ばかり申し訳ないと言っているような風情だが、父親の方は文字通り小さくなっていた。
その居丈高な息子に向かって母は一冊の本を投げ付けるが、生意気にも受け止めた息子に対し、母親は扇子を突き付ける。
「追い詰められた敵には逃げ道を作れと言うのは兵法の初歩でしょうが!」
「そうですな」
「そうですなとは何です!」
出羽の鬼姫とも呼ばれる、伊達輝宗の妻であり伊達政宗の母である義姫。
浮かれ上がった所を見せてしまった夫と、その原因を作った上に反省もない上に鼻っ柱の強い息子に向けて吠える姿は、本来ならばこの伊達家の最高権力者が誰であるかを示すのに十分だったはずだ。だがそんな雷も、幼少期から浴びて来たような政宗にとっては過ぎ去った遠雷だった。
「だいたい裏切り者、しかも右顧左眄の徒に味方するからいけないのです。裏切るななんて無茶を言う気もありませんが」
「ですからそれはおぼっちゃまの理屈です!弱者はそれこそ右顧左眄せねば生きていけませぬ、一つの陣営として生き抜くなどそれこそ幸運の賜物!一度の裏切りで済むのもまた相当な贅沢です!」
その顔も声も、裏も表もない。
義姫の実家の最上家は一応二百年続く御家だが領国は伊達家の半分程度であり、しかもその大半が義姫の兄の最上義光が当主になってから得たそれでありほとんど成り上がりの御家だった。それこそ伊達家や西の上杉家と言う強力な御家に右顧左眄を繰り返して来たようなそれであり、弱者の気持ちはよくわかっていた。
だいたいの問題として、東北で伊達家らがきゅうきゅうとしている間に世の中は動きまくっている。
陸奥の隣の隣である信濃に大勢力を張っていた武田家が、三年前織田信長に滅ぼされた。
その直後信長が横死したため現在の信濃は北の上杉、東の北条、南の徳川が領有権を巡っている状態だが、現状は失態を犯した徳川や北に構わねばならない北条のせいで上杉がやや優勢だった。
と言うか、上杉が優勢なのは後ろ盾のせいでもある。
羽柴秀吉。
織田信長の家臣であったその男が信長を殺めた明智光秀を討ち取り織田家中の有力者であり輝宗とも通じていた柴田勝家をも凌ぎ、実質織田家の後継者のようにふるまっている。それでも徳川家康には敗れたが、領国の規模が違い過ぎる事もありいずれ膝を屈するしかないだろう。
上杉としては不本意だろうが、その秀吉が後ろ盾となれば徳川も北条もうかつには動けない。元より柴田勝家に押されていた上杉からしてみれば勝家を止めてくれた形になった秀吉にはある程度の借りがあり、それほど強く出られない。
現在秀吉が四国の長宗我部元親を攻めている事など義姫は知らないが、それが制圧されればそれこそ秀吉の敵は九州と関東と東北だけになる。仮に全てが手を組んでも、秀吉の勢力に及ぶとは思えない。
日ノ本六十六か国のうち九州は文字通りの「九州」だし、関東は関八州と言うぐらいだから八か国しかないし、東北とて面積こそ広いが国としては陸奥と出羽の二か国である。単純計算で十九か国、約三割だ。と言うか九州は三国志状態だし関八州とか言っても安房の里見は北条に従っていないし上野は信濃と並ぶ係争地と、とても中央部の大敵に足並み揃えてとか言えるような状況ではない。
「とにかく、我々は勝たねばならぬのです。もしこの伊達を食らおうと言うのならば、こちらが取って食ってやるまでです」
「敵は弱者ではないぞ。それこそ佐竹を始めとした連合軍が、この伊達を揃って食いにかかるぞ」
「佐竹ですか。北条ににらまれているのにまったく無関心でいるような御家に何が出来るのやら」
「佐竹には両方を相手にする力があります。それから佐竹は秀吉とも不仲ではないのですよ」
「は、あの猿男ですか」
ちっともへこたれない政宗に向かって義姫は雷を落とすのをやめながらも水をかけるが、政宗もまた引かない。ついに秀吉と言ってみたが、政宗の面相はむしろ崩れ出す。
「確かにその知能は素晴らしいでしょうな!ですがその軍勢は徳川家に敗れたように天下無敵にあらず。ましてや尾張とか言う温暖な地で生まれ育った存在が果たしてこの東北の地でやれましょうか!」
「馬鹿者!東北とて常に雪がある訳ではない!ましてや秀吉の力になびく東北の諸侯がおらぬと思っているのか!上杉すらも秀吉にすり寄っている事を忘れたのか!」
「もう良いではないか義よ。
政宗、力なくしては何も守れぬのがこの時代だ。そのために力を付けるのは悪い事ではない。だが急速に膨れ上がったそれは急速にしぼむ。わしはそれに気づかなんだがゆえにあのような醜態をさらした。それが何も自分たちだけでない事を忘れるな」
「あまりにも急にしぼませ過ぎたのがまずかったと」
「ああ。そういう事だ」
「申し訳ございませぬ…」
「いい加減にせい!」
そんな政宗が重い口を開いた輝宗の言葉で急にしおらしくなったものだから、義姫はなおさら不機嫌になり扇子で頭を叩き据えようとしたがまた避けられた。
「……これほどまでの存在でなくば、この時代は生き残れぬのだろうな」
敗北宣言としか言いようのない言葉を吐き捨て、義姫はこの父子には付き合いきれないとばかりに腰を上げた。
残された父子はもう終わったかと言わんばかりに腰を上げ、実際我が物である米沢城を我が物顔に歩き出した。
※※※※※※
「あれだからよろしいのです、とか言わんだろうな」
「申し上げますが」
義姫は、さらに不貞腐れるしかなかった。
政宗の叔父であの事件の時に一緒にいたはずの留守政景が、政宗を肯定している。
破天荒とか言うより、ただの無謀。無警戒すぎる夫。
そんな二人を止めてくれるような存在がいないこの家がどうなるのか。
そんな事を考えながらため息を吐いた先には、ただ一人自分を癒してくれそうな存在がいた。
「小次郎」
「母上」
伊達小次郎政道、政宗の一つ下の弟。織田信長と信行の事を知っているから大っぴらには出来ないが、この真面目な優等生の弟が長男ならばどれだけ吠えなくても済むかと考えた事は二度や三度ではない。
元々兄とはそれほど仲が悪くない弟がここにいる事に対しても、政宗も輝宗も面白くない事は知っている。それこそ南の大勢力である蘆名家の当主として送り込み、伊達蘆名連合と言う名の大勢力として今頃は君臨しているつもりだったのだろう、無論その事を非難する気もないが、それでも浮かれ上がりすぎだと言う懸念は消えようがない。
「何をやっているのです」
「絵を描いていたのです」
「絵?」
「父上を救ってくれた童子の絵です」
そんな可愛い息子が描いているのが、謎の童子だった。
夫を人質にした畠山義継と言う名の窮鼠を、猫を嚙む前にバラバラにしたとか言う童子。
「まさかそこに」
「母上、私は叔父上から聞いたのです。あっという間に畠山軍をみじん切りにし、父上を救った童子の存在を。ああ、今描き上がった所です」
「そうですか……」
義姫は、その童子の存在を気にかけたくなかった。
あまりにも、都合が良すぎる。
そんなやり方で勝ってしまっては、慢心を呼ぶ。
本当ならばやめなさいと言いたいが、それでもそんな思考をもたらすような存在がどんなのかは把握しておく必要がある。
「政景、出来の方は」
「素晴らしいですね」
「世辞は要らん」
「世辞ではございません」
政景がべた褒めする絵に描かれていた、童子。
やけに勇ましい面相をした、生きているかのような、童子。
まるで見て来たかのように描かれている、童子。
「まがまがしい!」
「奥方様!」
「母上!」
義姫が抱いた感情は、その一言で言い表せた。
息子と義兄弟に悲鳴を上げられても、他に何と言えば良いかわからなかった。
「見た所三つほどではないか!そんな童子が戦場同然の場所を駆け回り、数十の敵を一刀のもとに斬り捨てたと申すのか!」
「申します」
「まったく、百人単位で幻想を見た訳でもあるまいが……!」
ごもっともな理屈を並べても、政景はちっとも動じないし小次郎は自分が描いた絵ばかり見ている。
「母上はこの者を称賛したくないのですか、父上を救ってくれた!」
「したいわ!だがうかつにすればそれこそ増長を招く!かの者は良くも悪くも神でしかない!人外でしかない!」
「あのような奇跡は二度と起きぬと、ですが一度起きたのです!それで十分だと私は考えます!」
理屈で押し込めにかかるが、小次郎も折れない。
しかも当てにするわけではなく、あくまでも地に足のついた事を言っている。
「…兄は好きか」
「無論でございます」
「ならいい…」
確かにこの集団を引っ張るには、政宗の方がいいかもしれない。
しかし政道のような人間がいなくては、それこそ暴走に暴走を続けいずれ崩壊してしまう。
その役目を鬼庭良直や片倉小十郎景綱に任せていない訳でもないが、それでも息子の言葉に安心もし、声も小さくする事が出来た。
出羽の鬼姫も角を引っ込め、ようやく人間に戻れていた。
「申し上げます、信濃での戦の続報が入りました」
その報告が息子に来るまでの、ほんのわずかな間であったが。
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