大久保兄弟と榊原康政と

「殿も用心深い……」

「まあ、そこが殿なのですが」


 信州の山中を行く大久保忠世は、苦笑を浮かべていた。


 七千の兵たちの総大将であったはずなのに、いつの間にか一万の軍の総大将になっていた。

 弟の忠佐に主君らしいと言われてうなずいてはみせるが、それでも唐突な追加の兵隊に戸惑いもしていた。


 敵の数は多くて二千、それに民兵が加わったとしても四千程度。そんな存在を相手にするのに七千どころか一万も投入するなど慎重と言うか気弱ではないか。

 

 確かに信濃と言う場所は、三河や遠江と比べるとかなり山深い。もっとも三河も遠江も北の信濃の国境ともなると相当に山深く、武田が滅ぶまでは完全に徳川が把握していたと言えるかどうか疑わしい状況でもあった。大久保と言うのはそれこそ三河岡崎の時代からの家臣であるため山の戦いには全く疎く、先導は甲州で雇ったような人間に任せている。

 無論岡崎にも山はあるし、遠江や駿河からはかの富士山も見える。

 だが、この信濃の山は違う。甲斐とさえ違う。甲斐には相模と言う、北条の本拠小田原城を擁する巨大な隣国があった。だが信濃にあるのは、せいぜい重みこそあれど歴史の浅い岐阜城ぐらい。それも甲州からはかなり遠くであり、およそ「信濃の隣」と言う間隔は薄い。


 だいたい、信濃の国は甲斐の三倍はある。三河遠江駿河を合わせても大体同じぐらいであり、信玄が攻略に二十年かかりその上で海もないのに北条や今川、上杉に織田、そして自分たち徳川と互角以上にわたり合って来たのがわかる気にもさせられる。




「兄上!」

「おいどうした彦左衛門!」


 そんな兄弟仲良くしている所に割り込んで来た、二十代半ばの男。五十路の二人を父でも叔父でもなく兄上と呼ぶその男は、その年の割に随分といかつい面相をしていた。


「単純につまらないので」

「つまらないも何もあるか!」

「それは、忠隣殿がやらせて欲しいと言いましたので、嘘ではございませんぞ!」

 そのくせ言う事は実に子どもっぽく、それでいて筋は通している。

 忠世の長男の忠隣もこの戦に出て来ていたが、三十と言う事もあり今回は後方に回していた。それでもこの辺りで一つ背伸びしたいと考えたのかと死したとは言え監視役のはずの叔父に無理を言い、後方の一部隊を掌握したのだ。

「忠隣め…まあいい、もうあいつもいい年だ。この辺りでいい加減兵の使い方を学ぶべきだな」

 完全に人選を失敗した格好であるが、忠世は笑って聞き流す。無論戦の後にはそれなりに説教してやるつもりでいるが、そこまではこれでいい。


 あとは—————。


「で、だ。彦左。つまらないとは何だつまらないとは」

「いえね、兵たちが変な噂を耳にしてまして」

「何だ」

「何でも、浜松に変な武士がいるとか、それが付いて来ているとか……無論それがしもきちんと確かめたんですよ、でもそんな奴はいないんです」

「なるほどな」



 変な侍がいる—————。なるほど、実につまらない噂だった。


「そんな事を言いに来たのか」

「いえ、兵たちがその噂で持ち切りなもんで付き合いきれなくて。ま、一応怒鳴ってはみたんですが」

「忠隣は大丈夫なのか」

「みだりにその事を口にすれば斬るとの事で」


 妖言に惑わされない姿勢こそ、大久保のそれだ。


 その弟の姿勢が、兄弟には愛おしかった。



※※※※※※




「榊原殿は京や堺をどの程度ご覧になりましたか」

「一応、あの伊賀越えには同行もした程度には入り浸っておりました。田舎者そのものであるそれがしから見ても、あそこは別世界でした」

「ずいぶんとありきたりですな」



 で、いきなり追加の援軍としてやって来た榊原康政はと言うと、石部金吉で有名なはずの鳥居元忠にずいぶんと軽い言葉をかけられていた。康政をしてずいぶんと意外なお話であり、急な任務を申し付けられた康政の気持ちも少しは和んでいた。

「鳥居殿は非常に生真面目と言う評判がありますが」

「何、それは徳川を害せんとする者に対してのみ。榊原殿のような徳川の旗の下に同じくする存在に対してはそれなりにやわらかいつもりでござる」

 元忠も、そう思われている事はそれなりに気にしていた。強右衛門とか言う忠義の士の鑑のような男が同姓にいたからと言う訳でもないが、常に真面目で家康の敵を倒す事しか頭にないと言われるのは少しばかり心外だった。


「殿の事を慎重すぎるとか言う人間もいるが、それがしはそれが良いと思っている。だいたい戦など何が起こるかわからぬもの。そうでなければ面白くもないし、まず戦など起きようもない。勝敗があらかじめわかっていれば誰も戦などしないからな。まあ今回も額面上では七千と千二百、されど敵は策士でありかつ民兵とやらまで注ぎ込める。そんな不確実性のあふれた戦いを確実に物にする、うむ殿は実に素晴らしいお方よ!この信州全土に葵紋の旗が立つ日も時間の問題であろうな!」

「ですね…」


 ……もっとも、その盛り上がり方と言うか浮かれ上がり方が家康自慢なのもまた事実であり、その点が主君一筋となり堅苦しい鳥居元忠像を作っているのかと思うと笑えもした。

 元忠はこの時四十七であり、忠世よりは年下だが家康より四つ上、康政よりは九つも上。四十七にしては感情過多かもしれなかったが、それでもそんな人間が山と居るのが徳川家だった。

 数と力が同じ時、勝敗を分けるのは何か。それは兵たちの忠義心であり、士気だ。少なくともその点については徳川は優秀なそれである事は小牧長久手にて満天下に証明されており、徳川に勝つとしたらそれこそあの時の羽柴軍以上の力で押し潰すか他の搦め手を使うかしかないとまで言われている。


「とは言えこの山中ではある、街道こそあれど我々の知らぬ山道からいつ何時攻撃が来るかわかりませぬからな、まあ今は少しばかりのほほんとしていても平気でしょうがな」


 そして、鳥居元忠は間違いなく徳川の将だった。


 真田が今回狙うのはどう考えても後者であり、例え戦力からほど遠かろうと何らかのちょっかいを出して来ないとは限らない。兵を一人でも減らせば士気を落とせるし、無駄に神経をすり減らす事もできる。いや、そう警戒させるだけでも目的は達成されているとも言える。


「そう言えば鳥居殿、変な噂をお耳に入れた事はございますが」

「どんなです」

「浜松城下に、奇妙な武者がいるとか言う」

 負けじと康政も渋面を作って見せるが、口から出た言葉は正直間抜けだった。


 奇妙な武者。


 そうとしか言いようがない、存在。


「奇妙な武者?」

「ええ。ある者は美青年であったとか、ある者は音もなく走っていたとか、ある者はただ東を恨めしげに眺めていたとか」

「馬鹿馬鹿しい。全部別人じゃないんですか」

「それがしもそう思い、殿の耳に入れておりません」

「それが賢明ですな」

「まあ、真田も必死なのです」


 無論鳥居元忠は、そんな間抜けな話に耳を貸しはしない。康政自身も特にどうとか思う訳ではなく、兵たちがやたら騒ぐから少しばかり気にしてみただけに過ぎない。


 —————真田も、必死なのだろう。


 あるいは上杉に付くと決めた時から間者でも送り込んで噂を流し、こちらの士気を落とそうとしたのだろうか。だとしたら厄介とか面倒とか言うより、健気だった。無論風魔とか言うもっと厄介な存在を考えなかった訳でもないが、風魔がそれをやって何の得があるのか。

 と言うかその噂が浮き上がり出したの自体、ここ一か月余りである。それこそ、真田が反旗を翻した時期と近いではないか。


(虚説を流すにしてももう少しあるだろう。その侍とやらが人を斬ったとか言うのならばまだしも、実際の犠牲者など一人もいやしない。幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言ったものだ)


 康政は、信長ほど迷信に捕らわれない人間でもない。

 家康の真面目さをきっちり受け継いだような人間であり、戦の前の不安を消す事には人並みに熱心だった。実際に今回も打ちアワビ・勝栗・昆布の三点を食べてから出陣もした。

 だがだからと言って、なぜそんな訳の分からない存在を、しかももし仮に全部別人だとしても十人足らずの存在を警戒せねばならないのか?


 暗殺?馬鹿馬鹿しい。略奪?もっと馬鹿馬鹿しい。

 そんな事を家康が見逃すはずがないし、それこそ家康を討とうなどあらゆる意味でもってのほかだ。暗殺とか簡単に言うが、そんな事が出来る忍びなどいない事は服部半蔵から聞かされて知っている。その時までたやすく忍び込んで敵将の首をたやすく取れるとか安易に考えていた自分が情けなく、今では笑い話にもなっていた。

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