幼き神の存在
「石川殿に続き、白川様、討ち死に!」
「白川軍は全面後退です!」
「ああ、ああ、ああ!」
金上盛備はもう、何も聞きたくなかった。
ついさっきまででたらめだと思っていた話にどんどんと尾ひれどころか背びれも胸びれもくっつき、さらに口まで付いて太りまくっている。
あまつさえ
「伊達軍が急速に押し返しております!」
と来ている。
そんな肥大しきった虚報にすがり付くように、敵が迫って来る。どうしたらたかが一人の童子が、石川昭光と白川義広を討てるのか。
顧みるだけ無駄と言うべきお話に触れることなく、自分がすべき事をすればいい。それの何が悪いと言うのか。
「伊達政宗め!ついに気が触れたか!」
盛備にはもはや、他に何も言える事はなかった。一体何がどうすれば勝ちを信じる事が出来るのか、ないはずの物が見えてしまっているのか、精神異常者と言うか何と言うか、やけっぱちになってしまった存在を相手にする自分がつくづく嫌になる。
いや、それでもやらねばならないのが大人と言う物だ。せいぜい丁重に、それでいて熱量をもって相手してやるのが礼節であろう。
「惜しいかな伊達政宗!せめてその最期、この金上盛備が見届けよう!」
そう大人のつもりでいた盛備であったが、同調する声はない。
まあいい皆疲労しているのだろうと思ってふと周りを見渡すと、本当に兵がいなかった。
「どうした!伊達の猛攻はここまですさまじいのか!」
そんな事を言い出した盛備が向いた方向に、多くの蘆名軍の兵が向かっていた。
そう、今日ほぼ初めて後ろを向いた盛備の、目線の先に。
「何をやっている!」
誰も何も答えない。
それより自分たちの都合が優先だとばかりに走り出し、盛備の存在など顧みない。
まるで、あの虚言に踊らされるかのように、皆動いている。
「馬鹿野郎…」
それ以上の言葉を、盛備は言えなかった。
呆れるほど力なく、憤りと言うには怒りの感情もなく、諦めとか言うには覚悟が足りない口調で吐き出したそれ以上の言葉を。
まるで、何らかの幻術にかかっているような。
人取橋という空間全体が、その幻術士に支配された別世界であるかのような感覚。
自分たちだけが正常で、世界が狂っている。
いや、自分たちだけがおかしいのか。
あるいは全部おかしいのか。
夢か幻か、これまでの思い出が一挙に襲い掛かる。
そしてそれが世に言う走馬灯と言う物である事に盛備が気付いたのは、必死に現世とのつながりと生きる気力を取り戻すべく刃を振ったにも関わらず五本の槍を弾き返せなかった痛みを感じた時であり、そしてそれが彼にとって最後の思い出となった。
全く期せずして白川義広と同じような形で、彼は不帰の旅人となったのである。
※※※※※※
「どうなっているのだ!」
養子の首が飛んでからしばらく、と言っても数秒の間笑いの発作が治まっていなかった白川義親が笑い終わるだけ笑い終わってようやく義広の死に気付き、そして義広を殺した下手人の不在に気付くまでの間に、白川軍は石川軍以上に壊れていた。
ようやく一軍の将らしく吠えた所で、答える人間はいない。唐突な主の息子の死に立ち向かって行った兵は少なく、残る兵たちのうち半分は恐怖に負けて散らばるか気を失い、半分は目の前の主のありえない振る舞いに失望していた。
だから、この時彼の周りにいたのは義親の同類項である百名ほどだけであり、その彼らもまた同じように今になってあわてふためいていた。
「と、とにかく若君様を討った奴を!」
「でもこの兵数では!」
「どこに行ったか分かりません!」
「なんだ、なんだって言うんだ、よ………………!」
そして彼らの体から、いつの間にか血が流れ出していた。
別に自決した訳ではない。
「もういい!我らは伊達に下る!」
降伏に当たり手土産を稼ごうとした兵たち———先ほどの振る舞いで主を見限った兵たちにより、白川軍親衛隊とでも言うべき存在は次々と戒名を求める身となる。
さらに薄っぺらな防備を破った兵たちは笑い死にとでも言うべき結末をたどった息子を見捨てた父親へと刃を向け、一文字も言わせないままに殺した。
だがそれでも、義親は義広よりは幸せだった。
主の仇を取ると言って走り出した存在にも、伊達軍に投降を図った存在にも、もちろん恐怖に負けて逃げ出した兵たちにも顧みられなかった義広よりは。
そして後になってようやく目を覚ました兵たちにより首を包まれた時には、また別の事態が発生していたのである。
※※※※※※
「……」
二階堂軍は、何も言わない。
と言うか、誰も何も言いたくなかった。
ただひたすらに、伊達軍に背中を向けて逃げ出している。たまにそうしない人間がいたとしたら、後ろの方をちらちら向いているからだ。
(百里を行く者は九十里を半ばとすとか言うが、九十九里まで行ってなお半ばですらなかったと言うのか……。
と言うか、尼御台様に何とおっしゃればよいのか……)
あと一歩のところで、戦勝という結果を得られるはずだった。蘆名軍の強引な攻めと自分たちの横撃により伊達軍の包囲網は破壊され、四散した連中を叩きまくるだけの簡単な戦のはずだった。
それなのに、たった一人の存在で全てが壊れた。
阿南姫が何と言うかはわからないが、それでも今一番大事なのは自分たちの命だった。命あっての物種。伊達に下るにせよ下らないにせよ、戦力がなくなっては元も子もない。幸い伊達軍の標的は蘆名であり自分たちはさほど攻められていないが、それでも気分的には最低だった。
金上盛備さえも、壊れてしまうほどの破壊力を持った存在。自分たちだって石川昭光や白川義広が簡単に死ぬなど予想もしなかったが、かと言って現実に起きてしまった以上目を背ける事など出来ない。何より、蘆名軍のそれほど雄弁な証拠もない。
金上盛備の息子、盛実による全面撤退とでも言うべき兵の動き。
表向きには亀王丸様をどうとか言っているが、どう見ても盛備を見捨てたそれである事は否定できない。
と言うか、何人の将兵を見捨てたと言えるだろうか。自分たちから視線が外れている以上伊達の敵は蘆名なのは明白であり、逃げ切れなかった存在は次々と伊達の牙にかかっている。
いや、追われもしないのに牙にかかっていた存在もいた事を思えば、自分たちも十分に貴重な存在だった。
※※※※※※
「全面撤退して下されと……」
「言われんでもわかっておるわ!」
佐竹義重は、伝令に向かって吐き捨てるように叫んだ。
自分が出るまでもないと思っていたはずの勝ち戦が、ほとんど一瞬にしてとんでもない大惨敗となってしまった。
まさか義宣がその事を分かっていた訳でもあるまいが、石川昭光が死んだころにはすでに撤退要請を出して来ていた。
義宣は、わかっていたとでも言うのか。
あの上田を騒がせた男が、ここにも来るのだと。
なぜ言わないのだとか言うこの世で一番かもしれないほどに野暮な言葉を口にする気もないが、仮にいたとしてどうすればよかったのぐらいは聞きたい。それこそ逃げるしかないとでも言うのか。と言うかなぜ伊達の味方をするのか、その答えさえも持っていないだろうくせに。
「蘆名軍ももはや使い物にならず、何より大事な亀王丸様を守って逃げ出しているような状態で……」
「戦場に童子を連れて来るな」
まともな言葉のはずなのに実に空しく感じる。伊達が連れ込んだのかは知らないが自分たちに敵対している三歳の童子は呆れるほどに莫大な戦果を挙げたと言うのに、蘆名の童子は何をやっているのか。
「しかし義広め…その首級ぐらいは」
「幸いこちらに向かってはいるようですが」
石川昭光と息子の義広を斬り、蘆名軍と二階堂軍を退却に追い込み、そしてこの佐竹をも犯そうとしている存在。
いったい何の目的があって、何のために動いているのか。
義重の愛馬もわずかに鳴き、撤退を決め込もうとした主人をなぐさめる。
「尻尾を巻けと言うのか。たった一人の童子に」
「ええ…」
「武士とは、一体何なのだ。戦うためにいるのが、武士ではないのか。もし仮に、その男がまだ、上田に出たとか言う男だったなら……」
二十歳をやや過ぎた、美青年。
それぐらいの人間ならばまだ、格好も付いた。
だが自分をここまで追い詰めているのは、三歳児ほどの背丈の人間。
忍びとか言う現実逃避をするための現実的な選択肢すら踏みにじった、全ての尊厳を破壊するような存在。
「全軍撤退だ!」
義重は、ようやくその言葉を口に出来た。
「ライ…チョウ…」
「何が雷鳥だ………!」
——————————その時には既に、義重の視界に童子が入り込んでいたのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます