大久保兄弟の失態

「バカも休み休み言え!」


 鳥居元忠のごもっともな言葉に対しても、いいえ見ましたと言う返答が百人単位で返って来る。



 上田城と神川の距離があるとは言え上田城の天守閣より高く飛んだ人間の存在を目の当たりにした人間は山とおり、ただでさえ信之・昌幸軍に押されて上田城から追い払われた鳥居・忠佐軍には余計に大打撃になった。


 そして真田軍はちっとも動揺せず、こちらに迫って来る。


「真田はとんでもない幻術を使うんですよ!」

「真面目に物を言わんか!」

「じゃあなんで真田は平気なんですかぁ!」


 これまで押されながらも抵抗していた兵たちが崩れ、後ろを向いて騒ぎ出す。大将を守らねばとか言い訳をわめく姿は実に見苦しく、そしてみっともない。だが実際に彼らが叫ぶように同じとんでもない存在を見ているはずの真田は平然と前進しており、こちらの命を奪おうとしている。

「鳥居殿、兵たちがこれでは戦にも何にもならぬ!」

「ああくそ!真田め、今の内に喜んでおけ!」

 

 忠佐まで匙を投げてしまった以上、元忠には他に選択肢はなかった。


 兵たちと同じぐらい聞き苦しい捨て台詞を吐き捨て、背中を向けて逃げるそれは敗軍の将以外の何でもなかった。


「もうこうなったら命より大事な物はない!みっともなくわめけ!」

「ですが!」

「うるさい!」

「うわあああああ!もうダメだぁ!おしまいだぁ!」


 それでも万が一の夢を見る元忠の指示に理性の残っていた兵は従い、泣き声を上げる。

(浮かれろ、浮かれろ……!そして昌幸でも信之でも矢面に出て来てくれれば大逆転勝利だ…!)

 その元忠の夢をどれだけの徳川軍の人間が理解していたかはわからない。


「決して暴走するな!川まで追い落とせば良し!」


 内心ニヤリと言う風情になった元忠に対し、真田軍の追撃はぬるい。先頭の信之軍も敵兵の数を減らす事ばかりに集中して忠佐や元忠を追おうとせず、昌幸もまた敗残兵の掃討に励むばかりだった。

 神川ではなく、蛭沢川までだと言うのか。確かにその程度ならば深追いとは言えないだろうし、いつでも戻る事もできる。

「おいこら!敵将はこんな時でさえも前に出て来ないのか!」

 元忠のやけくそな挑発さえも聞き流される。親子して後方でぬくぬくと部下たちに虐殺をさせるなど何と言うご身分だとか粋がろうにも、自分だってそうではなかったかとなってしまう。

 自分の言葉通りに泣きわめく兵たちを引き連れ、蛭沢川を越える元忠の姿は、とても小さくなっていた。


「追って来ません…」

「ああもう、どこまでも気の弱い奴らだ…!」


 目一杯の強がりを吐く元忠の目から、赤い涙がこぼれていた。

 どうしてこんな事になったのか。自分が負けたのはともかく、なぜあんなありえない存在のせいで兵たちの心が乱れたのか。

 悔し涙を通り越した血の涙を流しながら、元忠は馬を飛ばした。




 —————真田がこうもうまく行っているのは昌幸が情報を掴み、万が一のことがあっても決して乱れぬようにと五回以上末端の兵士にまで言い聞かせていたからと言う何とも泥臭い理由に過ぎない事など、知らないまま。


 


※※※※※※




 副将と弟の絶望を引き取ってしまったかのように、忠世の顔からも血の気が引いていた。


「大将!」

「あ、ああ…とにかくだ、逃げるよりない、いやこの調子では忠佐や鳥居殿も危ないからもう少し残って…」

「私が残ります!お逃げください!」


 彦左衛門の必死の言葉によりかろうじて南に駒を走らせるが、付いて来る人間はわずかだ。

 しかもその先に待つのは、おそらくはあの男。

 兄上とか言うプライベートなそれではなく大将と呼ばわるほどに理性を残していた弟に負けじと必死に大将たろうとしようにも、兵が全然足りないしその兵の士気もない。一応装束の乱れはわずかだがそんな物はなぐさめにも何にもならない。


 将としての尊厳さえも、たった一人の、いや一人かどうかさえわからない男にはぎ取られるた。

 それは何も大久保忠世だけではなく、彦左衛門も他の兵たちもだ。

 

 見た目こそ自分たちと大差ないが極めて優れた剣術、これだけの人数を前にしてちっともひるまない勇気、とても人間のそれとは思えない身体能力、そして何より、こちらの攻撃が全く通らない事。

 味方ならば頼もしい事この上ないが敵になってしまった以上ただただ恐怖でしかない、いや味方だとしても恐ろしい。

 修練とか言うそれでたどりつける範疇を越えてしまった存在。


 忍びか。真田忍びなのか。

 そんなごもっともな答えを呆れるほど冷静な真田軍から求めようにも、敵将も兵も実に機械的に活動し、敵であるこちらの疑問には答えない。それが現実の裏付けをとかなったとしても、それは真田がそんな文字通り一騎当千の存在を抱え込んでいると言うなお恐ろしい現実を証明するだけでしかない。

 なぜそんな存在がいるのに、真田が最後まで尽くしていたはずの武田が滅んだのか。あるいはその後その存在が現れたとしても、なぜそれをもっと早く振りかざさなかったのか。そんなまったく益体のない発想ばかりが将兵たちの頭を支配する。もう立ち直れない兵も出てくるかもしれない。


 そんな絶望の二文字しかない戦の中で、大久保忠世の頭の中から一人の男の名前が消えていた。

 残っていたかもしれない大久保彦左衛門は既に遠くであり、矢沢軍さえも気にしていなかった事と同じように、消えていた。




※※※※※※




「そんな馬鹿な」

 その言葉を飲み込めただけでも、榊原康政はただ者ではなかった。


 そして戦況不利を悟るやすぐさま逃げ出せるほどには、一流だった。


「大久保様は!」

「どうせ真田に一気呵成に攻めかかる余裕も意味もない!真田は上田城を奪われなければそれでいい!」


 真田の野心の程度をも、康政は見切っていた。この勢いがあったとしてもどこまでやれるのか、せいぜいこの神川までだと見ていた。

「真田め、何もかも完璧だったと言う事か……だがこちらも既に用意は整っている……!」


 今更勝つ事などできない。だがこれ以上無駄に打撃を受ける意味も、真田にこちらを殴り付ける力もない。上杉もおそらくは間に合わないし、間に合ったとしても来ないだろう。

 家康だってそうだ、どんなに苦難に陥ろうとも立ち直って来た。その家康をよく知る、自分や家康よりも年嵩の家臣ならばきっと切り抜けられる。

「退くぞ!真田にもはや余力なし!」

「ちょっと!」

 榊原康政は、純粋な信仰とともに、逃げた。

 大久保忠世の危機を伝えに来た兵士たちの制止も聞かず、残っていた兵たちと共に南を目指す。


「ちょっとも何もない!大久保様達ならばきっと逃げ切れる!」

「ですが!」

「わき目も振らず走れ!」


 謎の武者には康政も無論気付いている。確かに高く飛ぶことはできるし足の速さも桁外れだ。だがそれでも、忠世や彦左衛門を進んで襲ってはいない。

 本当に真田の手の者かはさておき、それもまた真田の狙いと合致している。



「ああっ、来ました!」

「後ろに構うな!」


 見て見ぬふりではなく、本当に気に留めない。決して現実逃避ではない。

 その強さが、榊原康政にはあった。


「見ろ、上り藤の旗だ!」


 そんな事を言う余裕がある程度、大久保忠世が無事逃げ切りそうな事実に安堵する程度には、康政は強かった。

 車源氏の旗が風になびき、次世代の存在である康政を祝福する。




「水です!」

「ままよ!」




 その勢いのまま、康政は真田の策を挫いた。


 神川の氾濫を狙った真田忍びが動く前に、康政は大久保忠世共々神川を乗り越えた。

 幸い溺死者もまともになく、康政も忠世も逃げきれたと言って差し支えない。


「大将様に伝えよ、拙者はこのまま細くなっている部分を探し皆様をそこに誘導すると!」

 いくら兵が四散していても、もはや真田に攻撃力はない以上もう安全だろう。

 そして謎の武者が来ると言うのならば、この川を越えてみろとも思う。


 それこそ、千曲川よりはましな太さの川を飛び越えて来るのならばそれこそ面白い。

 大久保忠世らの心を叩き折った刃とやらを——————————


「榊原殿!」

「何だ!」




 その気になっていた康政の視界に入った、羽織袴の侍。


 増水した神川の前に足を踏み込むと飛び上がるでもなく、止まりさえもせず、走り続ける。


 それだけで、榊原康政の心をも破壊した。







「水を!?」







 神川を、越えて来た。




 蛭沢川と言う小川ではなく、その数倍は川幅があるはずの神川を、馬も使わずに走って追いかけて来た。

 右足が沈む前に左足を前に出し、その左足が沈む前に右足をまた前に出せば沈まないとか言うトンチキな暴論が、今ここで現実となっている。


 …しかも、濡れていない。




「ああああああああああああああああああああああ!!」

「ば、ば、ば、化け物だぁ!!」

「助けてくれええええええええええええ!!」




 これまで耐えていた榊原軍は、一瞬で崩壊した。


「どうしても、どうしてもこの榊原と徳川を貶めんと欲するか!」

「……ズカ……ドコ……」



 整然とした退却から脱兎のごとく逃げ惑い出した榊原軍の中で、ただ一人闘志を失わない男、榊原康政。


 その康政の姿を見とめたと思しき謎の武者から、ついに音声が出た。




 ズカ。塚か、束か。

 ドコ。間違いなく何処。



 いったい何が言いたいのか。


 無論そんな事など気にする意味などないとばかりに康政は刃を構える。


 凄まじいまでの速度。ならばこちらも合わせてやるまで!




「さあ来い!」

「……………………エセ!」




 そんな康政の尊厳を、かなりの力で踏みにじる二文字の言葉。




「バカな…私は、偽物だとでも言うのか…………!」




 康政は、他に何も言えなかった。




 似非と言う烙印を拭い去る機会を永遠に奪われたまま、胸に出来た傷から流れる血の海へ沈み、そのまま二度と浮かんで来る事はなかった。




 そして謎の武者も返り血一つ浴びないまま、東の方へと走り去った。




 それを追う気のある人間など、もう徳川方にも真田方にも一人もいなかった。






 結局、この戦で徳川軍は榊原康政以下千二百名の死者とその一.五倍の負傷者と、三千以上の心的外傷者を生んでしまった。


 一方で真田の死者は二十人、民兵まで入れても四十人程度であるから、歴史的大勝利であり、屈辱的な大惨敗であった。




 とにかくこの一件をきっかけに、「戦国大名」真田昌幸はその座を確立したのである。

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