たった一人の標的
「どうした!」
矢沢頼綱の叫び声と共に、大久保忠世の軍勢が乱れる。
無論半ばはったりだが、それでもこの場ではそれが有効だった。
奇襲とか簡単に言うが狙いは一通りではない。無論突然の攻撃で相手を混乱させると言うのは同じだが相手をさらにひるませるために声を上げるのもあれば、そっと無言で斬り付けるのもある。基本的に前者は昼間、後者は夜襲における定番のそれだがいつもそれでうまく行くのならば軍略も何も要らない。適材適所、その時々に応じた策と言う物がある。
(予定は予定に過ぎんとわかるな……と言うか、まさか本当の本当だと思いたくもないが……)
本来なら、山中と言う視界の悪い場所を生かし無言で近づきたかった。戦の前に兵を疲れさせないように最低限の速度で来ているので音も出ていないし気付かれてはいなかったが、それ以上に敵の動揺が予想外だった。
戦いもしない中から混乱に陥り、と言うかもう戦が始まっている。一体誰と戦っているのかわからないような状態であり、進んで負けに行っているような状態だ。
と言うか、あの大久保彦左衛門とか言う男さえも血の気を失っている。まだ三十ながらある意味有名人となっていたその男が、必死になっていると言う時点でそれなりに状況は悪い。さらに言えば大久保忠世の軍勢も同じかそれ以上に乱れており、攻撃をかけるには絶好だった。
だが、その敵の姿が見えない。
もちろん真田軍に余計な兵など一人もいない以上忍びを含む真田軍のはずはないが、かと言って周辺の民にやられたにしては徳川軍の混乱は異常だ。上杉軍と言うのは論外であり、野生動物などは問題外だ。
その場合、もし兵法書を暗記しただけのいわゆる机上の空論しか言えないような人間ならばどうしていいかわからず動けなくなってしまうだろう。それならいっそ何も知らずに猪突猛進して敵を斬りまくった方がまだましである。
実際、今の徳川軍は案山子の方がましな軍勢だった。
※※※※※※
「真田だぞ!」
大久保彦左衛門が騒いだ所で、どれほどの兵がそちらに向いたかわからない。
見慣れた軍勢、自分たちと同じ武士の登場ではあるはずなのに。
「このぉ!」
「上だ、上田ぁ!」
上下左右の上なのか、上田城なのか、それすらわからなくなっている兵たちが暴れる。同士討ちにならないのが奇跡の状態であり、誰も真田軍に目を向けていない。
もっとも、その点だけは矢沢頼綱の裏をかけたとも言える。かいてもまったくしょうがないのだが。
「うぎゃあ!」
とか言う悲鳴を上げられたのは一線級のそれであり、二線級はよそ見をしたまま殺されて行く。それより落ちる者は榊原軍か鳥居軍の所へと逃げ出し、一番下の者は正体を失ってどこかへ走り去ってしまう、と言うか脱走した。
そして彦左衛門隊のみならず、忠世本隊までこんな調子だった。
謎の武士の、人間業とは思えぬ身のこなし。
攻撃を当てたはずなのに羽織袴にすら全く傷がついていない事実。
家康は信長の影響を受けた訳でもないがどちらかというと現実的な人物で、いきなり一人の男が暴れ回って数千の兵を振り回すとか言う話を真に受けるような人間では決してない。そんな風にしたのは本人の幼少期からの過酷な人生とそれを生き抜くように育てた大久保忠世ら家臣団の教育であり、ある意味忠世はその時のツケを払わされていたとも言える。無論、誰にも責める資格などないが。
「東、東ぃぃ!」
彦左衛門はそう叫びながら、西に逃げる事しかできなかった。いくら彦左衛門と言えども五百の兵に一人でどうこうできる訳もなく、忠世を守るとか言いながら長兄の陣に入り込む。
「兄上!ご無事でしたか!」
「彦左!」
「真田です!真田!東へ兵を!」
彦左衛門は兄との再会を喜びながら、とりあえず勝てそうな敵だけでも潰しておかねばならないとばかりに叫ぶ。上田城へと向かった忠佐・鳥居軍があまり思わしくないらしい以上、ここまで負けたら徳川のメンツなどない。
「お前、そんな…」
「大丈夫です!それがしは大丈夫です!」
「そなたは大丈夫だろうが、兵たちは…」
「元気な兵をお貸しください!」
「わかった、そなたら!彦左に付き従い真田を討て!」
既に直垂は斬られ髷もほどけかかっている彦左衛門だったが、それでも闘志は尽きていないし物理的な傷はない。
自分たちならばやれる!その思いを込めて、真田と言う見える敵へと突っ込む。
「さあ行け!敵の利点は不意討ちである事のみ!」
彦左衛門が、忠世の親衛隊を引き連れて壁を突き破って来た真田の旗を見とめる。
兵たちの気持ちのためにも、ここは何としても食い止めねばならない。
数は所詮五百。こんな状況じゃなければ最悪でも互角。
勝利をすり減らしてやる。
そう思って足を踏み出した瞬間—————。
「ぎゃあああああああああ!」
と言う悲鳴が「彦左衛門隊」の北側から入る。
「行けぇ!」
「おい何をよそ見を」
その声に呼応するかのように真田軍は自分たちに向かって来る。よそ見をするなと言う当然の言葉を口に仕切る暇さえも与えられなかった彦左衛門隊に迫る、もう一つの敵。
そう、羽織袴の侍。
「隊を分ける!わしと共に十人ほど来い!」
「はい……」
彦左衛門はそれでも必死に統制を取り、適切な人数を振り分けようとするが、兵たちの士気が付いて来ない。
十人とか言うが羽織袴の侍にいっぺんで五人も斬られた以上、十人では足りないとなってしまうのが残念ながら自然な流れだった。
結果十人どころか七人しか付いて来ず、しかも皆腰が引けている。
どいつもこいつも
「何言ってんだこいつ」
「バカもういい加減逃げろよ」
「これだからお偉いさんは」
と言わんばかりになっており、実際それが正解かもしれないと彦左衛門でさえ思ってしまっていた。
「なぜだ!なぜ徳川を憎む!」
「……」
つい口から出た恨み節にも、羽織袴の侍は何も言わない。気合を入れるための声すら出さず、無言で飛び回り無言で斬りかかる。
せめて真田軍も気が散ってくれないかと期待してみるが、真田の攻撃は一糸乱れぬ正確さでありこっちの方が気が散っている。
と言うかその戦いぶりが羽織袴の侍と戦わなくていいからと言わんばかりに現実逃避そのものそれであり、いくら必死にならねばならないとは言えあまりにも猪突猛進であった。
矢沢頼綱はそれを見逃す男ではなく、すぐさま後退。元々大久保忠世を討ち取る気まではなかった頼綱軍にとって最大の命題は徳川軍の混乱からの退却を誘発する事であり、それこそやけくそになっている存在に真っ正面から当たって無駄に消耗する必要などどこにもない。
いい意味で腰が浮いていた矢沢軍はすぐさま向きを変え、大久保忠世軍の中でも浮いている兵を死体に変えにかかる。
「待てぇぇぇぇぇぇ!!」
「誰が待つか!」
矢沢軍が浮かれ上がり、彦左衛門隊が悲痛に叫ぶ。五百対彦左衛門隊を含めて二千二百のはずなのに、どっちが優勢なのか。
「わしがやる!やってみせるわ!どんなに速くとも!」
彦左衛門も一発逆転狙いだとばかりに槍を振るが、当たらない。
わずかに身をかわされないように胸を突きにかかるが、敵は上に立つ。
古めかしくはあるが錆びついていない刀を振り下ろし、鍛え上げられた兵士の頭を叩き割る。
熟練兵と言っても装備は打刀に陣笠であり、鎧はともかく兜を被っているような兵は一人もいない。
彦左衛門の被っているそれですら耐えられるか怪しいほどの一撃を放つ存在を前にして、本来ならばひるむはずのない徳川軍が壊れている。
彦左衛門も必死に攻撃を受け止めるが、彦左衛門は二人いない。その間にほどけた忠世軍が次々と数を減らし、真田に呑まれる。
本来指揮を執るべき大久保忠世も大将として忠佐と元忠の事がある以上逃げるに逃げられず立ち往生状態であり、今把握できている兵はそれこそ五百どころか三百もいない。
「ああもう!」
忠世も吠えるが、それだけでどうにかなる訳もない。兵たちは無傷なのに前進が震え、馬を押し出す。忠佐や元忠の事が頭にあるのかさえ疑わしいほどの振る舞いで、忠世の言葉さえも耳に入っていないかもしれない。
(まったく、どこから湧いて出たのだ!)
叫んだと言うか嘆いただけだが、それで兵が生えるなら誰もがいくらでも嘆くわとか変な事を考えてしまう。目の前の存在だってまるでどこから生えて来たように現れて暴れているのだから、自分だってそうして何が悪いと言うのか—————。そんな風に考えてしまったらおしまいだから必死に頭を振るが、それで羽織袴の侍が消える訳でもなく、ついに忠世に迫って来る。
「大将!」
「何だ!」
「榊原様を!」
「ああそうだ!」
で、榊原康政と言うこんな時のための存在を忘れてしまうほどには忠世も追い詰められていた。
「お館様はやはり先の先まで考えておられる!まだ折れるには早い!車源氏が全てを磨り潰すのだ!」
忠世が元気を出して叫ぶと共に、羽織袴の侍が消えた。
逃げたのではない。
「なん…だと…」
他に何も言えなかった。
真田軍ですら、見ていれば手を止めたほどの異常事態。
前ではなく、上へ飛んだ。
跳んだのではなく、飛んだ。
それこそ上田城の天守閣よりも高く飛び、そのまま刀を振り下ろせば城一つ両断できそうなほどに。
あれをどうやって止めればいいのか。
と言うかあれは人間なのか。
そんな存在に目を付けられている我々は——————————。
本格的な絶望が、徳川の将兵を襲う。
そして忠世も彦左衛門も、真田がそんな人間など見ていないと言うさらなる不幸を前にして、なすすべなく裸にされて行く。
もはや、戦の帰趨は誰の目から見ても明らかだった。
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