羽柴秀吉、豊臣秀吉とならんとする
大坂城。
かつて本願寺が居を構えたその城にて、近衛秀吉はあと数日で天正十三年が終わると言うのに扇子を派手に動かしていた。
「まったく、どれほどの犠牲が出たと言うのか……すぐにでもお救い米を吐き出さねばなるまい。ただでさえこれから真冬だと言うのに、民百姓を飢えさせたら国なんかおしまいだわ!」
「そうですね」
「あなた様はもう自由に出ていける立場ではないのですよ」
「わかっておるわ!ったく、天下人なんてたやすくなるもんじゃないのう……」
興奮するとつい出てしまう地元の訛りを響かせながら、本当なら今すぐでも出て行きたい衝動を抑え込む。
その衝動をぶつけられる事に慣れて来た女もまた、深くため息をつく。
それでも二人きりなのをいい事に、秀吉はくだけた言葉遣いになる。
自他共に認める女好きながら、糟糠の妻に向かって遠慮なく三十路の頃のように話す。
米粒一つを宝のように扱っていた時代からよろしくやっていた木下藤吉郎とおねは、五十路と四十路になってもちっとも変わらなかった。
二人の頭を悩ませるのは、地震の事だ。
いわゆる天正地震に因る被害は北陸から近畿にかけて広がり、下手な戦何十何百戦分の被害をもたらしている。秀吉の産まれた尾張も打撃を受けており、北陸や飛騨ほどではないにせよこれからの時期を思うと秀吉の胸と頭と、懐が痛む。
四国の長宗我部を服属させ、天下統一に向けて進もうとしていた矢先にである。
「母上様は」
「おっか、いや母上はとにかく農民を救えと仰せじゃ。実際わしもそう思うが」
「それもどうかとは思いますが。農民だけでなく工人も漁師も商人も、もちろん武士も皆同じ民です」
「じゃな。いずれにせよこうなるともう少し時間がかかりそうであるのう……」
そんな事をしていては、遠征などする暇はない。当たり前だが三万の兵を動かすにはそれ相応の手間が必要であり、作戦を立案してから実行するまでの間に状況などいくらでも変わる。それこそ机上の空論でいいならいくらでも組み立てられるが、そんな物を作った所で何の意味もないのを秀吉は良く知っている。
秀吉の母のなかなどは早く戦乱を止めさせるためにこれ以上の刃傷沙汰は避けろと言っているが、実際には動かねばならない。
一応自分でもそう思うし惣無事令と言う名の私闘禁止令を出してはみたが、その第一弾と言うべき九州が全然ダメだった。
「九州はどうなってるのじゃ」
「龍造寺はもはや抵抗する力はなく、大友も時間の問題です。島津が七分の一衆になるのも遠くないと」
「佐吉、それは洒落たつもりか」
「ええ、自分なりに目一杯やってみました」
「よせ、そなたにはそなたの仕事があるぞ」
状況を報告して来た石田三成が自分の前で全く似合わない冗句を飛ばして必死に取り繕う姿は痛々しく、無茶ぶりをしていた自分を恥じるほどだった。
常日頃から数字を数えさせれば天下一だが愛想を振りまく事に関しては三流以下の石田三成は同僚たちから全く人気がなく、福島正則や加藤清正と言った武断派たちからは白眼視されている。秀吉自ら仲良くせいと言い聞かせてもデモデモダッテの連発であり、それ以上に三成にその気がない。自分は自分の仕事をすればいいと割り切っていると言うか決め付けている三成の心を動かす事は、人たらしの異名を持つ秀吉にもなかなか困難な作業だった。
それでも自分に合わせようとしている辺りまだ本人もあきらめてはいないようだが、その拙劣さが同僚からは媚に見えてしまうのかと思うと余計に辛い。自分だけでなくおねを通してもどうにか仲良くするように言い聞かせているが、喉元過ぎれば熱さを忘れる状態らしい。
あるいは何らかの厳罰を下し誓紙の一枚や二枚でも書かせねばならぬと思ってはいるが、所詮紙切れ一枚だった。
そう、紙切れ一枚に過ぎないと片付けられているのが九州だった。
昨年沖田畷の戦いを制し勢いに乗った島津は隆信を失った龍造寺を圧し、大友宗麟も健在ではあるがかつての威を振るえる様子はない。跡継ぎの龍造寺政家及び大友義統は話を聞く限りでは才気に乏しく、それこそ三成の言う通り九州を島津が統一するとか言う事態になりかねない。まだ北九州は毛利が抑えてはいるが、それとて限界がある。
「やはり九州へと参りますか」
「ああ。来年にはわし自ら九州に赴かねばならぬ。わしの命令を無視したな」
「しかし島津を滅せるのでしょうか」
「無理じゃろうな。長宗我部のように押し込めるのがせいぜいだろう。島津は長宗我部以上に歴史深き御家。それを殲滅すれば薩摩の民はわしに懐かん。そして龍造寺や大友を含む連中が良き政をしていると言う保証がないのもな…まあその場合はわしの部下にやるだけじゃが」
相手が仮にどんなに徳政を敷いていたとしても、やらねばならないのが戦国だった。今の島津家は秀吉と言う権力者の命令を無視した反逆者であり、討伐されるべき逆賊だった。
何より東国の情勢もある。
上杉はもう事実上配下と言ってもいいし徳川も目途がついている。
上田城で大敗した徳川は単純に打撃を受けているだけでなく、榊原康政とは別にまた重臣を失っていた。
それが酒井忠次と並ぶ譜代の重臣・石川数正であるのだから徳川にとっては大打撃であり、その数正を引き入れた秀吉にとってはかなり優位だった。徳川まで服属したとなればあと残るは北条と東北だけであり、前者はともかくまだまとまっていない後者を相手にするのは後でいいと言う次第だ。
「では再来年には関東及び奥州へとなるのでしょうか」
「難しいかもしれんな。相当にうまく行ったとしても戦後処理で来年いっぱいかかるじゃろう。再来年はとどめの一撃のための準備になる気がする、となると三年後か……」
「百里を行く者は九十里を半ばとす、ですか…」
「ああ。ここで何かあっては元の木阿弥じゃからな」
まずは目の前の九州を制さねばならぬ。それが天下から戦をなくすための方法である事を秀吉はよくわかっていた。
「しかし気になる話もございます」
「気になる話?」
「上田城での戦にて、まったく見慣れぬ武者が暴れ回ったと言う話がございます」
そしておねは、いずれ夫が向かう事になるであろう東国での最大の話題を持ち出した。
四ヶ月前に起きた上田城での戦にて榊原康政以下数千名の徳川軍将兵の命を奪った、謎の武者。
「何でも風の如く走り、いかなる攻撃も受け付けず、そのまま数千の兵を屠ったとか言う」
「ほう…」
「まるで大空を舞う鳥の如く高く飛び、そして川を音も立てずに走り全く濡れもしなかったとか」
「ふむふむ…」
聞けば聞くほど荒唐無稽だが、そんな存在が実際にいたらしい事はおねだけでなく徳川軍・真田軍両軍の兵士からの話を経て既に聞いている。
秀吉は信長の弟子らしく実存主義的で理屈を重んじる人間だが、数百単位の情報源があるそれを無下にするほど頑迷ではない。ましてやおねにまで回っている話を無視するなどありえなかった。
「それでその者は真田の味方なのか」
「確かに話を聞く限りではです。しかし真田の方は自分の味方だとは考えておりません」
「確かにのう、真田安房守とか言う人物は聞く限りではあるがあまりその手の事を当てにはしておらん。敵でなければ良しと割り切っていたと見える」
「頼もしいお方ですわね」
「ああ。地に足のついた男じゃ、わしと違って」
「それは自虐ですか自慢ですか」
二人して笑い合う事が出来る程度には、今でも仲睦まじい。
それでも話す話題がこれになってしまう程度には、二人は庶民ではなくなっていた。まだ武士のそれと言えば体裁はいいが、実際には数万石とは言え大名を見下しているからそれ以上の話である。
「それからなのですが、実はもう一人」
「もう一人?」
「東国にも似たような存在がいると言うのです。
そちらはなお信じ難き事に、まるで三つぐらいだとか」
「ほほう…」
無論、そのもう一人の存在も秀吉は把握している。
そしてどうやら、伊達家に味方しているらしい事も。
「伊達はすんなりと言う事を聞くじゃろうか」
「ないでしょうね。伊達政宗と言う人物はまだ二十歳、それこそこれから輝いて行くであろう存在。島津の四兄弟は確か」
「長男の義久が五十五、末子の家久が三十九でございます。それはそれで円熟味もありますが、若さと意欲とは別物です」
「やれやれ…」
そんな存在を味方につけた政宗が、果たして真田昌幸のように身の程をわきまえてくれるのか。
震災に九州に謎の武者たちと、なんとなく落ち着けない気持ちのまま新年を迎える事が確定してしまった現実に文句を言いたそうに、秀吉は肩をすくめた。
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