伊達政宗の意図
十一月二十日。
氏政の予想に反し底冷えはするが未だに雪のない米沢城にて、伊達政宗は佳酒を啜っていた。
「そろそろ…」
「わかっておる。だが将兵たちの疲れも頂点に達しておるからな、おそらく雪が降ろうが降るまいが今年いっぱい出兵など出来ん」
小十郎の制止にも構う事なく、政宗は酒を呑む。
十七日の人取橋の戦いの後、政宗は戦勝の宴すらしないまま将兵たちの手当てと二本松城への降伏勧告に勤めており、米沢城に戻って来たのさえも十九日の昼間だった。
戦勝の宴は結局今の今まで先延ばしになっており、片倉小十郎の言葉は正直かなり間抜けだった。
「と言うか何をかしこまっているのだ。既に二本松城も落としたし成果としては莫大ではないか」
「しかし所詮は水ぶくれです。このままでは伊達は一気に破裂する危険性があります」
「で、何をしろと言うのだ」
「それは…」
自分が言わなければいけないのは誰のせいなのかと言わんばかりに視線を政宗から逸らすと、その先にいた老人はここぞとばかりに痛飲している最中だった。
「左月斎殿…」
「この老骨も、意外と役に立ちました。ですがもう少し、もう少しだけお使い下されば幸いでございます」
しかもこちらの話を聞いておらず、政宗に向かってばかり話している感じだった。いくら戦勝の宴とは言え、まるで緊張感がない。
(まったく、このお方も本来死んでいたのだろうな……)
あの死闘の中で伊達軍の将に犠牲者が出なかったのは、まったく奇跡でしかない。その奇跡を盾に抵抗していた二本松軍も降ったのだが、それに身内が浮かれていてどうするのだ。
とか言うもっともらしい事を言える事自体ある種の贅沢であり、その老人の言葉もまたしかりなのである。
「小十郎。何を気張っておる。それこそ慰労のための宴のはずだぞ」
「しかし」
「うますぎる時は注意せよか。だがな、わしはあのままでも別に問題なかったと思っておるがな」
「どう考えても敗戦でしたが!」
「三万対六千で負けた所で名に傷はさほどつかん。引き分けでもこっちの勝ちなぐらいだ。こうして将たちに犠牲者がなく済んだ以上、あのような事が起きずともこの戦は我々の大勝利であろう。まあわしぐらいの死ならばそれでも引き分けぐらいでは済んだだろうけどな」
呵々大笑する鬼庭良直を前に、小十郎はいい加減言葉がなくなって来た。
確かに六千で三万に互角に戦えば武名は上がるが、それより先に命がない。あまりにも分の悪いばくち打ちであり、とても大大名のする事ではない。
「と言うか、もういないと考えるべきです!」
「知ってるわそんな事など。
と言うか何か、殿があの童子の存在に浮かれてしまっているのが恐ろしくて夜も眠れぬと申すのか」
「申します!」
「どこまで肝っ玉が小さいのやら……殿、どうもわしはまだもう少し死ねぬようですな」
そして小十郎の放った渾身の一撃さえも、政宗のみならず良直にさえも笑い飛ばされてしまった。
人取橋のそれはあんな奇跡と言うか怪異な存在のせいでつかみ取った勝利でしかなく、とても伊達の名を高めるそれではない。連合軍の敗北と言うに過ぎず、それこそこうやって浮かれている事さえ腹立たしくさえ思えて来る。
救いを求めるように義姫を見た小十郎だったが、義姫の目が空気を読まぬかと言っているのに気付いて敗残兵のように自分の席に戻った。
酒の味はもうわからない。
「しかし、彼はもう本当に来ないのでしょうか」
「来るかもしれぬし来ないかもしれぬ。そんなありきたりな事しか申せぬ。一番詳しそうな存在があれだからな」
その義姫の言葉は、実に冷たい。
なぜかわからないが、自分には気配がわかっていた。
後方、と言うか連合軍の中央から東側付近にいてそのまま東側を荒らしてくれると言う見込みがあったから、東方担当の自分は少しばかり余裕を気取っていられた。
もちろん誤差の範囲内だったが、それでも金上盛備を始めとした敵攻撃はなぜか屋代軍にばかり向いていた。その結果生死の境をさまよった屋代景頼はと言うと、平然と酒を呑んでいる。
慎まねばならぬと誓う事の、何がいけないのか。
小十郎は鬼庭良直のような譜代の臣でもなければ伊達成実のような伊達の血族でもない。本人が初めて伊達に仕えた新参であり、そういう意味でもおとなしくせねばならぬのはわかっている。
(まったく、このままでは兵たちが浮かれ上がり出す。殿様や重臣がいくら心を引き締めていても兵たちは違う。それこそ自分たちやその主がとんでもない存在に助けられていると思い込んでも全くおかしくない。こういう時のやり方を、誰か知らない物だろうか)
艱難辛苦から立ち直った話と同じぐらい絶好調から転落した話もあるが、前者に比べ後者は単純に人気がない。聞いていて面白くないからだ。良薬は口に苦しでもないが、自分たちのような権力者層だけでなく一般兵たちにも言い聞かせてしかるべきはずなのに。
「伊達の兵たちの中には!」
「何じゃ、そんなにも驕り高ぶるのが怖いのか」
「ええ、恐ろしくてかないません!」
「そなたはずいぶんと偉くなったものだな」
「しかし!新たなる神とか!」
味がわからないのに、酔いだけは回る。酒のせいにしてつい叫んでしまうが、それでもなお義姫は噛み付いて来る。空気を読む気がない訳ではないが、それでも兵たちに触れている以上、どうしても兵たちの中に広まっている話を政宗たちの耳に入れずにいられなかった。
新たなる神とか言う、とんでもない話を。
「自分たちは神に選ばれていると錯覚すれば兵たちの慢心は頂点を極めます!それがどんなに恐ろしいか!私は!私はぁ!」
「小十郎、そなたに酒は十年早かったようだな……ああもしかして、そういう風に演説をぶるのがそなたなりの酒の楽しみ方なのか」
「違います!勝って兜の緒を締めよとぉぉぉ!!ああ、うわあああああああああ……!!」
自分でも、義姫に指摘された通り威張りくさっているのはわかっている。それでもこの全くあり得ない現象を前にして、理性を失ってはおしまいではないか。
その間についに瞼が敗北を認め、口からも堰を切ったかのように声が出る。今までの全ての感情を吐き出すかのように畳に伏して濡らす姿は、二十九の男ではなく九つの童子だった。
「藤次郎、下がらせろ」
「はっ…」
政宗に抱えられて宴席場から去ると言うか撤収させられそうになるや必死に体を起こして手間をかけさせまいとするが、頭が上がれば上がるだけ涙があふれ出し頭が軽くなるどころか余計に重くなる。
「小十郎…お前は何を望む?」
「今回のぉ、今回のぉ……ああ…!申し訳ございません、少し横にならせてください……!」
「わかった。父上、母上、それがしは少し話を聞いてやらねばなりませぬので」
「そなたは優しいのう…されどおそらく今の彼は自分の望まぬ答えを受け入れる度量はないぞ」
義姫の言葉を否定できない自分が、そこにいた。
自分がどれほど誠意をもって臨もうとしても、受け入れてくれない。
今ついさっきこんな場で言い出した訳でもなく、人取橋の戦の後三日に渡って浮かれるな浮かれるなと三ケタを超える数口にした自分の苦労が報われなさそうな現実を前にして、いい加減我慢の限界になっていた。
「なあ小十郎…わしはどうしても突っ走ってしまう」
そんな暴走する独善的存在を背中に背負いながら、政宗は優しく語り掛ける。
廊下には文字通り二人だけであり、小さかった御曹司が自分を背負っている姿を思うと自分も二十代のくせに大きくなりましたなと感慨を抱いてしまう。
「殿…」
「だからそなたのように常にその事を警戒し引き締めてくれる存在は必要だ。
そしてわしのこの気質はおそらく三つ子の魂百までもだろう、そなたにはそれこそ生涯ずっと負担をかけるかもしれぬ……」
その政宗の口から出た言葉は、小十郎の涙を涸らした。
「そのような」
「じゃから、わしがもう少しましになるまでは無理をせんでもらいたい。
まあ何はともあれ、こうしてあの童子に衝撃を受けている存在がいると言う事は我々にとっても僥倖である」
小十郎の体から、力が抜けた。
とりあえず、一番大事な主君は浮かれ上がっていない。
浮かれ上がりやすいのを承知で、地に足を付けている。
「うっ…」
「おい小十郎、嘔吐だけはするなよ…!」
「わかりました…!」
安心すると酔いが回り、口から出そうになる。
必死に吐き気をこらえ、何とか布団までたどり着いた時は、人取橋の戦勝よりも安心できた。
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