第五章 徳川家康、松平家康となる

徳川家康、狙われる

 天正十四年、八月二十九日。


 駿府城にて、宴が行われていた。


「改めて、これで甲州は徳川の物になったと言う事だな。万千代、礼を言うぞ」

「榊原殿の無念も少しは晴れただろう」


 改めてと言わねばならないのは面倒だが、それでも井伊直政の此度の功績が少なくない事は明白だった。

 あの霊武者と対峙して初めて勝利した直政を、大久保彦左衛門を筆頭に囲んで持てはやしている。

 彦左衛門の兄兄弟も、本多忠勝も、鳥居元忠も。

「逃げただけです。討ち取った訳ではありません」

 直政は必死に否定する。散々してきた話なのにまだしなければならないのかと、二十七歳の男はため息を吐きたくなった。


 直政は、あの霊武者に何の有効打も与えていない。攻撃を跳ね除け続けた事だけは事実だが、殺したわけではない。かすり傷ひとつ与える事も出来ない。

「彦左殿」

「……わしはまだ若いですかな」

「無論です!」

「見た所あの霊武者、井伊殿やそれがしとほぼ同じ年に思える。だがその上であそこまでの憎しみに固まるとは、よほどの事がなければならぬと見える。もし三方ヶ原で殿を討たれていたらああなったのかもしれぬほどには」

「お館様をですか……しかしそれだけであの憎悪は出る物なのでしょうか。

 戦場で名のある敵に狩られただけ、まだましなのかもしれませぬ」


 霊武者の刃は、徳川とか関係ない憎悪に満ちたそれ。まるで自分が敵とみなした存在を全て阻害する事を目的とするかのような強烈な刃。

 まるで、同じ事をされたかのような。


 主君ひとりだけで、そこまでなれるのか。


 直政には姉と妻と義父がいるが、まだ子はいない。だが子が出来、もし抱きかかえたらどうなるのか。本多忠勝もまた二男一女がいるがその噂は聞くし実際によく鍛えられているらしいが、いずれはその子らも戦場に出て戦う事になり、殺したり殺されたりするかもしれない。だが思えばそんな事が出来るだけましだと言うのも事実であり、それこそ他の兵たちのように蹂躙されるかもしれない。

 あの時だって向こうが自分しか狙わなかったから被害が出なかっただけであり、そうでなければ全滅すらあったかもしれない。あの明智光秀も落ち武者狩りの農民に殺されたように、名のある存在に討たれる事すら簡単ではない。それこそ、特権階級の為せる業なのだろう。だがその方が、恨む相手がいるだけ少しはましな気分ではあるのも事実だった。




「お館様は」

「敵ほど便利な物もない。いくら感情を治めようとしてもその対象がいないのは実につらい。わしとて幾たびも父や祖父を奪った存在を恨もうとした。それこそ子々孫々まで殺してやりたいと思うほどにはな」

「できるのですか」

「できるがやらぬ。何の意味もないからな」


 松平清康を殺した阿部正豊はすぐ斬り殺されたがその叔父の阿倍定次は大久保家から養子を得るほどには信頼されており、松平広忠は討ち死にではなく病死だった。病を恨んだ所で何にもならず、子々孫々まで絶やすなどそれこそ夢物語だ。医学が発展すればできるかもしれないが、そんな技術などこの国の誰も持ってなどいやしない。

 と言うか、子々孫々までやらないといけないと言う考え自体がある意味卑怯であり臆病でもある。一人でも遺せば怨恨を引きずり固めていずれは刃を向けてくるかもしれないが、その時のために備えるかそうならぬようにしっかりとその存在を扱うかすればいい。だいたい、征服した土地の民治というのはそういう物だ。いくら前任の指導者が醜悪だとしても、自分たちの方がよいと必死に思わせる事が為政者の役目である。それを無視して老若男女を皆殺しにするのでは、獣よりたちの悪い存在だ。



(しかしあの童神とか言う小僧……)



 まだ伝え聞いたと言うか漏れ聞こえただけだが、陸奥にて南部氏の一族が一人残らず皆殺しに遭ったと言う話を聞いた時には耳と頭を疑った。たった一人でとか言うのはともかく、三戸城にいた南部一族を女子供問わず撫で切りにするなど常軌を逸している。いや、三戸城にいたそれだけではなく南部領を駆けずり回りそれこそ枝葉に至るまで狩り尽くすなどまさしく暴食そのものだ。

 そんな存在でも伊達政宗らは童神とか言う肩書を与えて持てはやしているらしいが、自分たちに刃を向ける事を考えていないのだろうか。たまたま二度ほど味方しただけで永遠に裏切らないとか言うのなら武田信玄が今川や北条と組んだ同盟は何だったのか。と言うか同盟など裏切られる事を前提に組む物であり、信長の律義さは家康でさえも感心するほどだった。確かに政宗からしてみれば父親と重臣を救ってくれたとは言えそれに乗っかるなどあまりに危うい。しかも弟である蘆名政道はまだしも最上も加わっているとか言う噂まである。天下を渡す事など出来そうにない存在だ。

 だが、秀吉でさえもどうにかできるかわからないほどの存在である以上本当に天下を奪われかねないかもしれない。そうなればこの国そのものが滅ぶかもしれない。そう大げさではなく思えて来る。


「万千代。少しばかりそなたの武を見たい。誰か付き合ってやってくれぬか」

「はっ…」



 そのためにと言うつもりもないが、武器を持たせて振らせたくなった。少しばかり酒は入っているがそれでもその程度で潰れる事などあり得ない連中なのでとばかりに、小者たちに得物を運ばせる。

 忠勝と彦左衛門が得物を取り、直政を追いかけて庭に出る。もちろん数打ばかりであるが、それでも真剣が飛び交う音は身を引き締め気持ちを引き締めさせる。


「長丸は」

「何をおっしゃっているのですか、長丸様は浜松ですぞ」

「おおいかんいかんな、つい次代を担う存在に見せてやりたくてな」


 長丸はまだ八つであり、家康とは三十七の差がある。さらにその下に二人いるが、いずれにせよ跡目としてはあまりにも心もとない。

 と言うか、長丸は三男である。どういう因果か家康が尊敬する源頼朝も源義朝の三男であり、何とも奇妙な因縁だと家康が笑った事もある。

 長男の信康は武田と内通していたと言う嫌疑をかけられ自害を要求され、妻共々斬り捨てた。

 次男の於義丸は現在、秀吉の下で人質となっているが同時に秀吉に可愛がられ、秀康と言う秀吉から字をもらった名前を名乗っている。十四歳と言うのは何とも微妙な年齢ではあるが、九州征伐に参加した際に早速武名を挙げており評判は良いらしい。

 だが家康は、その於義丸こと秀康をあまり評価していない。


(関白殿下に抗うつもりもない。だが関白殿下は関白殿下の才覚でここまで持って来たのであって同等の才覚の持ち主でなければこの統治を維持する事が出来るかどうか……)


 才気煥発と言えば体裁はいいが、そういう人間が頂点に立つと自分ならできると言うか自分にしかできないような仕組みを作ってしまう可能性がある。後継者に同等の才覚があったとしても一時しのぎだし、そうでなければ一瞬で破綻する。

 見た所、秀康は自分より秀吉に似ている。自分一人で何でもできるし、努力を怠らず、その上にカリスマ性もある。だがそれゆえに集団を率いる事は出来ても守る事は出来ず、自分一人だけのそれで終わってしまう。その点長丸は真面目で良くも悪くも余計な事をせず、素直で人の言う事をよく聞く。

 確かにカリスマ性を持った指導者こそ人を引き付けるが、その後の事はあまり考えられない。下手に考えればその指導者の死を望んでいるのかとか言われかねないからだ。

 その中で歴とした方針を持った存在がいて力を振るえればいいが、そうでなければ平清盛が死ぬと共に雲散霧消した平氏政権のようになり源頼朝が死んでなお百年以上もった鎌倉幕府のようにはならない。


「英雄は美しい。だが英雄が美しかろうと遺したものが美しいとは限らぬ。その事を分かっておらねば栄光はただ空しく地に染み込み後には残らぬ。自分の栄光を自分だけで独り占めしようなどとか言う浅ましい考えを捨てねばならぬ」

「そのような」

「そういうのはしたくてする物ではない。

 まあ平たく言えば為政者が凡人、いや暗愚でも治まる仕組みを作らねばならぬと言う事だ。安定のためには億にひとりの飛び抜けた才覚の持ち主は要らぬ」

 天下人、と言うか為政者の御家が決まったからにはどんなに悪かろうとついて行くのが「さぶらふ」者である武士の本来のやり方のはずだ。頂点に立つ者はその事を忘れず、下に立つ者もまたしかりでなければいけない。

 家康に言わせれば、それが政と言う物だった。だから…




「ギャーー!」




 そんな政治論に浸ろうとしていた所に、悲鳴が飛び込んで来た。


「どうした!」

「大変です!あの霊武者です!」

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