第20話 音を継ぐ者
実際、母の名前を出されてもすぐには気付かなかった。
私にとって母は母で、
そんな母が誇らしい。だけど、もうこの世にはいない。病室で見た母の悲しそうな顔がフラッシュバックして、指先が震えた。
「なにかのコンサートで一緒になって、それから仲良くなったって言ってたかな。同い年の娘がいることも共通の話題になったって。倉石ゆかりって言うんだけど、聞いたことない?」
私は首を横に振る。
母はあまり、身の上話をしたがらなかった。各国を回る、日本を代表するピアニストであったにも関わらず、母は業界の自慢話も、愚痴も、言わなかった。
母の口から出るのは音符記号や楽曲の名前ばかり。私がついて行けていないのにも気付かないで、母はよく一人で喋り続けていた。
「あたしのママは喜美文子のことを愛していた」
「愛していたって、それって、どういう」
愛と言われても、私はピンとこない。倉石さんのお母さんが、私の母を好きだったってこと? でも、それなら愛なんて言い方、するだろうか。
「さあ、それはあたしも知らない。でも、喜美文子の訃報を聞いたとき。ちょうどこの食堂で、電話がかかってきたんだ。あたしのママは、その場で泣き崩れた。だから多分、愛っていうのはそういうことだったんだと思う。それからママは、喜美文子の弾いた音源を手当たり次第集めて、今も毎日聞いてる」
私のことではないはずなのに、ズキっと胸が痛い。
「音楽を、愛しているのよ」
そんなときだった、食堂の扉が開いて、一人の女性が入ってくる。
年齢は四十か、五十くらいだろうか。若々しいその表情から正確な年齢を予想するのは難しい。物腰はとても穏やかで、両手を前に揃えて音もなく歩くその姿は、白いドレスも相まって湖を泳ぐ白鳥のようでもあった。その人は、私を見るとくしゃっと笑った。
「ママ、なんでそんな格好してるの」
「だってふみちゃんの娘さんとお会いできるのよ? 失礼のないようにしたいじゃない」
ママ、と呼ばれるその女性は、おそらくさっき話に出た、倉石ゆかりさんなのだろう。
私の方がどう考えても年下で、敬意なんて抱かれるような人間じゃないのに、倉石さんのお母さんは私の前に跪くと、綺麗に染まった白い髪を垂らして言った。
「倉石ゆかりです。ふみちゃん……あなたのお母さんにはとてもお世話になりました。わざわざご足労いただき、本当に、ありがとうございます」
「そ、そんな、頭を上げてください。私なんかに」
私は慌てて椅子から降りて、膝立ちになる。
「ママ、喜美が引いてるから」
引いてはいないんだけど、ビックリはした。人に跪かれることなんて初めてだったから、何故か罪悪感に苛まれて言葉が出てこない。
「ごめんなさいね。でも、この日をずっと楽しみにしてたの。まさか
仰々しい敬語が抜けて、ホッとする。「座りなよ」と倉石さんに言われたので、会釈をしてから椅子に座る。
倉石さんのお母さんは、にこっと笑ったあと、テーブルに乗っている倉石さんの足をパチンと叩く。お尻を叩いたみたいな、小気味よい音が響いた。
「私のことはゆかりでいいわ。
「はい。もちろんです。えっと、ゆかりさん」
目上の人を下の名前で呼ぶのに慣れなくて、舌がまごつく。
「ありがとう。馴れ馴れしくってごめんなさいね。ふみちゃんがいつもあなたの話をしていたから、つい私まで、知り合っていた気になって」
ゆかりさんは倉石さんの隣に腰掛ける。背筋をピンと伸ばした座りかたを見て、思わず私も背筋を伸ばしてしまう。そんな私を見て、ゆかりさんが「自然になさって」と、朗らかな表情で言う。
「あの、ゆかりさんは私の母と、お友だちだったんですね」
「ええ、私が指揮者学校を出てすぐの頃だから、二十年来の付き合いになるわね。いろいろと話が合ってねぇ、ほら、あそこに飾ってある肖像画。ヨハネス・ブラームスが私は大好きなの。不器用で人付き合いが苦手で奥ゆかしくって、だけど誰よりも心優しい彼が書いた曲は、どれも名曲揃いで。ふみちゃんと仲良くなったきっかけも、ブラームスだったわ」
母もブラームスを好きだったなんて知らなかった。でも、たしかに母はよく私にブラームスの曲を弾かせていた。
「ふみちゃんはねぇ、不思議な人だったわ。音楽の話で距離が縮まったから、一度食事に誘ったの。どんなものが好きなのか、嫌いなのか、私は彼女のことを知りたかったのよ。それなのに、ふみちゃんってば、ピアノの話しかしないの。最初はそういう、いわゆる自称天才な子かと思ったわ。この業界だといるのよ。過去の偉人の真似をして、音楽だけで生きているフリをする人たちが。だから私も最初は、そういう子かぁと思ったけれど。ふみちゃんったら、三年経っても、五年経っても、ずっとピアノの話しかしないの。私が好きな俳優さんの話を振っても、その俳優さんが出てるドラマの主題歌の楽譜を取り出して、曲について語り出す。私は次第に、ああ、本物だって、思うようになったわ」
業界人の間で呼ばれていた、ピアノバカという呼び名を思い出す。
「絵画や彫刻と同じように、楽譜は人間の心を映し出す芸術なんだって、ふみちゃんは言っていたわ。それは同じ音楽で活動している私にとっても刺激になる話で、彼女の音楽に対する姿勢と情熱、それから圧倒的な読解力とそれを表現する才能に魅せられたの。当時私も行き詰まっていた時期でね、よく相談もさせてもらったわ。ふみちゃんはいつだってピアノのことばっかり考えていたけれど、いつだって真剣で、なによりピアノが好きでしょうがなかったのが伝わってきたわ。そんなふみちゃんを目で追っていたら、いつのまにか」
ゆかりさんは背筋を伸ばしたまま姿勢は変わらないが、瞳に薄い透明の膜を張って、私に笑いかけた。
「愛していたの」
「すみません。私の母が。ピアノの話ばっかりっていうの、分かります。家でもそうだったので。私にピアノを教えるのに夢中で、ご飯を作らない日なんて何回もありました。そのたびに父が怒って」
そんな日々があったことを思い出して、昔棲んでいた家の内装が頭に浮かび上がる。とても懐かしい気持ちになった。
「ピアノバカって呼ばれてたんですよね。ほんと、バカだと思います。食事よりピアノだなんて」
「ふふ、そうね。でもね白亜ちゃん。ふみちゃんはたしかにピアノの話ばっかりだったけど、もう一つ、よくするお話があったのよ」
そんなものあるのだろうか。あの母が、ピアノの他に好きなものなんて。
ゆかりさんと目が合う。その瞳の奥にあるものを探しているうちに、辿り着いてしまう。あっ、と思ったころには、ゆかりさんが口を開いていた。
「あなたよ、白亜ちゃん。ふみちゃんはピアノバカであったのと同時に、親バカでもあったの」
「母が、私の話を?」
「ええ、あなたが一歳の頃だったかしら。初めて鍵盤を叩いて音を鳴らしてくれたって、嬉しそうに報告してきたわ。すでに音階も理解していて、きっとあの子は天才に違いないって、鼻息荒くして興奮しちゃって」
その日のことを思い出しているのか、ゆかりさんは困ったように笑う。
「ママ、話が長い。本題入って」
あくびをした倉石さんが、背にもたれながら言った。
「あら、ごめんなさいね白亜ちゃん。つい、嬉しくって。私ばかり話してしまったわ」
「い、いえ」
「喜美に話があるんだって。なんだっけ、楽団に入ってほしいんだっけ」
「えっ、私に?」
「もう、段取りもなしに。ビックリしたわよね。朱莉ったら、思ったことをすぐに言うんだもの」
「もったいぶる意味がわからない。呼んだのはママでしょ」
倉石さんはため息を吐きながらテーブルに足をあげ――ようとして、またゆかりさんにビシッと叩かれていた。
「今の話の通りよ、白亜ちゃん。私、『ロイヤル・ミューズ交響楽団』に所属しているの。海外を拠点にしていて、ヨーロッパを中心に各地を回ってオーケストラを開いているのだけど、今後はアジアにも活動範囲を広げようと思っていて、それに伴って今はピアニストを探しているところなの。近年だとピアノを採用しないオーケストラも多いけれど、私はやっぱり、楽器の根源はピアノにあると思ってる。もちろん、和音を他の管楽器が担当することが多いからピアノを目立たせることは難しい。だけど、できないわけじゃない。実際、ふみちゃんはオーケストラでもピアノを担当していた。彼女の演奏は、調和を保ちながらも、すべての音をカバーできる力ある音を奏でることができた」
ピアノがオーケストラで採用されないことが増えてきているというのは、私も聞いたことがある。もちろんそれは、そのオーケストラの趣旨にもよるから、絶対ではないけれど。
「ふみちゃんのピアノは、私たち交響楽団に所属するすべての人の常識をもう一度覆し、定着し、マンネリ化していた現代の音楽に風穴を開ける力があった。それは音楽に携わるすべての人がわかっていたし、そんな未来に誰もが期待していた」
ゆかりさんの、次の言葉が予想できてしまって、私はきゅっと自分の手を握る。
「だけど、ふみちゃんはこの世を去ってしまった。ふみちゃんがいなくなったことによる損失は、想像以上に大きい。今は音楽がお金になる時代。音楽で食べて、食べるために音楽を作り、奏でる。そんな時代に戻ってしまった。時代背景があるのはしょうがないけれど、今は過去の名のある作曲家のように、音楽に人生を捧げる人がいないのもまた事実。いえ、少ないと言ったほうがいいわね。ふみちゃんはそんな、数少ない、音楽に人生を捧げた……いえ、人生を音楽に乗っ取られた一人だった」
「知りませんでした。母がそんな、すごい人だったなんて」
わざわざ自分の母の実績を調べようだなんて思わなかったし、会合で母が褒め称えられると、私は置いてけぼりにされているようで嫌だったから聞かないことにしていた。
だからゆかりさんの話を聞いて、驚いている。
「更に惜しいのは、ふみちゃんが弟子を取っていなかったことね。まあ、今の時代あまりないことかもしれないけれど。それを知って、業界では落胆の声が続いたわ。『喜美文子の音楽は完全にこの世界から消えた』って」
それは一人の才能の消失。音楽業界の損失。
そんなネガティブな話にもかかわらず、ゆかりさんは何故か目を輝かせて、真っ直ぐ私を見ていた。
「でもそうじゃなかった。消えてはいないの。この世界には唯一、喜美文子という天才ピアニストから指導を受けていた者がいる」
どうして私がここに呼ばれたのか、ようやく分かった。
「ふみちゃんの音楽は、まだ生きている」
指先に残る熱は、あの日叩いた鍵盤の感触を、まだ色濃く残している。
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