第2楽章

第9話 刃物みたいな女

 入部から二週間ほど経った。


 私は仮入部を経て、正式に合唱部への入部を果たした。


 今年の目標は県大会優勝ということで、部員全員が真剣に練習をしている。とはいえ、規律には従えど、部活全体の空気はとてもラフで、顧問の坂井さかい先生によるユニークな練習法もまたそれに拍車をかけていた。


 全員で手を繋いで合唱したり、互いに向き合って振り付けを付けて歌うなど、技術向上というよりは、一体感を高めるための練習が多い。私も参加させてもらったが、練習とは思えないほど楽しく、歌うのがほんの少しだけ好きになれた気もする。


 そんな部活の雰囲気が気に入って、私は本入部を決めた。


 今日もいつも通り練習をして、帰りのミーティングが開かれる。再来月、街で開かれる催し物での演奏依頼が来ているそうだ。先輩たちがざわついていたので、珍しいことなのかな、と私は思った。


 明日からはそのイベントで歌う曲決めも含めて練習して、それから伴奏者のオーディションも行うとのことだった。この合唱部での実質的な伴奏者は、二人。私と、そして佳代子かよこさんだった。


「オーディションかぁ、去年まで伴奏者は私一人だったから初めてだよー緊張する。あ、でもそれだけ、高めあえるってことだから、私は嬉しいな! これも白亜はくあちゃんが入ってくれたおかげだね!」


 ミーティングが終わると、佳代子さんが駆け寄ってきた。いきなり手を握られて、思わず飛び上がってしまった。


「一緒に頑張ろうね!」


 合唱部に入ってから、佳代子さんから嫌がらせを受けたことはない。昔の記憶とは違う佳代子さんの様子に、私も認識を改める必要があるかもしれない。


 五時には部活は解散し、私もカバンを持って校門を出た。自転車通学の生徒にときどき追い越されながらアパートを目指していたとき、ふと楽譜をピアノの譜面台に置きっぱなしだったことに気付いて踵を返した。


 戻った頃には校舎は暗く、先生と鉢合わせるたびに「早く帰れよー」と釘を刺された。私は急いで第二音楽室に向かった。鍵が閉まってたらどうしようと思っていたのだけど、どうにか開いていた。


 やっぱりピアノの譜面台に置き忘れていたようで、ホッとして楽譜をカバンに入れる。アパートにピアノがないので、楽譜を見ながら運指のイメトレをするくらいしか練習ができない。私にとって楽譜は持ち帰りが必須だった。


 帰る前に、蓋をあげて鍵盤を指で押し込んだ。私はもうピアノを弾くことはないと思っていた。でも、実際に弾いてみると、鍵盤の音は心地良い。人が弾いているのとは違う、指の骨から直接伝わってくる振動が、心ごと揺らすようで落ち着く。


 私の身体にピアニストの血が色濃く流れていることを、私は初めて自覚した。


「あれ、白亜ちゃんだ」


 声の方に振り返ると、佳代子さんが出入り口のところに立っていた。こちらに駆け寄る様子はなく、手首だけを私に向かって振っている。


「忘れ物?」

「はい、楽譜を忘れちゃって」


 帰るには佳代子さんの前を通らなきゃいけない。形容しがたい不安に心臓を鳴らしながら、私は佳代子さんの前を通り過ぎた。


「そっか、家にピアノがないんだもんね。イメトレくらいしか練習ができないんだ」


 みんなの前じゃ決して出すことのない、低い声。それはピンと張られたピアノ線のように凹凸がなく、音もなく人の首をかっ切ってしまえるほどの鋭利さを持っていた。


「かわいそう。ピアノを買ってもらうお金もないんだぁ。あ、でもアパート住みなんだっけ? じゃあ買っても弾けないか。やっぱり母子家庭ってお金に余裕がないんだ。大変だね」


 足を止めてしまったことに後悔した。でも、振り返って、睨み付けたくてしょうがない。


 だけど、そんな私の威勢も佳代子さんの顔を見た瞬間に萎縮してしまう。私の記憶に刻まれた恐怖が、キュッと私の気道を狭める。咳き込んでしまうほどの窒息感に、思わず喉に手を添えた。


「そもそも母親じゃないのか。赤の他人と住んでるんだもん。ピアノなんて弾く余裕あるわけないよね」


 沙希さきさんは、一生懸命私を育ててくれている。沙希さんと暮らしていて、お金の面で不便したことなんか一度もない。だって沙希さんは、私にそういう思いをさせないために、コスメだって百均のばっかり揃えるようになったし、趣味だって持とうとしない。


 そんな沙希さんのことを好き勝手言う佳代子さんが許せない。


「ていうかさ、気持ち悪くない? 家族以外の人間と生活するのって。あ、白亜ちゃんはそういうの平気なんだっけ。そうだよね、平気で人の家に転がり込んで、本来私たちが食べるはずだった食べ物も食べて、着るはずだった服も着てたもんね。なんて図々しいんだろう。自分が邪魔者だって気付いていない子ってほんと逆にすごいよ。鈍感すぎるっていうか、むしろ羨ましいなー。そんな生き方できたら楽だろうなー」

「ち、違います。私は別に邪魔するつもりじゃ」

「そうじゃなくても邪魔だったの。白亜ちゃんが来たせいでね、高校生になったら作ってくれるって約束してた私の部屋も白亜ちゃんに明け渡したの。おかげで私は白亜ちゃんがいなくなるまでずっと姉と一緒の部屋だった。白亜ちゃんがいなくなったときはせいせいしたよ。あのときはいなくなってくれてありがとう! そこだけは感謝しておかなくっちゃね!」


 怖い。佳代子さんの底知れない悪意と、まったく感情の乗っていない笑顔。この人は私がどれだけ不幸になろうとも、死にたくなるほど苦しもうと、本当にどうでもいいんだろうなと嫌でも気付かされる。


「ごめんなさい」

「謝るくらいならさ、なんで合唱部に入ったの? しかも伴奏者希望だって? 私がピアノやってるの知ってるくせによくそんなこと言えたね。対立しちゃうなとか、相手に嫌な思いさせちゃうなとか考えない? もう高校生なんだから、そういうところにも気を遣わないと、あの子空気読めないんだーって他の子に嫌われちゃうよ?」


 佳代子さんも幼少の頃からピアノ教室に通っていた。親戚一同が実家に集まると、お互いに演奏を披露したりもしていた。佳代子さんの言う通り、私は彼女がピアノをやっているということを、ずっと知っていた。知っていて、合唱部に入った。


 反論したい。それなのに、全部が全部、納得できないわけじゃなかった。私にも悪いところはあって、もし反論したとしても、そこを突かれたら私はきっと何も言えなくなる。佳代子さんはそれを分かっているのだろう。


「まぁいいや、望んだ形じゃないとはいえ、今は同じ合唱部員なんだし、昔のことは忘れよっか。別に私も謝ってほしいわけじゃないし。今回もまた、白亜ちゃんが途中で気付いて、一人で逃げ出してくれるのに期待してる。よろしくね」


 手を差し出される。握手に応じてしまえば、私は自分からこの部活を去ることを約束しているようなものだ。


「あれ、そのクリアファイルなに? そんな趣味だったっけ?」


 握手に応じない私にため息をついた佳代子さんだったが、私が楽譜入れに使っているクリアファイルに気付くと、その口が歪に曲がった。


「へぇ、かわいいね。ちょっと貸して?」

「な、なんでですか」

「えー、ちょっと見たいから。いいじゃん貸してよー」


 このクリアファイルは、この間沙希さんと買い物に出かけたときに買ってもらったものだ。おにぎり柄のクリアファイルは、沙希さん一押しのもので、最初は可愛いとは思わなかったが、使っているうちに可愛いと思えるようになってきた。


 おそるおそる渡すと、佳代子さんはクリアファイルを裏返したりして、目をキラキラさせていた。


「私これ欲しい! ねぇ、私のクリアファイルと交換しない?」

「え、い、嫌です」

「なんで? ちょうだいって言ってるわけじゃいんだよ? 交換なんだから、いいじゃん」


 これはきっと、意趣返しなんだと思った。このクリアファイル自体が、沙希さんに買ってもらったことは佳代子さんも気付いていて、それを奪うことによって、私への復讐となる。


 だけど、渡したくなかった。これは沙希さんから買ってもらったものだし、このクリアファイルを使わなくなったら、きっと沙希さんはそれに気付く。先輩のクリアファイルと交換しましたなんて言ったら、沙希さんはどう思うだろう。


 そう考えるだけで胸が締め付けられたが、その苦しみにも似た切なさが、佳代子さんに立ち向かう勇気を生み出すのだった。


「大切なものなので、交換できません。返してください」


 私にしてみれば、精一杯の反撃だった。それなのに、佳代子さんはなかなかクリアファイルを返してくれない。


 もしかしたら、また、壊されちゃうかもしれない。親戚の家に棲んでいたとき、大切にしていたゲーム機や筆箱は、すべてこの佳代子さんに壊されてきた。おにぎり柄のクリアファイルがぐちゃぐちゃに壊されることを想像すると、泣きそうになる。


「それ、喜美きみのでしょ」


 ふと、低い声が廊下に反響した。私も佳代子さんも、ビックリしてそちらを見る。


 声の主は倉石くらいしさんだった。倉石さんは気怠げな歩き方で、こちらに向かってくる。


 佳代子さんが「あ、朱莉あかりちゃん!」と明るい声を出すも、返事をしないまま倉石さんは、佳代子さんからクリアファイルをひったくった。


「はい」

「あ、ありがとう」


 倉石さんは私にクリアファイルを渡すと、佳代子さんを睨み付けた。


「な、なに?」


 倉石さんの鋭い眼光に、佳代子さんはたじろいでいるみたいだった。私にとっては恐怖の象徴である佳代子さんが、倉石さんに睨まれて焦っている。


「ピアノとか家庭環境とか、あなたが自慢するのは最初からあるものばっかり」

「はぁ?」

「マウントを取るなら、努力して勝ち取った物にしたほうがいいっすよ」

「なっ」

「井の中の蛙、虎の威を借る狐、あとは、なんだっけ」


 佳代子さんの顔が、どんどん真っ赤になっていく。


 痛快とも呼べる光景に、私は唖然とすることしかできなかった。まるで、真っ黒な煙が一陣の風によって吹き飛ばされていくようだった。


「朱莉ちゃん、何言ってるかよくわかんないよー? あ、もうこんな時間! そろそろ二人も帰ったほうがいいよ。先生に怒られちゃう。朱莉ちゃんも白亜ちゃんもま、またね!」


 どうにか明るさを取り繕う佳代子さんだったが、明らかに動揺していた。


 佳代子さんがいなくなると、次いで倉石さんも踵を返す。


「あ、あの倉石さんっ、ありがとう。取り返してくれて」

「喜美は、ピアノ得意?」


 倉石さんはブレザーのポケットに手を入れたまま振り返る。


「苦手では、ないと思う」

「そう。なら負けないで」


 オーディションのことを、言われているのだと思う。だけど、私はその期待には応えられない。


 佳代子さんの言う通り、私は家で練習することができない。そもそも五年近いブランクがあるのだ。ピアノはどんなものよりも継続が重要な分野で、一日弾かなければ三日分下手になると、私の母も口を酸っぱくして言っていた。


 そんな私が、佳代子さんに勝てるとは到底思えない。


「倉石さんも用事があってここに来たんじゃないの?」


 そのまま帰ろうとする倉石さんを呼び止める。まさかクリアファイルを取り返しに来てくれたわけじゃあるまい。それじゃあただのヒーローだ。


「来たんじゃなくて、いた。ずっと」


 倉石さんは第二音楽室の隣にある、音楽準備室を指さした。


 ギク、とした。だとしたら倉石さんは、私と佳代子さんの会話をすべて聞いていたということになる。佳代子さんが普段人前では見せない側面も、私のせいで全て曝け出されてしまった。私に落ち度なんかあるはずもないのに、どうしてか罪悪感に苛まれる。


「ねぇ、喜美」


 倉石さんの薄い唇が作った微かな隙間が、銃口のように私に向く。


「あの先輩は、やな奴だね」


 どんな言葉が飛んでくるのだろうと身構えていたから、肩透かしを食らう。


「そうかも」


 佳代子さんのことを悪く言ったことのない私だったから、当たり前みたいにそんな言葉が出たことに驚いていた。


 倉石さんは品定めするように私を見てから、不敵に笑って校舎を後にした。    

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