第16話 人間に恋をした怪物の結末
私が自分の意思で聞いたことなのに、答えないでくれと切に願う。
変化というものは、どちらに転ぼうとも恐いものだ。
「聞こえちゃった」
他人行儀な言い方だった。まるで私たちは今、私たちではない別の誰かの話をしているかのようだった。それだったら、どれだけよかっただろう。あの子彼氏できたんだって、とか。別れたっぽいけどあの子ならまた知らないうちにできてるよ、とか。そんなありがちな自分とは関係のない恋愛トークの矛先が、今、私自身に向いている。
「ごめんね、盗み聞きみたいになっちゃって」
「いえ、私こそ……すみません」
真っ黒い濁流が、心を侵食していくようだった。
まるで先が見えない。押し寄せてくる黒い感情のせいで、息ができない。
私の頭の中で、二つの選択肢が高速で点滅している。
進むか、戻るか。
まだ、猶予はあるはずだ。
「忘れてください」
秒針の音が、私を焦らせる。
「好きっていうのは、家族として、なので。ほら、娘がお母さんやお父さんに大好きーって言う、のとかあるじゃないですか。そういうの、憧れてて」
たぶん私は、嘘のほうが得意なのだと思う。
本当のことは行き詰まって喉の奥で止まるくせに、思ってもない言葉は私の舌先で形成され、そのまま外の世界にこぼれる。
「でも、わたしに覆い被さられて、ドキドキするって言ってた」
「それは、なに、されるんだろうって思って」
「
「え?」
「それとも、一人の人間として見てる?」
血の繋がっていない母親が、不安そうな瞳で私を見つめる。
温かい絆と、感動的なストーリー、家族愛としての美談でこの話を締めるには、きっと前者の問いに頷くのが正しいのだろう。
血が繋がっていなくても関係ない。
それで丸く収まる。私以外は、救われる。
だが、私は欲深い。血が繋がっていないことを、つけいる隙だとすら思っている。こんな私に、家族愛としての美談を遂行する資格などあるのだろうか。
「女性として見てます」
沙希さんの顔を見ることができない。今すぐ、布団から抜け出して部屋を飛び出したい。
「ごめんなさい」
沙希さんからしたら、恐ろしいことこのうえないだろう。我が子のように愛すと決めた義理の娘が、自分を色目で見ていたということを知ったのだから。
いつから? じゃああのときも? 沙希さんの抱える不安を考えると、胸が握りしめられたかのように苦しくなる。
沙希さんにこんな苦しい思いをさせてまで、私は自分の気持ちを伝えたいのかと言われると、そうじゃない。言わなければ沙希さんは辛い思いをすることなんかなかったのに、私は自分のワガママで、まるで告白という行為を神聖なものにしてみせた。なんて自分勝手なんだろう。
「本当にごめんなさい」
しかし、謝ることしかできない。だってもう、伝わってしまっている。きっと確かな言葉は必要ない。沙希さんから見た私の姿、言動に、正解へと至るピースがいくつも散りばめられているからだ。
「もうちょっと、ちゃんと話そうか」
沙希さんは起き上がって、私の枕元にやってきた。沙希さんは正座をして、真剣な顔をして言った。
「まず、謝る必要なんかないよ。わたしは嫌な思いなんかしてないし、白亜ちゃんは何も悪いことなんかしてない」
起き上がる勇気は、私にはない。洞窟から出ることのできない私は、耳だけを外に向けながら、沙希さんの声を聞いていた。
「前に言ったかもしれないけど、わたしね、高校のときも、同性の友達に告白されたことがあるの。今思えば告白というか、そういう気あるんだけどどう? って聞かれただけなんだけど、わたしはビックリしちゃって思わずはぐらかしちゃったんだ」
その昔話は、絵本や童話とは違い、妙に生暖かい温度を帯びていた。
「そのときは恋愛に対してサバサバしてるのがカッコいいって思ってたからさ。でも、その友達には悪いことしちゃった。それからだんだんと疎遠になっていって、もう連絡先すら知らない。わたしがちゃんと向き合っていたら、ちょっとは変わってたかもしれないのに」
「沙希さんのせいじゃないと思います。それは、だって、相手が悪いです」
「でも、逃げたのは確かだから。わたしね、それからは恋愛に対して、真摯に向き合おうって決めたの。恋愛に形なんてない、対象が違うだけで、その気持ちは決して歪なものじゃないんだってだんだんと思うようになった。そんなわたしだからなのかな、
沙希さんは、私の父の教え子だった。在学中は関係を持っていなかったらしいが、卒業と共に沙希さんが猛アタックしたのだと、知りたくもないのに沙希さんから聞かされた。
「白亜ちゃん」
肩をぽんぽんと叩かれる。優しく、温かい手つきだった。
「白亜ちゃんはわたしにとって、大切な娘だよ」
髪を撫でられると、安心する。沙希さんにいじってもらうために伸ばしたこの髪。そのためだけに、存在する身体の一部。
「だから白亜ちゃんの悩みはちゃんと聞きたい。恋愛ごとならなおさら。きっとここで逃げたら、わたしたち、きっとどっちでもいられなくなる」
洞窟に光が差し込み、眠りに就いていた怪物は瞼を上げる。そこにはあれほど恋焦がれて、近づきがたかった人間が立っていた。もっと親密になりたい。でも、近づけば壊してしまう。
人間と、怪物の力は違いすぎるから。
「ねぇ、白亜ちゃんの言う好きは、恋ってことで、受け取っていい?」
私は首を横に振った。だって、きっとその気持ちを持ち帰ったら、村の人たちに言われてしまう。それは怪物のだ捨ててしまえ、と。
「違うならそれでいいんだ。でも、わたしはこう思う。好きになっちゃダメな相手なんかいない。人を好きになる気持ちはぜったいに大切なもので、大事にしなくちゃならないものだって」
「それで相手を、傷つけることになったとしてもですか?」
「伝えられたほうは悩むかもしれない。でもそれは、苦しみとは違う。好きになった経験と好きになられた経験は、ぜったいに人生を豊かにしてくれるものなんだ。わたしはそう思う。周りの反対を押し切って貴文さんと結婚したわたしが言うんだもん。間違いないよ」
洞窟の中に、手が差し伸べられる。それを掴むと、温かい掌で、優しくぎゅっと包まれた。
「……初めて意識したのは、父とレストランに行ったときです。父が再婚相手を紹介すると言って連れてきた沙希さんの第一印象は、とてもいいとは言えませんでした。髪はまっきんきんに染まってるし、ピアスはいっぱい空いてるし、言葉遣いは荒いし。だけど、父と話す沙希さんは、すごく幸せそうでした。私に話しかけるとき、必ず視線を合わせてくれて、外見とは裏腹に、とても話しやすかったのを覚えています」
「あー、あのときはちょっと黒歴史というか、周りと違うのがカッコいいって思ってたから……そういえば白亜ちゃんはあのとき中学生だったね。すごく落ち着いてたから、高校生かと思ってた」
「ありがとうございます。沙希さんはそれまで見た大人の女性のなかで、一番綺麗な人でした。私もこんな綺麗でカッコいい女性になれたらと思って、ずっと沙希さんを目で追うようになりました。髪型も、ファッションも、いつも沙希さんの真似をして……」
「あはは、うん。覚えてるよ。ずっと後を付いてきてて、娘というよりは妹みたいで、可愛かったなぁ」
「沙希さんを女性として好きになったのは、父が亡くなって、親戚の家に棲むようになったときです。私はあのとき、ずっと嫌がらせを受けていました。それがずっと辛くて、逃げ出したいと思ったとき、真っ先に思い浮かんだのが沙希さんでした。沙希さんは私を優しく抱きしめて『大丈夫だよ』って何度も囁いてくれました。もしかしたら、これは恩なのかもしれません。感謝という気持ちが変容しただけの、勘違いなのかもしれません」
それでも、一過性のものでは決してないから。
まだ名前も上手く呼べないこの気持ちは、長年の時を経て腐り、熟成して、今に至る。
瞬発的な幸福感に酔うことで生み出される緻密に練られた完成度の高い幻などでは決してない。
「だけど、沙希さんと親子であると周りから言われたり、自分で説明すると胸がギュッてなるんです。それがずっと苦しくて、でも、沙希さんに触れたり、触れられたりするとその辛さも消えちゃって。私はいつからか、沙希さんにもっと近づきたいと思うようになりました。どうやって近づこうか、触れようか、声をかけてもらおうか、気に掛けてもらおうか、笑ってもらおうか。アリバイ作りと免罪符探しに躍起になっていた私の頭の中は、本当に、沙希さんのことばかりでした」
次々と溢れ出る言葉は、おそらくずっと私が吐露したかった罪なのだ。
パンパンに膨れ上がった醜い私は、気持ちを外に出せば出すほど、しぼみ、本来の姿に戻っていく。
「白亜ちゃん。聞かせて。それは、どういう好き?」
沙希さんが私の顎に手を添える。顔をあげると、暗闇の中でも見える、沙希さんの優しい顔が、私を見下ろしていた。
「恋、です」
言った。
言ってしまった。
罪状はなんだ。私はいつまで、この洞窟に収容されていればいい。
なんでもいい。死刑でもいい。とにかく私を、裁いてくれ。
「ありがとう。ごめんね、むりやりだったね。でも、必要なことだから」
沙希さんが、私の手にそっと両手を重ねてくる。ひんやりと冷えたその手には、汗が滲んでいた。
「わかったよ」
心臓がバクバクする。だが、最初の頃に比べると不快さは消えていた。
私は今、嵐のど真ん中にいる。もう逃げることはできない。私にできるのは、振り落とされないよう、しがみつくことだけだ。
「あのね、わたし、すぐには答えを出せない。でも、しっかり考えたい。それにはきっと、えっと、なんていうんだろう、知る必要がある気がして。だから白亜ちゃん、教えて? 何をしたいのか」
「何を、ですか?」
「わたしと、何がしたい?」
何度、夢見ただろう。いや、夢なんかじゃない。鮮明な意識の中で、私はこの景色を妄想し、水溜まりを走っていた。
「抱き、しめてほしいです」
「うん」
ふわりと、沙希さんの香りが舞う。バニラとアーモンドの混ざったような、甘く爽やかな香り。首と腰の後ろに回された沙希さんの手が、私の身体をしっかりと支える。
「あとは?」
「撫でてほしいです」
「わかった」
全部が受け身で、私の願望。自分がしてあげたいことなど一つもなく、そのすべてが自分本位な薄汚い欲望と慰めの手助けであった。しかし、それが私の望むものであり、私が怪物である証明だ。
長い時間、私は沙希さんに抱きしめられていた。
暗闇で視界が悪い分、それ以外の感覚に神経を集中できた。香りも、息遣いも、肌に伝わる感触も熱も、全部、私のもの……。
「白亜ちゃん」
沙希さんが私の髪を撫で上げながら、私の顔を近くで見つめる。
宝石のような瞳が、妖艶に揺らめいている。
「大丈夫だよ。わたしは白亜ちゃんの味方だから」
沙希さんの慈愛を含んだ笑みは、暗がりでも分かるほど赤みを帯びている。
「泣かないで、白亜ちゃん」
滲む視界は、きっと私の夢が叶った証拠だ。
「綺麗な瞳が台無しだよ。大事にしなきゃ」
沙希さんの指が、私の涙を拭う。
手に入れたくて、しょうがないもの。それまでの過程や葛藤は必要経費で、それを乗り越えた先で、それを手にしていればいい。
この気持ちは、理屈は、何も特別なことではない。
私だって、感じたことのあるものだ。
たとえばそう、中古品を買う時の気持ち。
安くても、ボロボロでも、いつまで持つか分からなくても、それでも買ってしまう。
だって、手に入りさえすれば、それでいいのだから。
「貴文さんと同じ、綺麗な琥珀色の瞳なんだから」
それを聞いて、
――ああ、思い出した。
森の洞窟に棲む悲しい怪物の絵本は、たしか昔、母に読んで貰ったものだ。
洞窟から出た怪物は、ある日森に迷い込んだ少女に恋をしてしまった。少女は何度も怪物に会いに来てくれて互いは次第に心を通わせていく。怪物は少女だけではなく、人間たちとも仲良くしたいと思うようになる。怪物は意を決して村に赴くが、そこにはおびただしい死体の山があるだけだった。
いや、違う。死体ではない。目をこらすと、それらは人間の形をしただけの『つくりもの』だった。呆然とする怪物の目の前に、あの少女が現れる。
『こんなところにいたんだ』
聞こえてきた声は少女のものではなかった。
空から大きな手が伸びてきて、その少女を掴む。それから積み上げられていた『つくりもの』も空に吸い込まれていく。
『お着替えの時間だよ』
そこでようやく、怪物は思い出すのだ。
自分が『人形』だったことを。
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