第3楽章
第17話 天才ピアニストの記憶
「それじゃあ
「はいっ!」
拍手喝采の景色を見ていると、コンクールに出ていた頃のことを思い出す。
すべての演奏が終わって、結果発表までの間、私はよく母と会場の外にあるCDショップに行って時間を潰していた。
母は流行のJ-POPコーナーを通り抜けて、クラシックのコーナーへと一直線へ向かう。CDケースに付属されている歌詞カードはどれも日に焼けていて、ケースにはヒビが入っているものも多い。
試聴コーナーに向かうと、母は決まって私がその日演奏した曲のCDを再生して、ヘッドホンを渡してくる。
「賞を取れるか取れないか、オリジナルの曲と聞き比べて答えてみて」
母は真剣な顔をして私の顔を覗き込む。
私が首を横に振ると、母は腰に手をあてて私を睨む。そんなことばかりだった。
母は私の演奏が賞に値するものだと信じて疑わず、対して私は自分の演奏が誰かの心を震わすものだとは思っていなかった。
着替えて会場に戻る頃には、ちょうど結果発表の準備が整っている頃だった。
私は何故か、毎回入賞してしまう。その日で一番上手だったと評されることもあれば、ギリギリ入賞というときもあったけど、どちらであっても母は声をあげて喜んでくれた。
母は家に帰ると手を洗うこともせずにグランドピアノの前に座って、私を呼んだ。私はもう疲れてヘトヘトだったのに、母は私の運指を見て「そこだ」「今だ!」とまるでスポーツ観戦でもするみたいに熱狂した。
晩ご飯の準備もせずに、そういえばお昼も食べてないことを私が告げると、仕事から帰ってきた父が母を叱った。
母は、ピアニストとしては一流だったのかもしれないが、母親としてはまったくのろくでなしだった。
そのせいで、家事のほとんどは父が担当していた。母は私といるときは必ず、ピアノを弾かせるか、音楽を聴くかだった。
そんな母の病気が発覚したのは私が小学四年生のときだった。夜中にお腹が痛いと言って救急車を呼び、緊急手術の後すぐに入院となった。
週末は必ず父とお見舞いに行っていたが、病院特有のアンモニア臭と、鬱屈とした雰囲気が嫌で途中からいかなくなった。
母の命がもうじき尽きると聞いたのは、それから半年ほど後だった。
私が半年ぶりにお見舞いに行ったときには、すでに母の病態は悪化し、喋ることもままならない状態だった。
母が色の悪い唇を開いたのは、父がちょうど先生に呼ばれていなくなったときだった。
「ピアノはちゃんと弾いてる?」
こんなときにまで、ピアノの心配か。
まだ小さかった私は、人の死というものの受け入れ方が分からず、つい苛立ってしまったのを今でも覚えている。
「弾いてない」
そう答えると、母の目から雫が垂れた。それは骨の浮き出た頬骨を伝い、枕に染みこんでいく。
母はそれから、長いこと天井を見つめていた。その白いキャンバスに、母は何を思い描いていたのだろう。
ふと、母の指先が動いているのが見えた。イチ、ニ、イチ、ニの2拍子で指がベッドのシーツを叩いている。母はなんの曲を弾いているのだろう。トルコ行進曲? 運命……ううん、もしかしたらチューリップかもしれない。
母の指が止まる。
母のコンサートには何度も足を運んだ。母の演奏が終わると、会場は割れんばかりの拍手に包まれ、涙する人までいる。
そんな母の、人生最期の演奏が、病院の一室で終わりを告げた。
「ねぇ、聞いてるの?」
合唱部の練習が終わると、
「
すぐにオーディションの件だと分かった。私は愛想笑いを浮かべて、カバンに楽譜を詰め込んだ。
「でもびっくり。白亜ちゃんって、おうちでピアノ弾けないわけだから、全然練習できないわけでしょ? それなのにちゃんと最後まで弾けてるのはすごいよ!」
佳代子さんはいつも、私と喋っているところを周りに見せようとする。今だって、私にだけ聞こえていればいいはずなのに、周りに聞こえるように喋っている。
「白亜ちゃんピアノ弾くの上手なのに、もったいないなぁ。ちゃんとしたおうちなら、練習もできて、私と良い勝負もできたのに」
「そうなんです。練習さえできていれば」
なんとなく、佳代子さんが欲しがっていたものが分かったので、餌を垂らして見る。佳代子さんは満面の笑みを浮かべて私の手を握った。
「白亜ちゃん可哀想……今度から第二音楽室のピアノ、白亜ちゃんが優先して使っていいからね! 私はほら、家に帰れば練習できるから」
オーディションまでの期間中、音楽室のピアノを占領していたのはどこの誰だろう。
佳代子さんは先輩たちと合流し、スキップをしながら音楽室を出て行った。
オーディション当日、私と佳代子さんは部員の前で課題曲の演奏をした。次のイベントでの伴奏者は部員の投票で決めることとなっており、演奏を聴いたあと、各自紙に書いて顧問に提出する形となっている。
先ほど顧問の坂井先生から発表があり、オーディションの結果、伴奏者は佳代子さんに決定した。
一年生なのに上手だったよ! 良い勝負だったね! と先輩たちは励ましてくれたが、私は別に、悔しくもなんともない。
「喜美、ちょっといい?」
帰りの廊下で
振り返るとき、なるべく無表情を貫こうと思った。この人には全部、見透かされている気がしてならない。
「手、抜いたでしょ」
倉石さんはブレザーのポケットに手を入れたまま、片足に重心を乗せている。睨む眼光には、どこか寂寥を感じさせる揺らめきがあった。
「抜いてないよ」
「本当に?」
「うん」
「そう。なら、単純に喜美が負けたってだけか」
どうしてだろう。倉石さんの伏せた瞳の揺らめきが、あの日の母と重なる。
「悔しい」
「え?」
「あたしは、喜美に勝ってほしかった」
古い蛍光灯の淡い光が、倉石さんの顔を薄く照らす。それが期待だということも分かっていた。佳代子さんには、私だって勝ちたかった。
佳代子さんは、血の繋がっていない私と沙希さんのことを見下している。生きることに精一杯な私たちに、ピアノなんて娯楽は似合わないと、そう言いたいのだろう。
そんな佳代子さんにオーディションで勝てば、この鬱憤も晴らされる。血の繋がりなど関係なく、大切なのは自分自身の努力とそれを応援する者との間に生まれる絆なのだと、そう証明できただろう。
しかし、私が望んだのは、そんな家族愛に溢れた美談ではない。温度のない無機質な絆こそ、私の迷いを晴らしてくれる。家族という呪縛を破るには、こうするほかなかったのだ。
「明日、時間ある?」
「えっと、お昼は用事があるから。午後なら」
「じゃあ、四時に校門前で待ち合わせ。逃げたらボコボコにする」
もう知り合って一ヶ月が経とうとしている。倉石さんが本気で人をボコボコにすることはないと思いつつ、鬼気迫るその言い方に、背中が震えた。
「どうして倉石さんはそこまでして、私に執着するの?」
「それも、明日教える」
そう言い残して去って行く倉石さんの背中をぼーっと見送る。
「帰らないの? 校門まで」
「あ、うん。いいの?」
「見えない敵と戦うな」
きっと倉石さんは怒っていて、私に失望したのだと思っていた。だから今もちょっと喧嘩っぽくなっちゃったし、そんな空気だから一緒に帰るのも気まずかった。
輪郭のない推測と憶測が生んだ、見えない敵。私の悪い癖を、倉石さんは的確に指摘してくる。
戦い続ければ強くなれるというわけではないらしい。私は弱々しい語気で返事をして、彼女の隣に付いた。
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