第18話 名前の付いた感情
土曜日の朝、目を覚ました段階で、九時は過ぎているだろうという感覚があった。
カーテンの隙間から差し込む日差しは朝よりも強く、外から聞こえてくる人の喧噪と車の走行音は平日よりも静かだ。
休日の朝というなだらかな目覚めを経て、私の意識は覚醒する。隣を見ると、
横向きに寝る癖のある沙希さんは、いつも何かを抱くようにして眠ることが多い。
小鳥のさえずりに混じる沙希さんの寝息は無防備で、開いた唇の隙間からうっすらと見える白い歯をじっと見ているだけでどんどんと時間が過ぎていく。気持ちよさそうな寝顔も、普段の快活な笑顔も、何かに夢中になっている真剣な顔も、金曜日のロードショーを観て泣いている顔も、見ていて飽きる日は、おそらく来ないだろう。
その中でも寝顔というのは特別だ。なにせ沙希さんは私よりも早起きなので、なかなかお目にかかることができない。化粧の取れた朝の寝顔は子供みたいに無邪気で純粋で、普段は表情を作っているのだなと実感させられる自然さを持っている。夕方昼寝したときに見る沙希さんの寝顔は化粧されていることもあって美しさと可愛さが保たれていて、寝ているはずなのにどこか笑って見える。
どちらも私の大好きな寝顔で、私が近くで動いたり咳払いをしたりすると、ピクッと瞼が動くのがまた愛らしい。私のことを意識してくれているのだと確認できるのも、嬉しかった。
沙希さんは起きるとき、パチッと勢いよく起きる。目覚めが良いのだろう。まるで起床した自衛隊かのようにキビキビと朝食を作りにキッチンへ移動する沙希さんは、しっかり者でカッコいい。
パジャマを着替えるよりも先にフライパンを用意して卵を割るなんて、どれだけ私に尽くしてくれるんだろう。申し訳なくも、それがたまらなく嬉しい。
そういえば沙希さんは、私以外といるとき、父といたとき……それよりも前。一人でいたときは、どうしていたんだろう。どんな朝を送っていたんだろう。今と変わらず、目覚ましが鳴るより先に飛び起きてキッチンに走っていたのだろうか。
沙希さんが料理をするようになったのはいつ頃なのだろう。まだ、炒め物するとき、野菜を焦げカスにしてしまうのは何故なんだろう。
まだ、私は起きてから身動き一つとっていない。布団を動かせば沙希さんにかかっている部分がめくれてしまい、それに気付いた沙希さんが起きてしまう。
だからじっと、沙希さんの寝顔を見つめながら、沙希さんのことを考える。そんな朝は、気付けば30分が経過していた。
このまま、私と沙希さんの間に永遠が訪れたらいいのに。
そう考えていたら、パチッと沙希さんが瞼をあげた。
「さむ」
ボソッと一言、沙希さんが言う。完全にオフというか、抑揚のない低い声だった。
「すみません、布団私のほうが多かったかもです」
「いいのいいの、動けばあったかくなるから」
足で布団のお山を作る沙希さんは、猫のように四肢を伸ばしてぴょんと起き上がった。
「おはよう
「えっと、沙希さんと同じで」
「じゃあ、はちみつティーにしよっか」
まだ見ぬ選択肢が飛び出たあたりで、私も布団からのそのそと這い出る。沙希さんは寒いと言っていたが、季節はまだ六月だ。これからどんどん暑くなる。そうしたら今みたいに寄り添うように寝るのは不自然だろうか。口実がなくなり、以前のようにまた別の布団で寝るようになるだろうか。
いや。
「沙希さん」
「なあに? やっぱりココアにする? この前もらった、紅茶?」
「いえ、そうじゃなくて。これから暑くなっても、一緒の布団で寝てもいいですか?」
口実なんてもういらない。だって私は沙希さんに、気持ちを伝えたのだから。
折り重なった欲望も、おびただしいほどに集まった私の我が儘も、言動の裏に隠れた醜い下心も、すべて沙希さんは知っている。
前までなら、きっと私は、こんなことは言えずに、どうすればまた沙希さんと同じ布団で眠れるか考えて、アリバイ工作に励んでいたのだろう。自分の布団を裁縫ばさみでズタズタに切り裂いて、口実を作ることだっていとわないかもしれない。
沙希さんはマグカップを用意しながら、曖昧に頷いた。
それが嬉しかったのか、悲しかったのか、自分でも分からない。
私は沙希さんの腕を、後ろからきゅっと握った。
無言の間がずっと続いた。沙希さんも私も、固まったまま動かない。
「いい、ですか?」
ようやく絞り出した細い声。
あなたのことが好きで好きでたまりませんという気持ちが、滲み出した声。
「いいよ」
きちんとした沙希さんの返事が聞けたのを確認して、手を離す。心臓がバクバクして、思わず沙希さんから離れる。
私はあの夜、沙希さんに想いを伝えた。沙希さんのことが好きで、その好きは家族とか、絆とか、そういう人間の血が通った根強いものではなくって、私個人が勝手に作った願望の塊。そういう好きをあなたに向けていますと、嘘偽りなく伝えた。
これは、恋だ。
この気持ちに名前が付いた瞬間、私と沙希さんの間に新たな空気が生まれる。それは恥ずかしさを伴う、充足的な気まずさだ。
今ので絶対、好きが伝わってしまった。そういう言動が、ひどい動悸を連れてきて、頬が沸騰しそうなほど熱くなる。だが、それは決して不快なものではなく、これまでのような罪悪感を伴うようなものではない。
果物を胸の中でギュッと絞ったかのような甘酸っぱさが、心を覆う。
辛い。切ない。でも、好きが止まらない。
ここまで来るのに、何年要しただろう。
私にとっての一番の恐怖は、拒絶されることと、うやむやにされることだった。でも、沙希さんはそのどちらも選択しなかった。
私の気持ちを尊重してくれると言ってくれた。私を否定しなかった。そしてちゃんと、私の好きという言葉に困惑し、恥ずかしがってくれた。それは私の好きが持つ意味を理解してもらえたということだ。
沙希さんから「わたしも好きだよ」と聞けることが私の最大の望みではあったが、それは高望みしすぎだ。今の段階ではまだ私の片思いは続いているのかもしれないが、羽をもがれたわけじゃない。
私は希望を持っていい。この人を信じていい。それが分かっただけでも、充分に私は幸せだった。かといって、この好機を手放したくない。
私は狡猾で、貪欲で、謙虚なフリをした傲慢な人間だ。がっつく姿を人に見せないだけで、心の底ではそれを手に入れたくて仕方がない。
昔、父に見せてもらった映画を思い出す。たしか、一つの指輪を様々な種族で奪い合い、争う、とても有名な作品だ。小さい頃はあの映画の登場人物に同情はできなかったが、今ならできる。
それを手に入れることが罪だと分かっていても、欲しいという気持ちに勝つことはできない。
指輪が欲しくて人を欺き傷つけた者もいた。私はおそらくそちら側の人間だ。指輪をそっと両手で包んで「これはあなたのものだ」と紳士的に拒む正義の味方もいたが、私はきっとそれにはなれない。
「沙希さん、私も何かお手伝いします」
「ええ? いいのに、白亜ちゃんは座ってて?」
「いえ、手伝いたいんです」
あなたに好きになってもらいたいから。
これは善意ではない。私が気が利いた人間だからではない。全ては腹の底で煮えくり返っている底なしの下心のため。
「はちみつティーなら砂糖いりますよね。たしかこの棚に」
普段は私が絶対に開けない棚。だけど、紅茶用の角砂糖はたしかこの中に入っていたはず。
換気扇を掃除する用の脚立を使って、上の棚に手を伸ばす。
「白亜ちゃん待って!」
別に、制止を押し切ったわけじゃない。同時だったのだ。
棚を開けたそこには、角砂糖の入ったシュガーケースの他に、市販の咳止め薬や睡眠薬が入っていた。
私はシュガーケースを取って棚を閉める。
「咳、出るんですか?」
「うん。花粉症とか、ハウスダストとか。ありがとう、白亜ちゃん」
シュガーケースを受け取った沙希さんは、スプーンで角砂糖を二つほど取ると、今度はシュガーケースを、足元の棚にしまった。
さっきの沙希さんの声は、とても焦っているように聞こえた。どうして?
脚立を使わないと届かないような棚に薬を隠しているあたり、見られたくなかったということだろうか。
咳止めや睡眠薬は、私の父や母も時々使用していたものだし、父にいたっては睡眠薬を買い置きしていたこともある。だから別に、この二つの薬が見られてはいけないものだとは思えない。
沙希さんは、なにか重い病気を患っていて、それを私に隠している?
いや、沙希さんの職場では毎年健康診断を行っていて、沙希さんは去年、身長が伸びたと嬉しそうに診断結果を私に見せてきた。視力はB判定だったようだが、それ以外はすこぶる健康のようだったし、病院に通っている様子もない。
私にバレないように通院していたらそれまでだが、それでも、病気……とくに命に関わる病気ではないと断言できる。
なぜなら沙希さんからは、あの独特の『死の香り』がしない。母が生前、体長を崩した途端、香りはじめた、あの香り。放置した雑巾のような、渇いた油のような、その香りが沙希さんからはしない。土気色の顔色でもないし、発熱もなく、怠そうに身体を庇うことも、息切れも、吐き気を催すことも見たところないようだ。
沙希さんは健康だ。少なくとも、私の母のような状態ではない。
買い置きしているのを見られたくなかった……?
ぱっと見ただけだから正確ではないが、咳止めと睡眠薬はそれぞれ十箱ずつほどあったように見えた。一箱十五錠入りだとして、およそ百五十錠。しかし、私の父も睡眠薬を三箱ほど買い置きしていたので、その数が異常だとは言い切れない。
「じゃじゃーん、イギリスパン。昨日喫茶店で買ってきたんだ。トーストするとすっごく美味しいんだって! ジャムとマーガリン、どっちにする?」
「じゃあ、ジャムで」
沙希さんは意気揚々と朝食の準備を始める。
トースターの中でジリジリと焦げていくパンを眺めていたら、鼻先が熱くなって飛び下がる。それを見られていたようで、沙希さんは「美味しそうな鼻にジャム付けちゃうよ?」とおどけて言った。私も沙希さんの冗談に笑いながら「やめてください」と答えた。
私は沙希さんのことが好きだ。どんなことがあったって、その気持ちが揺らぐことはない。
だけど、それと同時に。
私はこの人のことを、全て知っているわけではない。
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