第15話 悪魔の囁き

翌朝、私は異様な静けさに目を覚ました。静寂に起こされるというのも変な話だが、いつも必ず聞こえてくる沙希さきさんの鼻歌が聞こえないせいでつい起きてしまったのだ。


 着替えてリビングに行くと、手紙が一枚、テーブルに置いてあった。沙希さんからのものだ。


 それは急に早出が決まって、朝は食べないで出るとのことだった。手紙と一緒に、今日のお昼ご飯代が置いてあった。


 朝ご飯は食パンをトーストして、チーズを載せた。いつかの沙希さんとの会話を思い出して、二枚乗せた。ちょとだけ贅沢な朝食は、一人だったせいか少し寂しく感じた。


 テレビを消して、学校に向かう。家の鍵を閉めるのは、いつぶりだろう。母が生きていた頃は、私が家を出るのが一番遅かった。何度か鍵をかけ忘れて家を出てしまったこともあって、怒られたこともある。


 鍵を閉めると、大切な何かを広い空間に閉じ込めたかのような気持ちになる。もう一度鍵を開けて、部屋に入る。その行動には何の意味もない。儀式的な行為だ。


 金曜日ということもあって、学校の空気は浮き足立っていた。休日というものは、何度繰り返しても胸が躍るものだ。みんな、駅前に出来たソフトクリームを食べられるお店の話をしていたり、土曜日の催し物の話で盛り上がっている。


 私にとっての休日は、沙希さんとの二人きりの時間を楽しむためのものだ。


 母や父と二人きりになりたいだなんて思ったことはない。つまり、沙希さんへの気持ちは、そういうことで、間違いないだろう。


 自覚はあるし、今更勘違いだなんて言うつもりはないけれど、その気持ちに名前を付けて呼ぶのはまだ抵抗がある。


 それは価値観や倫理観からくるものではなく、ただ、あまり期待したくないだけだ。


 私のこの気持ちは、おそらく報われる可能性はかなり低い。


 私はきっと、人並みの幸せを手にすることはできない。


 失ったときのショックを抑えたいから、心に直接触れるようなことはしたくないのだ。


 家に帰ると、すでに鍵は開いていて、ちょうど沙希さんが紅茶を淹れているところだった。


「おかえり白亜はくあちゃん。今日部活はなかったの?」

「今日は旧校舎の工事があるらしくて、五時で終わりでした」

「そうなんだ。あ、紅茶飲む? 今日先輩からもらったんだけど、スリランカのお茶なんだって。なんか本格的でしょ?」


 沙希さんが紅茶の葉が入った袋を見せてくる。たしかに、ティーパックじゃない紅茶は初めて見たかもしれない。


「最初にカップをお湯で温めて、そのあと蒸すんだって」


 スマホを横に置いて、なにやら紅茶の淹れ方を紹介している動画を見ているようだった。


「白亜ちゃんのも用意するね」

「あ、私出します」


 ちょうど沙希さんが食器棚に手を伸ばしたときに、つい私も手を出してしまった。指先が当たって、互いに手を引っ込めた。バレーボールでいうとこういうのを、お見合いっていうんだっけ。


 だけど、沙希さんは私から視線を外して、焦ったように俯いている。


「ご、ごめんね白亜ちゃん。どうぞどうぞ、取って」


 沙希さんの様子に首を傾げながらも、私は自分のカップを取って紅茶を淹れてもらった。


 茶葉を抽出した紅茶をティーポットに移して、カップに注ぐ。ストレーナーという見慣れない道具を使って、いわゆる「茶こし」なんだと沙希さんは言うが、そもそも「茶こし」の意味が分からなかった。


 沙希さんも聞きかじった程度らしく、動画を見ながら難しい顔をしていた。


 よくわからない一手間を加えて淹れた紅茶は、正直言えば不思議な味をしていた。どこかメントールのような風味があって、最初の一口は驚いたが、それから次第に慣れていった。


「白亜ちゃんはこういうの慣れてると思ってた」


 私が平気な顔をしていたからか、渋い表情をしていた沙希さんがそんなことを言う。


「どうしてですか?」

「だって、白亜ちゃんのお母さんってすごいピアニストだったわけでしょ? いろんな国を行き来してたって聞いたし、こういうお茶も飲んだことあるのかなって」

「あの人はピアノバカと呼ばれた人でしたから、お茶とか服とか、そういうのには興味ありませんでしたよ。パリから帰ってきたときは、同じようなメトロノームを何個も買ってくるものだから呆れてしまいましたけど」

「あはは、面白いね、白亜ちゃんのお母さん」


 紅茶を飲む沙希さんは、身体が温まったのか、少しだけ頬が赤く染まっていた。


 それからご飯を食べて、夜、お風呂に入るときのことだった。


 脱衣所に洗顔料を置きっぱなしだったのを思い出して、私は浴槽を出た。朝に洗顔するときに浴室から持ち出して洗面所で洗うのだが、いつもはお風呂に入るときに持って行くのに今日は忘れてしまったのだ。


 浴室を出ると、洗面所で歯を磨いていた沙希さんと鉢合わせた。沙希さんも私が急に出てくるとは思っていなかったらしく、むせていた。


「す、すみません。洗顔フォームを」

「あ、う、うんっ」


 沙希さんが洗顔フォームの容器を渡してくれる。受け取る際に、沙希さんの顔を覗き込んだ。沙希さんは、私と目が合うと、口に付いた歯磨き粉も落とさずに脱衣所から出て行ってしまった。


「え、あ、沙希さん?」


 そんな慌てなくてもいいのに、と思いながら私は顔を洗って、再び浴槽に浸かる。


 なんか、今日の沙希さんちょっと変だな……。


 どこか挙動不審というか、私と目が合うと肩を跳ねさせたり、目を逸らしたり、顔を真っ赤にしたり。まるで、沙希さんとデートしてるときの私みたいだ。


 その日はいつもより早く、十時半には就寝した。電気を消して、布団に入る。


 まだ自分の髪から、シャンプーの香りが消えない、そんな入浴を終えてすぐの就寝だった。


「沙希さん」


 声をかけると、沙希さんがしゃっくりのような声をあげてから「なにっ?」と上ずった声をあげた。


「なんだか眠れなくて、ちょっと話を聞いてもらってもいいですか?」

「は、話って!?」

「え、いや、学校のこととか」


 大きな声で反応されたので、私まで驚いてしまった。


 それから私は学校のこと、主に部活のことを話した。ちょっとおふざけの過ぎる男子部員の話や、ユニークで明るい先輩たちの話、素行は悪いけどストイックで譜面にはぎっしりメモを取る倉石くらいしさんの話。名前は伏せたけど、ちょっとだけイジワルな先輩の話も。


 合唱からピアノの話に移り変わると、次第に私がピアノを習っていた頃の話になった。


「そうなんです。私、ピアノをやってるくせに、指が長くなくて。母ではなく、父の指を遺伝しちゃったみたいで」

貴文たかふみさん、たしかに自分の手をグローブみたいって言ってたね。でも、かわいらしいと私は思うけど。というか白亜ちゃん、そんなに指短かったっけ?」

「そうなんですよ。ほら」


 手をパッと布団から出す。


 それに気付いた沙希さんも、手を伸ばして重ねてくれた。


「沙希さんの方が長い」

「あれ、ほんとだね」


 ほんのちょっとの触れ合いのはずだった。しかし、私の手のひらはじっとりと汗ばんでいる。まるで指を絡めて手を握り合っているみたいに。


 指の長さを見るためなのに、私は指の先にある、沙希さんの顔を見ていた。


 並べた布団、隣通し。お互い横向きになって、見つめ合う。


「それに、細くて綺麗」


 沙希さんの指はまるで、新雪を乗せた木の枝のように白くて細い。それにたいして掌はとても小さく、頭身で例えたら九頭身くらいはありそうだった。


「あっ」


 その美しさを確かめるために沙希さんの指に触れると、沙希さんが手を引っ込めてしまう。


 私も、自分のとった行動に時間差で恥ずかしくなってきて思わず「すみません」と謝った。沙希さんはもしかしたら「気にしないで」とか、言うかもしれないけど、それでも言わずにはいられなかった。


 しかし沙希さんは、返事をしない。


 ふと、隣の布団を見る。沙希さんは、私の触れた指を自分の指でなぞりながら、くぐもった声で「ううん」と儚げに、頼りなさげに言った。


 やっぱり、今日の沙希さんは少し変だ。


 どうして? 仕事で何かあった? 悩みがある? 


 私にも力になれることがないかと、思考を巡らせて沙希さんの様子と照らし合わせる。


 沙希さんがこんなに、変になってしまった原因。こんな、挙動不審に、語尾を縮こまらせて、私の顔を盗み見るように、何度も視線をこちらによこしては逸らしてを繰り返す……。


「沙希、さん?」


 思考の道筋に、大きな、とても大きな行き止まりの壁があった。


 それにぶつかると、私の心臓までバクバクと高鳴ってくる。


「もしかして」


 私が思っていること。


 そして、私が言おうとしていること。


 それらを予測し、推理し、言うより先に、沙希さんが顔をあげる。


 答え合わせは、その潤んだ瞳と、困惑の表情、震えた唇の中にあった。


「昨日、起きてました?」

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