第14話 破滅への羽ばたき

 誰かが誰かに「好き」と伝えた数だけ、この世界には光が灯る。


 学校から家へ帰るまでの10分足らずの間だけでも、十数件の家を通り過ぎる。その家には当然だが家庭というものがあって、母と父が存在する。母と父は、要約してしまえば『恋』という幼虫が栄養を蓄え、蛹となり、羽化した存在である。


 元を辿れば、必ずどちらかが『好き』を伝えたはずだ。幼虫という過程をすっ飛ばして、成虫になったりはしない。そう考えると、好きな人に想いを伝えるというのはこの世界で当たり前に行われていることで、私もその営みの一欠片であるということだ。


 すれ違うカップルも、親子も、必ずその人たちの間には『好き』を伝えるかどうか悩んだ過去があり、葛藤がある。そう考えると、好きな人に好きと言うことは、朝クラスメイトに挨拶をするくらい、当たり前のことなのかもしれないとさえ思えてくる。


 家までの10分という時間は、この考えを整理するにはあまりにも時間が足りなかった。


「あ、白亜はくあちゃん! おかえりー、ご飯もうちょっと待っててね。このあいだお母さんに教えてもらったほっけの明太ホイル焼きっていうの試してるの」


 家に着いて靴を脱いでいると、エプロンを着けた沙希さきさんが私を出迎えてくれた。キッチンの方から、魚の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。


 沙希さんはあまり自炊をするほうではない。料理が苦手というわけではないのだろうが、沙希さんは料理をしている最中ボーッとすることが多い。そのせいで味噌汁を地獄の釜みたいに沸騰させたり、野菜を乾燥わかめみたいに焦がすことがある。それは沙希さんも自覚しているようで、火を使うことを避けている。そのせいで我が家の食事はスーパーのお惣菜か、外食がメインとなる。


 そんな沙希さんが、明太のホイル焼きだなんて手間のかかりそうな料理をしているなんてただごとじゃない。


 カバンを勉強机に置いてリビングに戻ると、沙希さんが味噌汁と野菜炒めを並べてるところだった。地獄の釜でも、乾燥わかめでもない。


 お茶碗と箸を用意している間に、ほっけのホイル焼きが出来上がった。フライパンの蓋を開けると、レモンか何かのさっぱりとした香りが煙と共に立ちこめる。お皿に載せて、最後にポン酢をかけると、沙希さんは椅子に座って私を手招いた。


「やっと上手にできた! 白亜ちゃん白亜ちゃん! 食べてみて!」


 やっと、という言葉に少しだけ引っかかる。ほっけの明太ホイル焼きは、少なくとも私は初めて口にする。


 アルミホイルに包まれたほっけにはえのきとしめじが乗っていて、皿にはキウイや菜っ葉、キュウリなどの緑野菜が添えられている。


 口に運ぶと、素直に「美味しい!}と思った。それを沙希さんに伝えようとするが、目が合うと、沙希さんはホッとしたように胸を撫で下ろした。


「よかった。時間があるときは、また作るからね」


 まだ言葉にしていないのに、美味しいということが沙希さんに伝わる。沙希さんは人の顔色に敏感だ。しかし、過敏というわけではない。あくまで沙希さんの感受性の豊かさから、私の胸中はしばしば見透かされることがある。


 もし、私の気持ちがバレているのだとしたら。そう考えたら、急にご飯が喉を通らなくなる。


 しかし、自慢ではないが私も人の顔色はよく窺う方だ。沙希さんが私の気持ちに気付いている様子はない。ホッとしたようで、しかしどこか、残念でもある。


 今日、倉石くらいしさんは私に「伝えないの?」と聞いてきた。


 私は、伝えたいのだろうか。分からない。ただ、私の沙希さんへの想いは日に日に強くなっている。沙希さんのことを考える頻度が増えたし、心の容量的なものが足りない感じもする。 容量を開けるには溜まったものを排出するしかない。現に、今日だって倉石さんに、私は沙希さんを好きだということを話してしまった。話すと少しだけ楽になる。


 だが、こうして沙希さんと二人きりになると、またすぐに容量がなくなる。家にいる限り、沙希さんと二人きりという状況は続く。このまま心が濁流で溢れかえったら、私はそれを掬うしかない。


 ご飯を食べたあと、私はいつも通りテレビの前でスマホをいじっていた。特に調べるものがあるわけではないが、面白い動画などを見つけて沙希さんに教えれば、それが話す口実となる。


 小鳥たちが並んで水溜まりをジャンプしている動画があったので、沙希さんに見せに行った。


「わぁ、かわいいね」

「一匹だけ怖がってなかなか跳ばないのも、なんだかいいですよね」


 スマホを覗き込むように屈む沙希さんのまつ毛を追っていると、目が合ってしまった。いきなり仰け反っては視線を避けているように思われかねないので、離れるフリをして後ろのソファに寝転んだ。


 沙希さんはそのままお風呂を沸かしに行った。私はソファに顔を埋めながらうめき声をあげる。


 まるで、クラスの男の子を好きになった女の子のような、甘酸っぱい一時と、幸福感すら覚える焦燥感に嫌気が差す。私に、純粋な恋愛をする資格などあるのだろうか。


 ヨハネス・ブラームスは、恩師であるシューマンの妻、クララに恋をしていたという。恩師である他にも、友情や尊敬、それ以上の絆をブラームスは育んでいたはずだ。そんなシューマンの妻に恋をしようものなら、それは『禁断の恋』などと揶揄されてもおかしくはない。


 なんとなくだが、ブラームスもそれは承知の上だったと思う。ただでさえ引っ込み思案で、考え込んでしまう性格のブラームスだ。自分の気持ちで誰かが傷つき、信頼関係にすら亀裂が入りかねないことは用意に想像できたはず。


『残念。正解は、伝えたでした』


 倉石さんは私のそう言うと、スッキリとした顔で夕陽の方角へと歩いて行った。


 ブラームスはなぜ、禁断の恋と分かっていながらクララに想いを伝えてしまったのだろうか。その恋が報われる一縷の希望に賭けて博打に出るような人物ではないような気がするが……。


 入浴も終えて、布団を用意した私と沙希さんはいつも通り十一時に就寝した。


 電気を消してから寝入るまで、私はずっとブラームスのことを考えていた。頭の中では、『ドイツ・レクイエム』のメロディが鳴り響いている。


 私の母は、作曲者が曲に込めた想いを知れとよく言っていた。私の苦手だった『ピアノソナタ第三番』は、演奏こそ難易度が高いものではなかったが、音階の幅が広かった。それは曲に込められた感情の揺れが激しいということである。しかし、どうして内向的なブラームスがそんな曲を作ったのか。


「あれ、窓って締めたっけ」


 沙希さんがむくりと起き上がって、私の思考も中断される。特に眠かったわけではないので、すぐに「締めたはずですけど」と返事をした。


「だよね? うーん、でも一応見てこよ」


 一度心配になるとなかなか頭から離れてくれない気持ちはよくわかる。沙希さんは布団から抜け出して、立ち上がろうとした。


 だが、その拍子にバランスを崩したのか、突然、沙希さんが私に覆い被さってきた。


 ちょうど仰向けになっていた私の目の前に、沙希さんの顔がある。驚きすぎて、声が出なかった。沙希さんも小さく「あっ」と言うだけだった。転んだことに、自分でも驚いているらしい。


 すぐにどいてくれたらいいのに、沙希さんはじっと私の顔を覗き込んだまま動こうとしない。


 私の顔の横に置かれた手。眼前にある沙希さんの顔。ちょっと身体を反らせば当たってしまう胸とお腹。ちょうど股に当たる位置に沙希さんの膝があって、私は心臓が破裂しそうだった。


 洞窟の中で何度も見た光景だ。私はこの光景を夢見ながら、雨の中を走っていた。


「ご、ごめん白亜ちゃん」


 沙希さんは身体を起こすと、部屋を出て廊下の窓を確認しにいった。


 私は顔まで布団を被って、丸くなった。


 アホだ。バカだ大バカだ。


 私、今なにを考えていた?


 このまま事が進んでいってくれたらいいと思った。


 してほしいって思った。


 抵抗なんかしないから。


 そんなことを願う私は、いったい、どんな顔をしていただろう。誰よりも欲深いくせに、まるで偶然を装うみたいに、それなら仕方ないよねとなし崩しに従うように。


 きっと、怪物の顔をしていたに違いない。


 部屋に戻ってきた沙希さんは、特に何を言うでもなかった。ごそごそと、布団に入る音が隣から聞こえてくる。


 もう終わり? 寝ちゃうの? もう一回さっきのを……。


 目の前にあるのは『禁断の恋』。沙希さんが私にくれるのは『呪われた果実』。朱く熟し、見るだけで涎が出てしまうほどの蠱惑敵な果実は、一度囓ったらその味を忘れられず、どんな過ちでも犯してしまうようになる。


 ああ、そうか。ブラームス、あなたもそうだったんだ。


 恋というものが尊く、伝え合うことが愛の証明であるから伝えたんじゃなかったんだ。


 なんとなくだけど、私には分かる気がする。


 ブラームスも、怪物になりたかったんだ。


 いつまでも人間でいられる自信がなかったから、自分にかけられた呪いを解く。だからブラームスは、恩師の妻にさえ、想いを伝えた。


 私もそうだ。


 人間のフリをして沙希さんと接する自分が、気持ち悪くて仕方がない。本当はそういう目で見ているくせに、中途半端に残った良識で理性を抑えている。


 だけどもう、限界なのだ。倉石さんに簡単に話してしまったのがその証拠だ。私はもう、一人で抱えられなくなっている。このまま自分を制御していたら、いつか必ず、暴走する。


 ならその前に、伝えたい。


 私は、伝えたいのだ。


「沙希さん」


 布団をはがして、沙希さんの枕元まで這っていく。


 寝息を立てていた沙希さんに顔を近づける。


「さっき覆い被されたとき、ずっとドキドキしてました」


 言ってしまえば、恥はなかった。


 ただ、真っ黒い悲しみにも似た諦めのようなものが、私の心と、唇を覆っていく。


「好きです」


 沙希さんの瞼が、ピクッと動いた。しかし、起きることはない。


 なら、してしまえ。


 桜色の、淡い唇めがけて、顔を落としていく。


 いつも私の名前を呼んでくれた唇。私が辛いとき何度も「大丈夫だよ」と言ってくれた唇。


 私はきっと、親戚の家から逃げて、沙希さんに助けを求めたあの日から、とっくに怪物だったんだと思う。


 沙希さんは私を本当の娘みたいに、家族みたいに大切にしてくれた。私はそのおかげで何一つ不自由ない生活を送れた。沙希さんと過ごす日々は本当に楽しくて、一緒にどこか出かけたり、ご飯を食べに行くのは友達と出かけるのとは違う、沙希さんとじゃなきゃ生まれない楽しさと充足感があった。


 私は沙希さんのことが好きだ。本当に、心の底から沙希さんのことを想っている。


 ……できるわけ、ないじゃないか。


 きっと私にかけられた呪いというものは、とんでもなく強いものだ。この呪いをかけた奴は、さぞ名のある魔法使いだったのだろう。


 沙希さんから離れて、自分の布団に戻る。鼻を啜る音が聞こえてしまわないように、布団にくるまった。


 私はブラームスにはなれない。私とブラームスが同じ人種であるなら、母に弾けと言われた『ピアノソナタ第三番』も簡単に弾けたはずだ。違うから、きっと、音に込められた感情というものを理解できなかったのだ。


 僅かに残った、人間の記憶。


 それが怪物になる私の邪魔をする。


 自分の弱さに打ちひしがれる夜は、とても長く感じた。

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