第26話 すべては大好きだから

 肌を晒しながら言うことではないかもしれない。沙希さきさんからしたら、雰囲気もへったくりもないかもしれない。だけど、今言いたかった。


 明日、明後日。そのときには、正面から話し合える気がしなくて。


「どうして?」


 沙希さんは困惑、いや、落胆したような声色だった。私はすぐに謝ろうとした。ごめんなさい、今のは嘘です。どこにも行かないで。


 どちらもきっと、本音だった。


 沙希さんと離れるのは辛いし、苦しい。だけど、沙希さんがこのままお父さんと会わないままなのは、とても虚しい。


「最期のときくらいは、一緒にいてあげてください」

こずえと同じこと言うんだね」


 とっくに、酔いなど醒めているのだろう。浮ついた舌っ足らずな話し方は、もうどこにもない。


白亜はくあちゃんには関係ないでしょ? これはわたしの家の問題だから」

「後悔しますよ」

「そんなの、わたしが決めることだよ」

「沙希さんに悲しい思いをしてほしくないんです」

「悲しくなんかない。だってお父さんは、ずっとわたしのことが嫌いなんだもん。梢から聞いたでしょ? わたし、あの家の娘じゃないんだって。出て行けって言われて、わたしはそのまま出てきたようなものだもん。貴文たかふみさんとの関係だって、あの人は最後まで認めてくれなかった」


 沙希さんの手が、私の胸の前で止まる。


 冷たい。眼差しも、声も、空気も。沙希さんとお父さんの関係は、高校時代のときに凍結してしまったのだと、私は気付いた。


「もういいでしょ。白亜ちゃん」

「よくないです。実家に帰ってください。お父さんが病院から実家に移ったのだって、最後は何もない病室じゃなくて、ずっと生活を共にしてきた家と、家族と、過ごしたいからじゃないんですか」

「わたしが実家に帰ったら、白亜ちゃんはどうするの? まさかこの家で一人で過ごすつもり? ご飯はどうするの?」

「それは、頑張ります」

「セキュリティだってそんな厳重じゃないんだよ、このアパート。もし高校生の女の子が一人で住んでるって誰かにバレたら、大変なことになっちゃうかもしれないんだよ。白亜ちゃんをこのアパートに一人置いていくなんてできないよ」

「なら私も、一緒に行きます。沙希さんの実家に着いていきます。もしお邪魔だったら、父の祖父母に連絡を取ってみます。九州なので遠いですけど、なんとかなります」

「できるわけないよ、そんなの」

「どうしてですか? 私、別にどこにだって行きます」


 沙希さんはどうしてここまで頑なに、このアパートから離れようとしないんだろう。そこまでお父さんと会いたくないのだろうか。でも、やっぱり私は会ってほしい。


 歳が上なのは、沙希さんかもしれないけど。私の方が先に両親を亡くしてる。経験も、後悔も、葛藤も、沙希さんよりたくさん知っているつもりだ。


 沙希さんにそれを分かってもらいたい。


 だけど、沙希さんは私の手を振り払うように、半身を私に向けた。


「無理だよ。帰れないよ」

「一ヶ月だけでも、ダメですか」

「うん」

「もう、会えないってことなんですよ」


 死という単語はなるべく出したくなかった。でも、この事実だって言うには心が痛んだ。私ですら胸が引き裂かれる思いなのだから、沙希さん本人の苦悩は、計り知れない。


「会わない」

「なんで!」


 つい声を荒げてしまう。


 これだけ言っても、まだ分からないのかと、頭がカッと熱くなる。沙希さんの肩を掴んで、そっぽを向いていた顔をこちらに向かせようとする。


 どうしてこんなに聞き分けがない――そこまで思って、私はハッとした。


 沙希さんの、私を見る顔。それは、いつも、私に向けていた、優しさに溢れる表情だった。


「白亜ちゃんの邪魔をしたくないの」

「邪魔って……」

「私のせいで白亜ちゃんが、遠くに行く? 私の実家なんて、新幹線でも二時間かかるんだよ。九州なんて、飛行機だよ……」

「だからいいですって、私は――」

「転校するってことなんだよ!?」


 沙希さんの瞳が潤んでいる。電気の消えたこの部屋でも、はっきりと見えた。


「白亜ちゃん、お友だちできたでしょ? 倉石くらいしさん……すごく仲良さそうだった。それに、部活だって始めた。白亜ちゃん、部活に入ってからは毎日が楽しそうだった。登校するとき『行ってきます!』って元気に言ってくれるの、私、すっごく嬉しかった。白亜ちゃんが楽しそうに学校に行けてることが、わたし、なによりも幸せだったんだよ」


 なんで、忘れていたんだろう。小林さんから話を聞いて、この人の人物像がぼやけていたのかもしれない。


 沙希さんはこういう人だった。自分のことなんか後回しで、いつも他人の幸せを願ってる。そんな沙希だから、実家に帰りたくない理由は自分ではなく、私にあったのだ。


「それに、ピアノ、始めたでしょ?」

「私が自分で始めたんじゃないんです。あれは、半ば強引に伴奏者に選ばれて」

「貴文さんから聞いてたの。白亜ちゃん、お母さんが亡くなってからめっきりピアノを弾かなくなっちゃったって。貴文さんね、家にあるピアノ、売るのずっと迷ってたんだよ。でも、金銭的にしょうがなくって、このアパートに引っ越すときに楽器店の人に引き取ってもらったんだけど、そのとき貴文さん、泣いてた」


 私の家のピアノは、小さい頃、母が買ってくれたのだと、父から聞いたことがある。とても大きなグランドピアノで、奥に物が落ちると中々取れず、写真立てが落ちたときは家族総出でピアノを動かそうとした思い出がある。


 そんなピアノは、たしかにここへ引っ越す直前、いつのまにか我が家から消えていた。


 父が泣いていたなんて信じられない。だって父は、何も言っていなかった。


「白亜ちゃんにピアノ弾いてほしいって貴文さんは思ってたの。でも、それは白亜ちゃんの自由だから、直接は言えないんだって。だから、わたし……白亜ちゃんが合唱部に入って、ピアノを弾き始めたっていうとき、ビックリしたんだよ。嬉しくて、嬉しくて、何度も、仏壇で貴文さんに報告したの」


 沙希さんが私の指を撫でる。


「白亜ちゃんがピアノを弾き始めたのは、全部が全部、巡り合わせなんだよ。素敵な学校と、大切な友達、そして楽しい部活。その全部があったから、今の白亜ちゃんがあるの。わたし、応援したいの。白亜ちゃんが思うように、好きなこと、やりたいことをできるように」

「だから、私の巡り合わせを断ち切りたくないから、沙希さんは、実家に帰らないということですか?」

「そうだよ。私の実家に沙希ちゃんが付いてきたとしても、転校は免れない。貴文さんの実家を選んでも、同じ事」

「私がこのアパートで一人、暮らすのも」

「ダメに決まってる。もし白亜ちゃんの身に何かあったら、わたし、きっと耐えきれない。貴文さんに会わす顔がないよ」

「なら、もし……私の意思で、行きたい場所があると言ったら、どうしますか?」

「え?」

「沙希さんが実家に帰っている間に避難する場所じゃなくて。私の行きたい場所。私のやりたいこと、私の夢。それらがある場所に、私が行きたいって言ったら、沙希さんはどうしますか」

「そんなの、場所によるよ」


 沙希さんの答えはもっともだった。


 簡単に肯定しないのは、きっと私のことを思ってくれていて、本当に心配してくれているからなんだろう。その優しさが温かく、痛いくらいに手放しがたい。


 でも、それでも私は、お父さんと過ごすことを選んでほしい。


 私みたいに後悔して、懺悔のような人生を過ごしてほしくない。


 幸せでいてほしい。


 別に、偽善じゃないし、正義感からくるものでもない。全人類に幸福になってほしいわけじゃないし、地球平和を望んでいるわけじゃない。


 ただ、沙希さんは私の大好きな人だから。


 大好きな人には、いつまでも笑っていてほしい。本当にただ、それだけの理由なのだ。


「明日、話します」

「白亜ちゃん……」

「もう寝ましょう、沙希さん」


 私はパジャマを着て、掛け布団を被った。


 沙希さんは返事をしなかったが、しばらくして布団に入ったようだった。


 一度だけ沙希さんが私の名前を呼んだが、私は聞こえなかったふりをした。


 秒針が動く音に合わせて、指を弾く。いつかの母がやっていたように、自分の太ももに、指を這わせ、拍子を刻んだ。


 眠るために目を閉じると、冷たくなった涙が一粒、頬を伝っていった。

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