第25話 初夜の旋律は遠い空に響く

「あ、の、沙希さきさん」

「さっきからずっとわたしの名前呼んでる。かわいい」


 顔が赤い沙希さんの口から、まだアルコールの香りがする。私の母も父も、お酒は飲まなかったので酔うという状態が私には分からない。


 思ってもいないことさえ言ってしまうようになるのか、それとも、普段思っていることを実行に映しやすくなるだけなのか。後者であれば私も覚悟を決められるけれど、まだ何の保証もない。


 それでも自分の身体が、事の準備に差し掛かっているのを感じる。


 もし、もし沙希さんに追い詰められて、逃げ場がなくなったら。そんな妄想なんか、これまで何回だってしてきた。どういう反応をすればいいのか、なんて答えればいいのか、一通り考えて、結局口数少なく、身を任せるという結論に辿り着いた。もしその時がきたら、そうしようって、宝くじが当たった時の妄想みたいなことをしていた。


 沙希さんが私の首元に顔を埋めて、すーっと匂いを嗅ぐように息を吸う。恥ずかしさで死にそうだった。お風呂の後というのが、せめてもの救いだろうか。


「お父さん、入院してるんですか」

「うん」


 私は天井を見ながら、沙希さんの耳元で囁いた。私の首の後ろで、沙希さんが小さく頷いたのを感じる。


「もう、長くないって」

白亜はくあちゃんが気にすることじゃないよ」


 背中をさすられて、開いた手では頭を撫でられる。沙希さんにこんな風に触られたのは初めてだ。優しい手つき、だけど何かを探るような、私の反応を窺うような、そんな触り方。


「白亜ちゃん、服、脱がしてもいい?」

「え、えっと、あの」

「脱がすね」


 優しいけど、ちょっとイジワル。だけど、自分の希望が全て通るわけじゃないんだという不合理が、どうしてか私の胸をゾクゾクとさせた。そして、沙希さんの表情がちょっとだけ真剣になる。いつもの朗らかな笑顔ではない。その緩急に、私はこの人が好きなんだと思い出す。


 好きというのは、愛とか絆とか大それたものじゃなくて、この人に触られたらきっとドキドキしちゃうなって思うような、初歩的なものだった。


「せ、せめて、電気を消してもらっても……あっ」


 沙希さんの指が、パジャマのボタンを外していく。私は思わず声をあげて、それが恥ずかしくて、口を両手で覆った。


「うん、わかった」


 私の言う通り電気を消してくれた沙希さんは、暗闇の中で、確かに私を見下ろしている。そのまま私に覆い被さる。キスされると思い目を瞑ったが、沙希さんは私の首筋に鼻先を当てて、再びパジャマのボタンを外し始めた。


 本当にこれが現実なのか、分からなくなってくる。普段生活している部屋の中なのに、まるで違う場所に感じた。


 ボタンを外し終えた沙希さんは、私のシャツをめくるとそっとお腹に触れた。沙希さんの手は冷たくて、私は「ひゃっ」と身を縮める。


 私がどこかへ逃げると思ったのか、沙希さんが私の腰を掴んだ。


 沙希さんの手は腰から、私の脇腹へと伸びていき、途中で私の手とぶつかると、指を絡めてきた。


「不安なら、握ってて」


 頷く代わりに、沙希さんの手をギュッと握る。本当に、本当にこれからしてしまうのか。


 ずっと妄想していた非現実的な行為が、こんな日常の延長線上にあるものだったなんて思わなかった。


 沙希さんはおへその周りを指でなぞってきた。その指使いはまるで、筆を使うかのようにしなやかで、私が反応するたび、沙希さんは上目遣いで私の表情を観察する。


 私はそれが嫌で、顔を腕で隠した。


「大丈夫だよ白亜ちゃん。わたしはどこにもいかないよ」


 絡めた指が、互いの存在を確かめ合うように、再び繋がれる。


「ばんざい、できる?」


 こく、と頷いて私は両手を挙げようとする。手を繋いでいたことに気付いて、どうしようと沙希さんを見ると、目が合った。沙希さんは優しく笑うと「ごめんごめん」と、私から手を離した。


 私がばんざいのポーズを取ると、沙希さんは私のシャツを首元まで脱がしていく。下着が露わになっていることに気付いたときには、私の顔はめくれたシャツで隠れていた。


 もう、このままして欲しい。恥ずかしすぎて、顔を見られたくない。


 そんな私の思いもむなしく、沙希さんは手際よく私からシャツを脱がした。


 私の胸はそんなに大きくないし、どっちかというと小さい方だと思う。下着だって、いつ買ったのかすら覚えていない無地の白で、人様に見せられるほどのものでもない。


「白亜ちゃん、すっごくかわいい」


 それがお世辞であろうとなかろうと、関係なかった。


 なんでこんなことになってるんだっけ。このまましてもいいのかな。そんな疑問を全て消し飛ばす。好きな人から受け取る「かわいい」とは、それほどの威力を持っていた。


 沙希さんが褒めてくれるのなら、隠したくない。でも、やっぱり恥ずかしくて見せられない。そんな私の葛藤を表すみたいに、私は自分の鎖骨あたりに手を当てていた。


「本当に、綺麗だよ。白亜ちゃん」


 沙希さんが私の身体を眺める。


「触っていい?」


 声を出そうとしたのに、掠れて声が出なかった。それでも沙希さんには聞こえたのか、手がそっと、私の胸元へと伸びてくる。


 もう、いいや。良い子ぶるのはやめよう。


 だってこれは、私が望んでいたことだ。学校が早めに終わった日は、決まって私はこの部屋で妄想に耽っていた。欲望まみれの夢の世界に浸りながら走る水溜まりは、とても心地良かった。不健全な依存物質のようなものが滲み出るのを自覚しながら、私はその行為にハマっていた。


 そんな風に思い描いていた妄想が、今、現実となったのだ。


 確かに実際身に降りかかると、怖いし、不安だ。でも、もし、この最初の一回目さえ乗り越えられたら。私は沙希さんと、こんなことを当たり前のようにできる関係になれるかもしれない。


「怖い?」


 沙希さんが私の手を再び握ってくる。


「ゆっくりでいいよ。力抜いて」


 肩を撫でられる。どうやら私は、無意識のうちに全身に力を入れていたようだった。ふっと力を抜くと、沙希さんが私の指先に触れてくる。


「綺麗な指。ピアノ弾いてる人って、やっぱり違うね」


 指の形が変形しないように、スマホを持つのは禁止されていたし、学校の授業では跳び箱や球技などがあると必ず見学していた。指を切らないように台所へは近づかせてもらえなかった。


 そんな母の教育は、今思えば、すべてピアノへの影響がないようにだったのだろう。


 私は本当に、ピアノを弾くために生かされていたのだと実感する。そして、母が人生をかけて教えてくれたピアノを、私は弾かなくなった。


 胸が急に、苦しくなる。


 ――入院してて。もう長くないんだって。


 小林こばやしさんの言葉を思い出す。


 沙希さんは、本当にいいのだろうか。仲が悪いとはいっても、たった一人の親なのに。最期に話すこととか、ないのだろうか。してあげたいこと、言ってあげたいこと。たくさん、あるはずなのに。


 私は、山ほどあった。


 母が亡くなるなんて考えてもなかったから、当時は近づきたくもなかったけど。今思えば、伝えたいことは無限にあった。


 一度会っただけじゃ、思いや、感謝は、きっと伝えきれない。だから、最期まで、寄り添うべきだった。そんなことも分からずに、子供だった私は、一度だけ母の見舞いに行って……言ってしまったのだ。


 ――ピアノはちゃんと弾いてる?


「白亜、ちゃん……?」


 ――弾いてない。


 そんな風に答えた。


 私は本当にバカだ。母がどれだけの思いで私にピアノを教えてくれたのかも知らないで。


 嘘でもよかった。実際に弾いていなくてもいい。


 弾いてるよ。


 ピアノ楽しいよ。


 教えてくれてありがとう。


 そう言えばよかったんだ。


「白亜ちゃん……どうして、泣いてるの?」


 母は病室で泣いていた。


 分かりたくもないけど、今なら理由が、少しだけ分かる。


 別に母は、私にピアニストとして生きて欲しかったわけじゃない。ただ、ピアノの楽しさを知ってもらいたかったんだ。


 ピアノに人生を捧げてきた母は料理もできなかったし、家事もかなり疎かだった。


 そんな母が私にあげられるものは、ピアノだけだったのだ。


「ごめんね白亜ちゃん、怖かった? 泣かせるつもりじゃなかったの。わたし……」

「沙希さん」


 後悔が、波のように押し寄せてくる。


 私、またピアノ始めたんだよって教えたら、母はどう思うだろう。


 きっと、泣いて喜ぶはずだ。病室のベッドから飛び起きるかもしれない。


 そんなあったかもしれない過去と未来を、想像する。


 そのたびに、自分の不甲斐なさに涙が出てくる。


 母は死んだ。もうこの世にいない。だからもう、伝えることもできない。


 沙希さんは、お父さんと仲が悪いのかもしれない。小林さんの言う通り、色々あったのかも知れない。


 でも、会ってほしい。


 最期の間だけでも、一緒にいてあげてほしい。


 沙希さんには、後悔してほしくない。


 私は泣きじゃくりながら、声を絞り出す。


「沙希さん……実家に、帰ってください」

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