第4楽章

第27話 才能の証明

 今朝のリビングはとても静かだった。


 おはようございます、と挨拶はしてみたけれど、その後の会話が続かない。沙希さきさんも、そして私も、昨日のことがあったから顔も合わせずらかった。


 焼きたてのトーストにジャムを塗って、それからホットミルクを飲む。髪を結んで、歯を磨いて、靴を履く。行ってきますと言って、沙希さんの返事を待たずに、学校へ向かった。


 まだ、昨晩のドキドキが残っている。すごいことをしてしまった、すごいことをしそうになった。背徳感とはこのことを言うのだとしたら、それは言葉のニュアンスよりもだいぶポジティブば意味合いを持っているように感じた。


 あのまま目を瞑って、沙希さんに身を任せていたら、どうなってたんだろう。


 もったいない……!


 せっかくのチャンスだったんだから、せめて事が終わってもよかったのに。


 そう思いながら、大股で歩く。


 ただ、途中で止めたことで守られたものもきっとあるはずだった。


 学校に着くと、まっすぐ自分の教室に向かう。


 カバンを自分の机に置いて、今日の授業に使う教科書を机の中に入れる。


 倉石くらいしさんは、まだ来ていないようだった。後ろの席だから、教室に入ったときに自然と確認してしまう。


「おはよう喜美きみさん!」


 横から挨拶をしてくれたのは渡辺わたなべさんだった。どうやら渡辺さんはだいぶ前から教室に着いていたらしく、窓際の壁にもたれてこちらに手を降っていた。


「おはよう、渡辺さん。須藤すどうさんと中山なかやまさんは?」

「まだ来ない。たぶんどっちかが寝坊したんだと思う。律儀に待たなくたっていいのにね」

「あ、そうなんだ。メッセージ送ってみたら?」

「いいの、珍しいことじゃないし」


 渡辺さんとは毎日学校で話す。そこまで込み入った話をするわけじゃないけど、手ぶらになったとき、互いに目が合うことが多い。移動教室のときはいつも渡辺さんのグループに混ぜてもらっている。


 私はまだ、メッセージアプリで彼女らのグループに入っている。でも、私からはあまり発言しない。渡辺さんと須藤さん、それから中山さんは昔から仲が良いみたいで、私はそのおまけ、みたいな立ち位置だ。だからあまり、積極的な発言はしないようにしている。


 本当はグループに入らなかった方がいいのかもしれないし、もしかしたら渡辺さんたちも、私をグループに入れたことを後悔しているかもしれない。


 ただ、三人とも私にはよく話しかけてくれる。義務的な会話ではない、と思う。少なくとも、私はそう感じなかった。三人と話す時間はとても楽しくて、明るいみんなの人柄もあって笑顔は絶えない。


「そういえば合唱部どう? 大変じゃない?」

「良い人ばっかりだし、楽しくやってるよ。渡辺さんは? 演劇部、入ったんだよね」

「うん……最初は楽しかったんだけど、最近はうまくいかないことばっかりでちょっと傷心中」


 渡辺さんは困ったように笑った。


「なんていうか、才能ないんだって突きつけられたような気がして。全部が全部、上手くいかないなーって。まぁ寝て起きたらそんなのも忘れちゃうんだけど。我ながら単純な頭で助かるよ」

「そうなんだ。私も、結構、合唱とは関係ないんだけど、悩み事ばっかりで最近は気分が浮かないことが多いんだ」

「もうすぐ梅雨だし、そういう時期なのかな。じめじめすると困るよねー」

「うん」

「でもよかった。そうだよね、みんな悩んでるよね」


 始業十分前になって、須藤さんと中山さんが教室になだれ込んできた。渡辺さんの言う通り、どちらかが寝坊して、どちらかが待たされていた形となっていたのだろう。


 律儀に待たなくていいのに、という渡辺さんの言葉を思い出して、私はくすっと笑った。


 そんな二人の元に、渡辺さんが駆け寄る。ほらね、と言わんばかりに二人を指さして、渡辺さんが私を見て笑う。


 ――全部、巡り合わせなんだよ。


 昨晩、沙希さんはそう言った。


 確かに、今の私があるのは、この学校と、周りの人達のおかげなのかもしれない。


 入学したばかりのときは右も左も分からずに、クラスでひとりぼっちになりそうな私だったけど、渡辺さんたちに話しかけてもらったことでこの教室に馴染むことができた。


 アルバイトや部活、ともかく何かを始めなきゃって思えたのも、渡辺さんたちの影響だ。渡辺さんと須藤さんはずっとやりたかったという演劇部に入って、中山さんは小さい頃から憧れだったカフェでアルバイトを始めた。


 みんな、やりたいことがあって、明日を夢見ている。


「おはよう」


 始業ギリギリになって、ようやく倉石さんが登校してくる。


 倉石さんの後押しがあって、私は沙希さんに自分の気持ちを伝えられた。自分の感情の正体に気付くことができた。


 もし、この人たちに出会っていなかったら、私の未来も変わっていたかもしれない。合唱部に入ることもなく、沙希さんに気持ちを伝えることもなく、ピアノだって、やっていなかったかもしれない。


 ピアノをやらなければ、小林さんにだって会っていない。


 確かにこれは、巡り合わせだ。


 だから、転校させたくないという沙希さんの気持ちも、痛いほど分かる。


 でも、それなら、これからの私の選択だって、巡り合わせのはずだ。


「おはよう、倉石さん」


 挨拶を返す。この人に出会ったのにも、ちゃんと意味があるはずだから。




 部活はだいたい、ホームルームが終わって三十分後に始まる。


 今日は第二音楽室が空いていたので、久しぶりに伴奏ありでの練習ができる。イベントも間近に控えていることもあり、先輩たちはいつもより張り切っているようにも見えた。


「お疲れー、白亜はくあちゃん」


 カバンを置いて楽譜を読んでいると、さっきまで先輩たちと一緒だった佳代子かよこさんが話しかけてくる。


「見て、これ。私も買ったのー、おそろいだね」


 佳代子さんが見せてきたのは、おにぎり柄のクリアファイル。沙希さんが私に買ってくれたものと同じだ。


 心がキュッとした。おそろいにする意味はなんなんだろう。どうして私にいちいち報告してくるのだろう。確かに佳代子さんは、このクリアファイルのデザインを可愛いと言った。だけど、たった一回見ただけで、覚えられるのか。覚えて、わざわざ足を運んで、買ってくるのか。


「はい、そうですね」

「えー、なんか冷たいよー」

「どうしたの? 佳代子」


 私と佳代子さんの会話が気になったのか、近くの先輩が歩み寄ってくる。


「あのねー、私が買ったクリアファイル、白亜ちゃんも同じのを持ってたの! すっごい偶然じゃない!?」


 違う。先に買ったのは、買ってもらったのは私だ。佳代子さんは私の真似をしただけで。


「そうなんだ、いいね! おそろいで姉妹みたい! そういえば名字も同じだしね」


 先輩が何の気なしにそんなことを言う。事情なんか知らないだろうから、それも仕方ないだろう。その瞬間、佳代子さんの表情が一瞬歪む。こちらを一瞬だけ睨む。とても、冷たい視線で。そしてまた、笑顔に戻る。その切り替えの素早さが、私は怖かった。


 きっとこの人は、罪状を突きつけられても、法廷の中で、まるで被害者かのように泣くのだろう。……泣けるのだろう。


「そしたら私がお姉ちゃんだね。白亜ちゃん、今日から私のこと、お姉ちゃんって呼んでいいからね!」


 思ってもいないことを言うときだけ、満面の笑みを浮かべる。この人は、そういう人だ。


 だから私も、それ以上何も言わなかった。愛想笑いを浮かべて、視線を楽譜に戻す。


「見たって意味ないってば」


 去り際、佳代子さんが抑揚のない声でそう言い残した。


 またもや部活開始ギリギリで、倉石さんがやってくる。


 倉石さんは意識してかしないでか、私の隣に腰かけた。


「ねぇ、倉石さん」

「ん?」

「あの話って、まだ有効だよね」

「あの話? ああ、ママの」

「うん、海外留学の。手続きとかも、してくれるって」

「一応ね。ママ、嘘は吐かない」

「支援金も、奨学金制度も出るって」

「そうだね。金額はだいぶ抑えられる」

「わかった」


 小林さんから沙希さんのお父さんの話を聞いたとき、これしかないって思った。


 私が私の意思で、私の力で、生きていく方法。


 海外留学、交響楽団からのスカウト。これさえあれば、沙希さんは私を手放すしかない。


 だって私は、自分で生きていけるだけの力と、才能を持っている。そう証明さえできれば、沙希さんも私を見送って、大人しく実家に帰り、もう長くはないお父さんと最期の一時を過ごしてくれる。


 これが私の計画。


 だけど、これには大前提がある。


 そもそも、私はまだ納得がいってなかった。


 天才ピアニストの娘。受け継がれた音色。そして、ブラームスに最も似た境遇。


 客観的に見て、その要素に惹かれるのはよく分かる。


 じゃあ、肝心の実力は?


 海外留学を提案してくれるのは嬉しい。交響楽団にスカウトしてくれるのだって、その道を行きたい人なら喉から手が出るほどのチャンスだろう。


 でも、はたして、それに見合うほどの実力を、私は持っているのだろうか。


 母が亡くなってから、ずっとピアノは弾いていなかった。年数にして、約五年。


 一日弾かなければ三日分下手になると言われるのがピアノだ。その計算で言うと、私はすでに十五年分下手になっているということだ。


 それほど日々の積み重ねが必要なピアノという楽器を、私は周りの期待に添えるほど弾けるのだろうか。

 

「あの、坂井先生」


 部活動も中盤、個人練習の時間になったときだ。私は教壇から檄を飛ばす坂井先生の元へ向かった。


 ここで証明しなければならない。


 私の持っているものを。


 もちろん、半端ではダメだ。ちょっと上手な程度では、海外留学なんてできない。わざわざ海外へ行って、自分の未熟さを痛感するのは嫌だし、ゆかりさんの名前に泥を塗るのは絶対に避けたい。


 ――だから、凌駕しなければならない。


 ちょっと上手、普通の人より上手。


 そんな実力を、超えて、この場所で、私の才能と実力を見定める。


「前回のオーディションなんですけど、すみません。もう一度だけ、チャンスをくれないでしょうか」

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